【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、筆者であるツベルクリン所有の昔の雑誌を、解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回は、1943年8月4日発行の写真雑誌『写真週報』を読んでいきます。その前編です。
今回ご紹介する雑誌は『写真週報』という雑誌です。戦前の1938年から1945年まで週刊誌として発刊されていました。当時の内閣情報部という国の下部組織が編集していたようです。
毎週水曜日発刊、価格は10銭。100銭=1円。現在のお金の価値に換算すると、10銭は300円前後になります。
今回ご紹介する『写真週報』では、"空襲対応マニュアル"とでも言える内容です。1943年(昭和18年)当時は、まだ本格的な空襲は始まっていない時期でしたが、アメリカ軍による日本本土の空襲が想定されるようになってきたので、空襲の際の対応を詳しく紹介している内容です。
なお、長くなるので最初の前半部分をご紹介します。後半部分は、また次回以降ご紹介します。
<目次>
- 表紙ページ
- 防空必勝の誓い(2ページ)
- 敵機はたえず皇土を狙っている(3ページ)
- ふだんの準備(4ページ)
- 防空壕の作り方、作る場所(5ページ)
- 警報が出たら(6〜7ページ)
- 焼夷弾がおちたら(8~10ページ)
- 火災になったら(11ページ)
- 終わりに…(2020年8月追記)
表紙ページ
表紙の写真は、防空壕に避難している様子を撮影したものです。空襲が本格化するのは翌年1944年の夏以降です。
防空必勝の誓い(2ページ)
先程の表紙を開いたら現れるのがこの「防空必勝の誓い」のページ。いきなり、「欲しがりません勝つまでは…」精神を叩き込まれるわけですね。この五か条を守らない国民は、すなわち「非国民」扱いですよね。
敵機はたえず皇土を狙っている(3ページ)
日本本土の事を「皇土(天皇陛下の土地)」と言っていたんですね。他にも旧日本軍を「皇軍(天皇陛下の軍隊)」なんて言い方もしていました。
「敵機(アメリカ軍)だって必死なんだから、日本をいつも狙っているぞ‼︎ 気を抜くなよ‼︎」というメッセージです。空襲に備えた防災服装を写真付きで解説しています。
ところで、当時の日本では敵国の言語だとして、英語の使用が不適切とされていました。
英語から日本語への書き換えが行われていたんですが、写真の中では「ヘルメット→鎧兜(よろいかぶと)」と無理矢理日本語で書かれています。鎧兜って、戦国時代かな?
なお、ズック靴のズックはオランダ語が語源だからセーフ(なお当時はオランダとも戦争中)。
ふだんの準備(4ページ)
空襲はまだ襲ってないけど、準備は怠らないように!というのがこのページ。
とりあえず水を準備しとけや!というのが主眼で、用意する水の量も具体的に述べられています(家の面積15坪で水100リットル、それより広い家は10坪増えるごとに水50リットル)
今でも、戦時中に設置された防火水槽が残っている所もあります。そして残念ながら、アメリカ軍が投下する焼夷弾の威力の前には、どれだけ水があったって全然足りなかったんですけどね‥。
防空壕の作り方、作る場所(5ページ)
この雑誌によると、自宅の床下もしくは敷地内に作るよう指示されています。
日本政府は、これより前に防空体制についての方針を転換しており、国民に対し「空襲の際の消火活動義務」「空襲の際の退避不可」を定めています。逃げずに消火活動しろってことです。
すなわち、防空壕とは逃げる場所ではなく、爆弾が落ちてくるまで「待避」する場所にしか過ぎないのです(待避所って雑誌にも書いてます)。雑誌の中の文章でも「なるべく出やすいように」と防空壕を掘る際の注意を記載しています。
この後、実際に日本国中が空襲に襲われますが、待避所から出て消火活動しようとした所で、すでに周りは火の海で手遅れだったケースが多かったと思います(おそらく、日本の想定の何倍もの焼夷弾をアメリカ軍は投下したものと思われます)。
しかしながら、空襲が襲ってきたって逃げちゃダメとかヤバいでしょ。当時の東京にも地下鉄が運行されていたのですが、地下構内への避難は固く禁じられました。『逃げるな!火を消せ!』の精神です。同じ空襲でも、イギリスがドイツからの空襲に逃れるために、市民を地下鉄駅に避難させたのとはエラい違いです。
また、床下に防空壕を作ってしまったため、自宅が火事で防空壕から出れなくなり生き埋めになってしまったケースも考えられます。
警報が出たら(6〜7ページ)
いよいよアメリカ軍の航空機が襲来、という際には空襲警報が出されるようになっていました。空襲警報には「警戒警報(空襲の恐れがあるとき)」と「空襲警報(空襲の危険が高まっているとき)」の2段階ありました。それぞれの警報が出された際の行動についてまとめられています。
そして、監視員がアメリカ軍航空機を発見すると、大声で知らせ防空壕(先ほどの待避所)へ町の人を"待避"させたのです。
下の写真のような物見やぐらの建物は「防空監視哨(ぼうくうかんししょう)」といって、現在でも古いビルの上に残されていたりします。監視員は、防空監視哨からアメリカ軍の動向を見ていたんですね。防空監視哨 - Wikipedia
こちらは、福岡県北九州市に残されている防空監視哨。
焼夷弾がおちたら(8~10ページ)
8ページからは、焼夷弾が落ちてしまった後の対処について書かれています。本格的な空襲を受ける前の段階で、日本はアメリカ軍が焼夷弾を落としてくるであろうことを予測していたんですね。
上の写真の左側ページでは、焼夷弾の種類別の対応を書いています。
焼夷弾の種類としては
①エレクトロン焼夷弾(マグネシウム高配合、激しく光るので爆撃目標の目印代わりに投下された)
②油脂焼夷弾(皆さんが想像する焼夷弾はこれ。油脂が配合されているので激しく燃える)
③黄燐(きりん)焼夷弾(科学固形物の黄燐を使った焼夷弾。黄燐は自然発火する)
どんな焼夷弾においても、「燃えだしてから最初の1分間が大切」と早期の消火活動を促しています。焼夷弾が自宅に落ちても、逃げてはいけないと説いています。
ここで気になるワードが出てきたので解説します。「隣組(となりぐみ)」です
5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、配給、空襲での防空活動などを行った(ウィキペデアより引用)
今でいう町内会のようなグループですが、「戦時下住民同士協力しあって(監視しあって)お国のために尽力せよ」という意味合いも含まれていました。
空襲の際の消火活動も隣組単位で行われる前提だったんですね(実際の空襲の際は、消火活動どころの話ではありませんでしたが‥)
火災になったら(11ページ)
最初の消火活動が間に合わず、家全体に燃え移ってしまった場合の対応ですが、基本的なスタンスは「消防団が来るまで、自分たちで消火活動せよ」というものです。家に火が移ったとしても逃げずに消火活動にいそしめ、ということです。
消火の方法も「できるだけ接近して水をかけることが必要である」とさえ言っています。いや、もう本当に逃げていただきたい(;・∀・)
終わりに…(2020年8月追記)
戦時中の雑誌を見ることで、戦時下の人々の暮らしの様子が少しだけでも見えてくる気がします。戦争体験者が年々少なくなってきている現在、こういった史料は後世の私たちに戦時下の暮らしを伝える大事な史料になってきますね。
この記事を最初にアップしたときは、まだまだアクセス数や読者数が少なくてあまり読んでもらえていません。アップしている内容は非常に興味深いものだと勝手に思っているので、リライトを機に少しでも多くの方に読んでいただけたら幸いです。
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