受験生の皆さん、大学入試センター試験まであと1週間を切りましたね♪ 最後の追い込み頑張ってください(o^^o)
【学校で教えてくれない社会科】シリーズは、
試験に出ない無駄な社会科をお伝えしていく記事です。
ですから、受験生の皆さんもこの記事を読めば『あっ‼︎ この内容は試験に出ないんだな♪』というかことが分かり、試験勉強がはかどりますね(´・ω・`)
例えば、このシリーズの3時間目において「国王になる方法」というテーマで記事を書きました。
こういうのは試験に出ません♪
それを踏まえて、今日の5時間目の授業を進めていきます。
今回のテーマは「残念な歴史人物」です。
授業で出てくる歴史人物は、偉大な功績を残している「立派な歴史人物」ばかりです。
しかし、中には「残念な」歴史人物もいらっしゃいます。そういう人物にスポットを当てていきます。
<目次>
死に方が残念な四条天皇
彼の残念さは、その「死に方」に集約されています。
その残念っぷりを語る前に、当時の状況をお伝えしていきます。
承久の乱
1221年に「承久の乱」という戦いが起きます。
この戦は、当時の朝廷において、天皇を引退し「上皇」という地位にいた後鳥羽上皇という人物が鎌倉幕府を倒すために挙兵した戦です。
うろたえる鎌倉幕府の御家人を前に、初代鎌倉幕府将軍の源頼朝の妻、北条政子が「頼朝公のご恩は山より高く、海より高いのです」という名演説をかまし、見事朝廷軍を破ったのです。
この結果、鎌倉幕府は戦いに関わった皇族を処罰します。
出典:ja.wikipedia.org/wiki/四条天皇のページの系図を編集
分かりやすいように、系図を示しておきます。
赤い枠内が処罰された「承久の乱グループ」です。
天皇即位
鎌倉幕府は、乱を起こした首謀者の後鳥羽上皇と血のつながりのない天皇を新しく擁立します。それが、後堀河天皇です。
そして、後堀河天皇の息子が残念な四条天皇です(系図上ピンク丸)
後堀河天皇は身体が弱く、息子が4歳の時に死んでしまいます。
まさに「生まれながらの天皇」です(´・ω・`)
しかし、四条天皇はわずか12歳でこの世を去ります。その去り方が残念なのです。
四条天皇「女房(女性の家来)を驚かせたいな(*^▽^*)。よし、床に滑りやすい石を置いて女房を滑らせよう!!」
四条天皇「設置完了!! ちょっとチェックするで(´・ω・`)」
つるっ!!
四条天皇「あかん!!自分が滑ってもうたで!!ほなさいなら(´・ω・`)」
自分で仕掛けた滑りやすい石に自分で引っかかってしまい、頭を強打。
それが致命傷となって死んでしまいます。残念です。
四条天皇にはもちろん子供がいません。滑って転んでお家断絶です(´・ω・`)
ラッキーボーイもいます
ちなみに、四条天皇は残念ですが、逆にラッキーボーイがいます。系図上オレンジの後嵯峨天皇です。
彼のおじいさんは、かつて鎌倉幕府に反抗した後鳥羽天皇です。鎌倉幕府が健在なうちは絶対に天皇にはなれません。反抗した人物の孫なのですから。
しかし、四条天皇が滑って転んで死んだので、残っている皇族が邦仁王(後のご嵯峨天皇。系図オレンジ丸で囲んだ人物)しかいなくなりました。
鎌倉幕府「しかたない、幕府に反抗した憎い後鳥羽上皇の孫だけど、天皇に擁立するわ(´・ω・`)」
と、本来は絶対に天皇になれるはずがない位置にいて当時ニートみたいな生活をしていた邦仁王が天皇に即位、「後嵯峨天皇」となったのです。
残念な歴史人物の裏にはラッキーな歴史人物もいるのです。
無能で残念な織田信雄
よく「初代は立派だけど2代目はポンコツ」「2世タレントは所詮親の七光り」みたいに言われることがあります。父親が偉大だとその息子に対する周囲の目線には厳しいものがあります。
織田信雄(おだのぶかつ 1558年~1630年)は、織田信長の次男です。
織田信長はいわずもがな日本史における超有名人です。
織田信雄は、「無能すぎて残念」な武将なのです。彼の無能な功績(?)を追っていきましょう。
北畠家の養子になる
次男である信雄は、1569年、当時の伊勢国(今の三重県)を支配していた北畠家に養子に入ります。もちろん、父親の信長が北畠家に「俺の息子を養子にしてくれるよね(#^ω^)」と圧力をかけたのです。
