【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、筆者であるツベルクリン所有の昔の雑誌を、解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回取り上げるのは『週刊少国民』1942年6月21日号です。その前半部分を見ていきます。
『週刊少国民』とは、朝日新聞社が1942年に創刊した小学生向けの写真週刊誌です。当時の世相が(小学生向けなので)分かりやすく描かれています。非常にページ数が多いので、前半と後半に分けて見ていきたいと思います。
<目次>
表紙ページ
前回の雑誌(過去記事参照)は、表紙が少女でしたが、今回は少年です。『田植えに精を出す少年』としか説明が無く、それ以上のことは分かりません。
副題が『僕らもはげもう銃後の増産』とあります。「銃後(じゅうご)」という言葉は現在馴染みが無い言葉ですね。意味は戦争に直接参加していない国民の事をいいます。
実際に戦っているのは成年男子ですが、女性や子供も国内から兵器や食糧を生産して兵隊さんをバックアップしようとする意識が高まっていたんですね(これは日本だけではなく、アメリカ国内でもそうでした)
海軍魂
大正、昭和時代に活躍をした詩人、北原白秋先生が作詞された『海軍魂』が載せられています。北原白秋は、前週の6月14日号にも作詞した曲が掲載されています。
『海軍魂』の歌詞なんですが
♬皮を斬らして肉を斬り
肉を斬らして骨を斬る
必殺の剣君知るか
これだ、この肝、この捨て身。
あまりそういうイメージは無いですが、北原白秋はバリバリの右翼系ではないかと察します。戦後も生きておられたら、戦争を煽った極悪人としてアメリカ軍から摘発されそうではありますが、この年の11月にお亡くなりになってます。
この辺りは、今現在では北原白秋の「無かった部分」として扱われてる感があります。
わが攻撃精神(皮を斬らせて肉を斬る)
このページでは、1942年6月5日に行われたミッドウェー海戦に関する情報を書いています。
記事の内容を記すと
「ミッドウェーでは、わが方も不幸空母1隻を失ったが、アメリカの空母4隻はすでに海底の藻屑と消え、今また2隻を奪ったのだから、アメリカ海軍の残りの力では、もはや太平洋をどうすることもできない。太平洋全域を支配する権利が完全にわが手に帰したのだ」
「わが空母1隻を失ったのは残念だが、これは皮を斬らせて肉を斬るー日本の武士道の強い精神の現れである。この攻撃精神さえあれば、大東亜戦争(太平洋戦争)は必ず勝ち抜けるのだ。」
まずミッドウェーの場所(*'▽')
出典:https://gakuen.gifu-net.ed.jp
ちなみに「空母(くうぼ)」とは下写真のように、戦闘機を離発着させることが出来る軍艦のことを言います。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/航空母艦
海戦の場合、主力となる軍艦です。
それをふまえて解説します。まず記事中の「アメリカの空母4隻はすでに海底の藻屑と消え」の部分。これは1941年12月8日の真珠湾攻撃によって失った空母のことを示しています。
そして、「今はまた2隻奪ったのだから」の部分。これは、今回のミッドウェー海戦で沈没させたアメリカ軍の空母の数です。
まとめると、ミッドウェー海戦において
日本軍‥空母1隻失う
アメリカ軍‥空母2隻失う
結果:日本の勝利
みたいに書いています。
では、Wikipediaさんで調べてみましょう。
日本軍‥空母4隻失う
アメリカ軍‥空母1隻失う
結果:アメリカの勝利
あれれ~『週刊少国民』と書いてることが違うよ(名探偵コナン風)
もちろんWikipediaさんの方が正しいです。ミッドウェー海戦において日本は空母4隻失うという致命的な損害を受け、以降太平洋戦争はアメリカ軍の優勢に傾いていきます。つまり、『週刊少国民』はウソをついています!!
