【ツベルクリンWalker】シリーズは、現役添乗員が日本の各観光地を徹底ガイドしていくシリーズ記事です。今回は岡山県倉敷市にある「星野仙一記念館」を取り上げます。
前回の記事(出雲大社編)はこちらです
岡山県倉敷(くらしき)市は、45万人の人口を抱える岡山の観光都市です。倉敷市の観光地といえば「倉敷美観地区」があります。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/倉敷美観地区
倉敷美観地区とはどんな観光地化と言うと
「江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。 」
wikipedia倉敷美観地区より引用
ということです。とりあえず「江戸時代っぽいね」という場所です(´・ω・`)
倉敷美観地区の中に、「星野仙一記念館」があります。倉敷美観地区といったら「大原美術館」とか「倉敷アイビースクエア」というような、るるぶ岡山でも表紙を飾るような有名な見学施設があるなかで、ツベルクリンが選んだのが「星野仙一記念館」なのです。「好きな食べ物は?」という質問に「切り干し大根」って答えるようなものです。
当シリーズの目的は「今度行くときの参考になるように」という点もあるし「行った気分になれる(だからわざわざ行かなくてもいい)」という邪悪な感情を読者の方に抱かせる点も見過ごせません。たぶん今回の記事は"後者"です。
では、見ていきましょう(^^♪
<目次>
星野仙一氏(1947年~2018年)の概要
『星野仙一って誰やねん?(´・ω・`)』という日本に不慣れな帰国子女の方のために、140字くらいでご紹介すると次のようになります。
「日本のプロ野球選手・監督、野球解説者。 岡山県児島郡福田町(現:倉敷市)出身。選手時代のポジションは投手。中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。」
30字以内でご紹介すると次のようになります。
「岡山県倉敷市出身のプロ野球選手。右投ピッチャー。監督もやったよ!」
5字以内でご紹介すると次のようになります
「乱闘要員」
これらの説明で、星野仙一氏がいかに愛されていた人物か良く分かりましたね‼︎
星野氏が監督をしていたころの様子を写真でご紹介します
出典:https://ironna.jp/article/8636
これらの写真を見ても、星野氏の人柄がうかがえますね(#^^#)
記念館への行き方
このブログで観光地への行き方をご案内する場合、「とにかく最寄駅まで来い」という簡潔明瞭で非常に分かりやすい説明を心がけております。
星野仙一記念館の場合にも「とにかくJR倉敷駅まで来い」とご案内しております。
JR倉敷駅まで来ていただければ、倉敷美観地区まで徒歩10分くらいで行けます。美観地区の中に「星野仙一記念館」が存在します
出典:kankou-kurashiki.jp/
上のマップ上赤〇がJR倉敷駅。青の星マークが星野仙一記念館。頑張って歩いて来てね(タクシーはたぶん美観地区内まで入れません)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/倉敷駅
記念館の入り口。"倉敷デニムストリート"と書いてある門をくぐります。
記念館は2階なんですね(´・ω・`)
1階には星野仙一氏の首から上の銅像です。首だけっていうのもアレですが(´・ω・`)
開館時間は10時~17時。料金は大人(多分中学生以上)は500円。団体で押し寄せたら400円になります。ちなみに、団体ツアーで押し寄せることは皆無です。
星野仙一氏はとにかく熱い人物で「燃える男!」と評されます。燃える男の記念館なので年中無休です。元日からオープンしています。
2階にあがると入り口があります。燃える男ですから、当然自動ドアではありません。
おのれの力を振り絞り手動でドアを開けてください。
記念館の中に入ろう
記念館内部は基本的に写真撮影OKです。案の定、お客さんはツベルクリン以外誰もいません。でも、星野氏は燃える男だから気にしないのです。
お金を払い展示室へ行こうとすると記念館の方から『シアタールームがありますからまずは映像をどうぞ♪』と強引に誘導されます。世の中のありとあらゆる記念館なり資料館というのはシアタールームがあり、そこでその人物の概要を映像で学べるようになっています。
もちろん、『いや、結構です』と断ることもできるのでしょうが、お客さんはツベルクリン1人。記念館の方は2人体制。拒否権など無いのです。