自分の息子を養子にすることで、北畠家を乗っ取ろうと信長は考えたのです。
(※ちなみに信長の長男、信忠は織田家の後継者となることが決まっていました)
強い大名家が、弱い大名家に息子を養子として差し出し乗っ取りを画策することは、戦国時代の常套手段でした(´・ω・`)
勝手に伊賀攻め
北畠家に養子に入り伊勢国を自分の物とした信雄は、「伊賀も欲しいな(´・ω・`)」と思うようになります。
伊賀は現在の三重県北西部に位置するエリアです。
1579年6月、信雄は父親の信長に相談することもなく勝手に伊賀へ攻撃をします。
1万人の兵隊を率いていました。
ところで、伊賀はイラストやの画像を載せているように「忍者の里」です。
当時の伊賀は「伊賀衆」という忍者集団が支配をしていました。
攻撃を仕掛けてきた信雄軍に対し、伊賀衆はゲリラ戦法や奇襲をしかけまくり信雄軍を撃退します。この時の戦いで、信長お気に入りの家来、柘植保重(つげやすしげ)が戦死してしまいます。早い話が、1万人だけの兵力じゃ伊賀を落とすのは無謀だったわけです。
敗戦を聞いた父親の信長は激怒( ゚Д゚)
信長「勝手に戦をしかけるとはけしからん、若気の至りか」
信長「しかも、大事な柘植保重まで失うとは言語道断!!」
信長「親子の縁を切るようなことにもなるであろう」
まさに、″絶縁状"ともいえる手紙を信雄に送り付けます。
まあ、激怒するんですけども信長という人物は結構身内に″甘い”のです。
2年後、信長指導のもと、信雄に伊賀攻めリベンジを行わせます。
今度は5万人の兵隊を貸してあげて、信雄を指揮官に据えて無事伊賀を平定します。
信長は再チャレンジを応援する人だったのですね(*'▽')
本能寺の変後の迷走っぷり
1582年、本能寺の変が起こります。
織田家の家来明智光秀が、主君織田信長とその長男信忠を襲い滅ぼしたのです。
言い方悪いですが、本能寺の変は信雄にとっては「チャンス到来」なのです
信雄にとっては、父親とお兄さんがいなくなった今、織田家の後継者に一番近いのは次男の自分なのです。ここで、明智光秀を「父親の敵討ちやで!!('Д')」と討ち果たせば、織田家の後継者となり天下は自分のものとなるのです。
しかも、本能寺の変が起こった直後、信雄は伊勢にいたのです。本能寺がある京都まで近く、その気になれば3~4日で光秀軍を攻撃できる距離にいました。
しかし、ちんたらしている間に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を撃破してしまいます。
信雄『しゃあない、とりあえず織田家本拠地の安土城を押さえとくわ(´・ω・`)』
信雄は態勢を整えるために、織田家の本拠地安土城へ入城します。この行動は無能な割には有能な行動といえます。
問題は、間違って安土城を火事にしちゃったことです(*^▽^*)
『織田信雄は普通の人よりも頭が悪い』
と記録に残しています。
安土城を燃やしちゃった信雄は、仕方なく本拠地の伊勢へ撤退します。
めげずに後継者に立候補
秀吉が光秀を打ち破った後、織田家の家来同士で織田家の後継者を誰にするか、会議が行われました(これを清須会議といいます)
織田信雄『はいはーい!織田家の後継者に立候補しまーす(*'▽')』
羽柴秀吉『やはり、亡き信忠公の遺児である三法師丸(当時3歳)が後継者となるのが筋であろう』
柴田勝家『いやはや、信長公の三男、信孝殿が優秀でおじゃる』
織田信雄『‥‥』
信長次男の信雄の存在は無視され、結局、明智光秀を破った秀吉の意見が通り、織田家の後継者は信忠の長男(信長の孫にあたる)三法師丸に決まりました。3歳児に信雄は負けたのです(´・ω・`)
信雄と秀吉
出典: ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
秀吉の当初の目論見としては「3歳の三法師丸を後継者にするけど、自分が後見人としてその地位を確立する」というものでした。
しかし、いかんせん三法師丸は「バブー('ω')」しか言えないので、秀吉は「ものが言えるあやつり人形」の存在が欲しくなりました。
秀吉『どこかに、あやつり人形おらへんかな~』