というより、『週刊少国民』だけではなく、日本の決定的大敗北は国民には知らされず新聞各社も軒並み「日本の勝ち」と報道しています。日本軍にとって不都合な情報は知らされず、新聞各社はおろか日本軍の中でも正しい情報は伝わらなかったとされています。
ミッドウェー海戦以降、日本軍は負け続けるのですが、国民には正しい情報が伝わることはありませんでした。まあ、末期になると薄々と日本軍の劣勢には気づいてはいたらしいですけど‥。
週間の動き
蒋介石がむりに徴兵
『週刊少国民』は文字通り週刊なので、今週の世界の動きを記したコーナーもあります。当時、日本は中国とも戦争をしていました。中国側の指導者は蒋介石です。
記事では、
「民衆をむりやりに兵隊にしようとしている。ところがこういうやり方には(中略)人民たちが大へん反対しているので、蒋介石の計画もただむやみに人の心をかき乱すばかりで、実際には行われないだろうといわれている」
とあります。
まるで、日本はむりやり兵隊にしていないみたいな書き方ですが‥。
ちなみに、蒋介石がむりやり人民を兵隊にしようとしたのは事実です。
「兵員の募集では、戸籍が整備されていなかったので恣意的な徴兵が行われ、兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。(Wikipedia国民革命軍のページより引用)」
なので、
「兵士による一般市民への暴行、レイプも頻繁に起き、殺人も珍しくなかった(Wikipedia国民革命軍のページより引用)」
とのことです。
あわてて軍事会議
6月10日に行われた太平洋軍事会議についての記事です。記事中の文章を拾うと
「10日、ルーズベルト大統領(当時のアメリカ大統領)はワシントンに太平洋軍事会議を開いていろいろ相談した」
「イギリス、カナダ、ニュージーランド、、豪州(オーストラリア)、重慶(中国政府のこと)、逃げた蘭印政府の代表がそれぞれ集まったが、負け戦を今さらどうしようもなく、どんな風に発表したら、各国の国民に本当のこと(戦争に負けていること)を隠し通せるかを、相談したと言われている」
この会議についての詳細は残念ながら不明です。
1つ言えるのは、1942年6月以降、日本軍はアメリカ軍に負け続けるのですが、国民には一切教えませんでした。本当のことを隠しているのは日本側なのです。まさに、ブーメラン記事と言えます。
四股をふむインド(さあ独立の立ち上がりへ)
インドは1942年当時、イギリスの支配下に置かれていました。しかし、イギリスは当時日本だけではなくドイツとも戦っていたのでインドの支配力を維持する能力を失いつつありました。記事中では、
「最後のよりどころとたのむインドもまた、200年の眠りから覚めて、イギリスの支配からはなれようとしている。インドはいま、地球の土俵の上で力強い四股をふんでいるのだ」
とあります。イギリスからの独立運動がさかんになってきたんですね。
ところで、インドの独立運動家として有名な人が2人います。ガンジーとネルーです。ガンジーは「インド独立の父」といわれている人物(のちにインド独立直後に暗殺されますが‥)。ネルーは、インド初代首相です。2人について記事中の文章を見てみましょう。
「ガンジーは国民会議派の有力な長老として″イギリス人よ、インドから引き下がれ”とか″イギリスのためにインド兵を募集するのはまっぴらだ”などと、ガンジー独特の不服従運動をさらに声を大きくして叫んでいる」
「ところが同じ国民会議派のネルーがインド兵でインド軍を強くすることを主張しているので、イギリスはこれ幸いと、ガンジーとネルーの意見は食い違っているなどと盛んに言いふらして2人の仲を裂こうとしているが、」
「ネルーは数日前会見して″自分はガンジーの反英(反イギリス)の主張を心から支持する”と語っているほどで、2人の仲が悪いと言ってインドの大衆を騙そうとしたイギリスのたくらみは、すっかり水の泡となった」
