日常にツベルクリン注射を‥

現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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【時には昔の雑誌を‥】1943年写真週報より(前編)

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記事のタイトル、某ジブリの主題歌からパクった引用させて頂きました。

 

社会科の先生として勤務していたころ、授業で使えそうな教材を探していた時代が私にもありました‥。

 

その頃収集していたものに「昔の雑誌」がありました。今では、使われずに(ってか授業でも使わなかったんだけど笑 )押し入れに眠っています。

 

 

もったいない。

このブログを通して皆様にもご覧いただけたらと思います(´・ω・`)

 

 

今回ご紹介する雑誌は『写真週報(しゃしんしゅうほう)』という雑誌。

 

1938年から1945年まで週刊誌として発刊されていました。当時の内閣情報部という国の下部組織が編集していたようです。

 

毎週水曜日発刊、価格は10銭。100銭=1円。

現在のお金の価値に換算すると、10銭は300円前後になるそうです。

 

念のため雑誌の写真には、ツベルクリン所有ということを示すために“www.tuberculin.net”とブログのURLを載せてます。あらかじめご了承ください。

 

なお、長くなるので最初の前半部分をご紹介します。

後半部分は、また次回以降ご紹介します。

 

<目次>

 

 

表紙ページ

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今回紹介している『写真週報』は、1943年8月発行の283号です。

1943年(昭和18年)とは、どんな年かまとめると…

 

「前年より日本はアメリカ軍に押されており、この年には学徒動員(それまで兵隊に行くのを猶予されていた大学生が動員されたこと)が始まってしまう。人々の暮らしも苦しくなり始めていたが、まだ本格的な空襲は始まっていない」

 

ぐらいの年だと思われます。

 

しかし、当時の日本政府も近い将来、アメリカ軍が日本に対し本土空襲を仕掛けてくるとの予想をしていました。

 

もちろん、露骨に言うと不安を煽るし、日本が押されていることを認めることになるので、

もちろん日本は破竹の勢いで勝ってますよ‼︎(本当は負けてる)  でもね、やはりアメリカも必死だからもしかしたら日本(雑誌中では皇土と言っている)に空襲してくるかもしれん‼︎」

 

ぐらいのニュアンスで国民に呼びかけたのが、この写真週報という雑誌です。

 

 

この写真週報では、「空襲が始まった時に、どう行動すべきか?」「空襲で被害にあったら、国民の生活はどうなるか?」について、写真入りで解説されています。(解説通りになったとは言ってない)

 

表紙の写真は、防空壕に避難している様子を撮影したものです。この時点ではまだ空襲の避難訓練です。空襲が本格化するのは翌年1944年の夏以降です。

 

 

 

防空必勝の誓い(2ページ)

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先程の表紙を開いたら現れるのがこの「防空必勝の誓い」のページ。

 

いきなり、「欲しがりません‼︎ 勝つまでは…」精神を叩き込まれるわけですね。

この五か条を守らない輩は、すなわち「非国民」扱いですよね。

 

 

敵機はたえず皇土を狙っている(3ページ)

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日本本土の事を「皇土(天皇陛下の土地)」と言っていたんですね。他にも旧日本軍を「皇軍天皇陛下の軍隊)」なんて言い方もしていました。

 

敵機(アメリカ軍)だって必死なんだから、日本をいつも狙っているぞ‼︎ 気を抜くなよ‼︎」というメッセージです。

 

空襲に備えた防災服装を写真付きで解説しています。

 

ところで、当時の日本では敵国の言語だとして、英語の使用が不適切とされていました。

 

英語から日本語への書き換えが行われていたんですが、写真の中では「ヘルメット→鎧兜(よろいかぶと)」と無理矢理日本語で書かれています。

 

鎧兜って…戦国時代ですかね(=´∀`)

 

なお、ズック靴のズックはオランダ語が語源だからセーフ(なお当時はオランダとも戦争中)

 

ふだんの準備(4ページ)

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空襲はまだ襲ってないけど、準備は怠らないように‼︎  というのがこのページ。

 

とりあえずを準備しとけや‼︎ というのが主眼で、用意する水の量も具体的に述べられています(家の面積15坪で水100リットル、それより広い家は10坪増えるごとに水50リットル)