シアタールームは撮影禁止です。13分間で星野氏の人生が分かります。星野氏を全く知らないのに記念館に来ちゃった系の方は、ぜひご覧ください。
これが記念館の全貌です。20畳くらいのスペースかと思います。"順路"という看板が必要なのかという疑問も生じますが、シアタールームで「燃える男!星野仙一の生き様」を見た直後なので全く問題ないのです(´・ω・)
星野氏は岡山県倉敷市出身であり、倉敷商業高校に進学をしました。もちろん野球部に所属しており、当時彼が着用していた倉敷商業のユニフォームが展示してあります。
高校3年生の夏の最後の大会、あと1勝で甲子園というところまで勝ち進みましたが、決勝で敗れ惜しくも甲子園出場は叶いませんでした。
星野氏が生まれて初めて使用したグローブ。彼のお母さんが買ってくれたのです。
星野氏は、倉敷商業卒業後、明治大学に進学します。1年生の頃からその才能を発揮します。
明治大学野球部在籍時代に着用していたユニフォーム。
1968年の11月、星野氏は中日ドラゴンズからドラフト1位指名を受け、晴れてプロ野球選手としての道を歩みだします。(本当は彼は阪神ファン)
1974年、星野投手は大活躍し、投手としての一番の名誉である沢村賞を獲得します。MVP賞みたいなもんですね。左側が沢村賞のメダル、右側が副賞の商品です。
副賞は「真珠の五重塔」というわけ分からない商品です。私なら解体して真珠を売りさばきますが、さすが燃える男星野仙一、五重塔は生き残っています。
ちなみに現在の沢村賞の副賞は300万円です。五重塔を分解して真珠を売りさばいた場合と300万円現金でもらう場合とでは、どちらが儲かるのでしょうか?
現役時代着用していたユニフォームです。昔の中日ドラゴンズのユニフォームですよね。
プロ野球選手がレコードを出すという珍妙にして滑稽な行動は、この頃の有名野球選手の通過儀礼のようです。王貞治氏や野村克也氏など、レコードを発売するということは一流選手の証みたいな風潮はありました。
1981年に星野氏は『街の灯がゆれる』という曲をリリース。
なんでもあるんだなぁ、YouTubeって(´・ω・)
1982年に現役を引退。1986年から中日ドラゴンズの監督に就任します。1988年と1999年にリーグ優勝。右のユニフォームは99年のリーグ優勝の胴上げの際に着用していたユニフォームです(左側の写真はその時の胴上げの写真)
1999年のリーグ優勝の際の試合で使われていたホームベースです。リーグ優勝をした場所は対戦チームであるヤクルトのホームグラウンド神宮球場です。ホームベースを展示して「だから何?」感はぬぐえませんが、やはりそこは熱える男星野仙一、相手チームの球場の備品であるベースでさえ見逃さないのです(´・ω・)
中日ドラゴンズの監督を退任後、阪神タイガースの監督に就任します。当時の阪神タイガースは暗黒期真っただ中であり、指定席が最下位のようなチームでした。
しかし、そんなチームでさえ立て直し、リーグ優勝までこぎつけるのですから星野監督は監督としても有能なのです。阪神タイガースは2003年に星野監督のもと、リーグ優勝を成し遂げています。
阪神タイガースの監督を退任後、彼は2008年の北京五輪の日本代表チームの監督に抜擢されます。なお、諸般の事情により彼の人生を語るうえで、五輪代表チームの監督をしていたという経歴は"なかったこと"扱いになっています(´・ω・)
そのあと、彼は2011年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任、イーグルスは2005年に出来たばかりの新しいチームで一度もリーグ優勝をしていないチームでした。彼はそのチームを3年でリーグ優勝、そして日本一にまで育て上げたのです。
惜しくも、2018年1月、70歳の若さでこの世を去ります。しかし、今なお彼は全国のプロ野球ファンを魅了し続けるのです(といった感じで締めます)
星野氏の著書はこちらの作品がおススメです♪ ご興味ある方はぜひご覧ください
まとめ
ご覧いただきありがとうございます。星野仙一氏のファンだけでなく、野球ファンであれば楽しめる施設かと思います。倉敷へお越しの際はぜひお立ち寄りください(このブログを見て、もう行かなくていいやと思った方は行かなくて結構です)
次回の更新予定は、【時には昔の雑誌を…】80年前のガールズトークをのぞいてみる(最終回)更新する予定です。良かったらご覧ください。
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