信雄『‥‥』
秀吉『‥‥おったわ(∩´∀`)∩』
秀吉は、信雄に接近します。あやつり人形の信雄とタッグを組み、ライバルである柴田勝家&織田信孝グループに対抗します。
両者が激突したのが賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い。
秀吉&信雄グループが勝ち、勝家&信孝グループは滅ぼされます。
ライバルであった勝家&信孝グループの滅ぼした秀吉。ここにきて、秀吉は自らが天下を取ることを視野に入れて動き出します。
秀吉『もうワイだけで天下狙えるわ(∩´∀`)∩ 信雄さんはポイーで(´・ω・`)』
無能な信雄も「自分の立場がヤバイ('Д')」ということに気づきました。
無能なりに考えて、ある人物に助けてもらうことにします。
それが「徳川家康」だったのです。
信雄と家康
徳川家康は当時、現在の長野、山梨、そして東海地方を支配下に置く強力な大名でした。
家康としても、とりあえずこのあたりで秀吉を叩いておいた方が得策と考え、信雄とタッグを組み秀吉に戦いを挑みます。「小牧・長久手の戦い(1584年)」といいます。
「織田家を乗っ取ろうとする反逆者である秀吉を討つ」という名目で信雄&家康は出陣しました。
秀吉最大のピンチでした。秀吉に従わない勢力もまだ各地にいて、戦いの結果いかんでは秀吉の立場が危ういものとなる可能性もありました。
家康軍は、各地で秀吉軍を打ち破り戦いを有利に進めていました。
一方、信雄は戦が下手くそで家康の足を引っ張りまくっていました(´・ω・`)
そこで、秀吉は一計を案じます。
秀吉「家康は強いわ(´・ω・`) よっしゃ、信雄と停戦交渉してみるか‥」
秀吉「信雄殿、領地少し分けてあげるから戦争止めにしません?」
信雄「え!!領地くれるの! よっしゃ停戦や!!」
家康「えぇ‥(困惑)」
信雄は家康に相談せずに、勝手に秀吉と和平を結びます。
「秀吉と一緒に戦ってくれませんか(´・ω・`)」とお願いしてきた信雄が秀吉と和平を結んでしまったので、家康は困惑しつつも兵を引きます。
基本的に信雄は「報告、連絡、相談」ができない人物のようです(´・ω・`)
そのあとの信雄
信雄は秀吉から領地を分けてもらい、100万石の領地を持つ大名になっていたのですが、秀吉と和平を結んだあとの信雄は、あいかわらず無能ぶりを発揮しまくります。
〇家康が東海地方から関東へお国替えになった際、家康の旧領地の東海地方への国替えを秀吉から命じられた信雄。東海地方は150万石の領地だったので、承知していれば領地アップだったのに、「イヤだ(´・ω・`)」と拒否。秀吉激おこ、信雄の領地を全没収してしまいます。
〇家康の仲介で、秀吉に許してもらい1万石の領地をもらう。でも、100万石→1万石って‥(´・ω・`)
〇秀吉死後の勃発した関ヶ原の戦いの際、大阪でボーっとしてたら、反家康側とみなされてしまい、家康より領地没収。
さんざん無能ぶりを発揮しますが、
〇1614年に起こった大坂夏の陣(徳川家と豊臣家の最後の戦い)において、豊臣方につきつつも、徳川方に情報を垂れ流す。それが認められ家康から領地をもらう。
最後には帳尻を合わせてきます(;´∀`)
人間無能なくらいがちょうどいい
今現在、織田家の直系の子孫は19代織田家当主織田信孝さんなのですが、彼は織田信雄の子孫なのです。信雄は、無能扱いされていますが、ちゃんと偉大な父信長の血を現在まで残しているのです。
信雄は1630年に亡くなります。戦国武将としては、寿命を全うしたと言えるでしょう。彼が生き延びた理由の1つに「無能だから生かしておいても害はない」と周りの戦国武将から思われたということです。生かしておくと危ない人物ならば父親の信長のようにきっと暗殺されています(´・ω・`)
残念な武将だけど憎めない、それが織田信雄の魅力なのです(*'▽')
まとめ
今回は、「残念な」歴史人物として四条天皇、そして織田信雄をご紹介いたしました。
また機会があれば「残念な歴史人物パート2」をやりたいと思います。
ご覧いただきありがとうございました。
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