 

今でも、戦時中に設置された防火水槽が残っている所もあります。

 

 

防空壕の作り方、作る場所(5ページ)

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この雑誌によると、自宅の床下もしくは敷地内に作るよう指示されています。

 

日本政府は、これより前に防空体制についての方針を転換しており、国民に対し「空襲の際の消火活動義務」「空襲の際の退避不可」を定めています。逃げずに消火活動しろってことです。

 

すなわち、防空壕とは逃げる場所ではなく、爆弾が落ちてくるまで「待避」する場所にしか過ぎないのです(待避所って雑誌にも書いてます)

 

雑誌の中の文章でも「なるべく出やすいように」と防空壕を掘る際の注意を記載しています。

 

この後、実際に日本国中が空襲に襲われますが、待避所から出て消火活動しようとした所で、すでに周りは火の海で手遅れだったケースが多かったと思います(おそらく、日本の想定の何倍もの焼夷弾アメリカ軍は投下したものと思われます)

 

また、床下に防空壕を作ってしまったため、自宅が火事で防空壕から出れなくなり生き埋めになってしまったケースも考えられます。

 

警報が出たら(6〜7ページ)

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いよいよアメリカ軍の航空機が襲来、という際には空襲警報が出されるようになっていました。

空襲警報には「警戒警報(空襲の恐れがあるとき)」と「空襲警報(空襲の危険が高まっているとき)」の2段階ありました。それぞれの警報が出された際の行動についてまとめられています。

 

そして、監視員がアメリカ軍航空機を発見すると、大声で知らせ防空壕(先ほどの待避所)へ町の人を"待避″させたのです。

 

下の写真のような物見やぐらの建物は「防空監視哨(ぼうくうかんししょう)」といって、現在でも古いビルの上に残されていたりします。監視員は、防空監視哨からアメリカ軍の動向を見ていたんですね。防空監視哨 - Wikipedia

 
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焼夷弾がおちたら(8~10ページ)
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8ページからは、焼夷弾が落ちてしまった後の対処について書かれています。

 

本格的な空襲を受ける前の段階で、日本はアメリカ軍が焼夷弾を落としてくるであろうことを予測していたんですね。

 

上の写真の左側ページでは、焼夷弾の種類別の対応を書いています。

 

焼夷弾の種類としては

エレクトロン焼夷弾マグネシウム高配合、激しく光るので爆撃目標の目印代わりに投下された)

②油脂焼夷弾(皆さんが想像する焼夷弾はこれ。油脂が配合されているので激しく燃える)

③黄燐(きりん)焼夷弾(科学固形物の黄燐を使った焼夷弾。黄燐は自然発火する)

 

どんな焼夷弾においても、「燃えだしてから最初の1分間が大切」と早期の消火活動を促しています。焼夷弾が自宅に落ちても、逃げてはいけないのです。

 


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ここで気になるワードが出てきたので解説します。

隣組(となりぐみ)」です


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隣組 - Wikipedia

5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、配給、空襲での防空活動などを行った(ウィキペデアより引用)

 

今でいう町内会のようなグループですが、「戦時下住民同士協力しあって(監視しあって)お国のために尽力せよ」という意味合いも含まれていました。

 

空襲の際の消火活動も隣組単位で行われる前提だったんですね(実際の空襲の際は、消火活動どころの話ではありませんでしたが‥)

 

 

火災になったら(11ページ)


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最初の消火活動が間に合わず、家全体に燃え移ってしまった場合の対応ですが、基本的なスタンスは「消防団が来るまで、自分たちで消火活動せよ」というものです。家に火が移ったとしても逃げずに消火活動にいそしめ、ということです。

 

消火の方法も「できるだけ接近して水をかけることが必要である」とさえ言っています。

 

まとめ

戦時中の雑誌を見ることで、戦時下の人々の暮らしの様子が少しだけでも見えてくる気がします。戦争体験者が年々少なくなってきている現在、こういった史料は後世の私たちに戦時下の暮らしを伝える大事な史料になってきますね。

 

次回以降、後半部分をご紹介いたします。

 

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