まず、「国民会議派」とは、当時(ぞして2019年現在も)インドの有力な政治グループをいいます。ガンジーもネルーも国民会議派だったのです。
ガンジーは「不暴力」「不服従」スローガンとして掲げていました。「イギリスに従わない、でも武力に訴えることはしない」という意味です。これに対し、ネルーはあくまで武力によって独立を勝ち取ることも視野に入れているので、2人の意見は違うのです。
よく、支配している側が支配している地域の独立や反抗を防ぐため、仲違いを仕組むことはようありがちです。イギリスも「ネルーとガンジーは仲が悪い」と宣伝していたようです。
なお、2人の様子
出典:
マブダチじゃん(´・ω・`)
なお、1942年8月9日に、ガンジーとネルーは独立運動が「イギリスへの反抗」とみなされイギリス政府により逮捕、投獄されてしばらく独立運動ができなくなります。
2人が投獄されている間、インドのチャンドラ・ボースという人物が日本と協力しながら独立運動を推し進めるのですが、42年以降日本軍はアメリカ&イギリス軍の前に劣勢に立たされていき、日本とインドは共倒れみたいな感じになります。ネルーによってインドの独立が宣言されるのは、日本の敗戦後、1947年8月のことです。
逃げる敵を挟み撃ち(中支の皇軍快進撃)
さっきのインドの記事と並ぶ形で、日中戦争の記事も書かれています(*'▽')
「中支(ちゅうし)」という単語が出てきます。中国の中部地方であり、今現在は「華中」と呼んでいます。
とりあえず、記事では「中国軍弱すぎるわww 日本軍の快進撃は続くで!」と言ってます。記事中の文章を拾います。
「このように、立派な軍備と機動力で、まるで人間技とは思われぬ速い皇軍の攻撃に、慌てふためいた敵は、食糧庫も何もかも、そのままにして山中に逃げ込んでしまった」
「おかげで、わが軍は有り余る敵の食糧で悠々戦力を養いながら進撃を続けている」
日本軍は、兵士の食糧に関して基本的には「現地調達せよ」としていました。これは、19世紀末の日清戦争(1894年の日本と清との戦争)において、当時の清国(現在の中国)の兵士が、食糧を置いて逃げるのを見て「外国との戦争の場合、現地調達でよくね?」と考えたのがきっかけです。
記事にあるように、中国との戦争中、日本軍が食糧不足に陥ることはあまり無かったようです。(ちなみに、南の島の戦闘では現地調達では食料が足りず餓死者が続出した模様)
当時の中国軍の指導者は蒋介石ですが、蒋介石の方針として「日本軍との戦争は本気出さない。本気出すのは中国共産党との戦争の方やで!!」というものでした。
というのも、中国は蒋介石率いる「国民党」グループと、毛沢東率いる「共産党」グループに分かれていました。
毛沢東さん
出典:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
日中戦争がはじまる前は、国民党と共産党は内戦をしていましたが、日本という「共通の敵」が現れたので、とりあえず手を組んでいたのです。これを「国共合作」っていいます。テストにたまに出ます
とりあえずなんで、日本との戦争が終わった後、蒋介石は再び共産党と戦争することを見据えていました。なので、日本軍に対してはちょっと戦ってすぐ逃げる戦法で兵力を温存していたのです。
日中戦争は、結局中国の粘り勝ちという結果になります。蒋介石が本気出さなかったのに粘り勝ちできた理由は
①日本は蒋介石軍だけでなく毛沢東軍とも戦っていたので大変だった
②中国は広く、日本軍は占領した地域の維持にも兵力を割かないといけなかった
③裏からアメリカ軍が中国を支援していた
などがその理由として挙げられます。
なお、1945年に日本が無条件降伏した後「さあ待ってました(*^▽^*)」といわんばかりに、蒋介石軍と毛沢東軍は内戦を再開。毛沢東が勝ち共産党中心の「中華人民共和国」の建国を宣言。蒋介石は台湾へ逃げます。
終わりに…
次回は後半をお届けします。後半部分はこちらです。
※2021年9月リライト済み