日常にツベルクリン注射を‥

現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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【学校で教えてくれない社会科】終戦記念日特別編:終わらなかった戦争~占守島の戦い~

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【学校で教えてくれない社会科】は、社会科の教員免許を所有しているツベルクリンが、学校で教えてくれないような社会科の授業をしていくシリーズ記事です。13時間目の今回は、終戦記念日特別編として「終わらなかった戦争~占守島の戦い~」の授業を行っていきます。

 

前回の12時間目の授業の復習はこちら

www.tuberculin.net

 

1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。現在では8月15日は「終戦記念日」となっています。

 

となると、1945年8月15日で全ての戦いは終わり、それ以降は一切戦いは起こっていない、とほとんどの日本人は思っています(一部敗戦を知らない兵士が戦闘を続けたケースはあったでしょうが)。

 

しかし、実は8月15日以降も戦闘は起こっています。それは「組織的で」「敗戦の事実も知った上で」起こった「日本の本土を守る自衛戦」であったのです。その戦いの名を"占守島(しゅむしゅとう)の戦い"といいます。ソビエト連邦(現在のロシア連邦)が「ルール違反」で当時日本の本土であった占守島を攻めてきたのです。

 

13時間目の今回は、ソビエト連邦に立ち向かって日本の本土を防衛した戦いの様子をご紹介していきたいと思います。

 

<目次>

 

 

占守島の場所

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出典:占守島 - Wikipedia

占守島は、ご覧の通り北海道のさらに北、千島(ちしま)列島を構成する島の1つです。面積は388km²で東京23区より少し小さいくらいです。

 

 

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出典:樺太・千島交換条約 - Wikipedia

占守島の領有権についてお話しします。最初に動いたのは1855年、当時の江戸幕府とロシアが「日露和親条約」を結びました。この条約で"日本とロシアの国境は択捉島と得撫(うるっぷ)島の間にある"と決められました(上の図参照)。つまり、占守島はロシアの物でした。

 

その後、明治政府とロシアが1875年「樺太・千島交換条約」を締結。樺太(からふと)とは、北海道の北にある大きな島でこの条約は"ロシアに樺太全部あげるから、代わりに千島列島は全部日本の物ね"と互いに平和的に決めた約束です。この時点で、占守島は日本の物となります。

 

その後、ロシアは革命がおこりソビエト連邦(以下ソ連)に代わりますが、条約の効力は維持されたままでした。つまり、1945年8月時点で占守島はまぎれもない日本の領土(しかも平和的に獲得した)だったのです。

 

 

日本とソビエト連邦の関係

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出典:日ソ中立条約 - Wikipedia

1941年12月8日、太平洋戦争が始まります。日本は、アメリカやイギリスと戦争状態に突入しました。1941年ごろの日本とソ連の関係はお互いに"仲良しじゃないけど敵に回すのは困る"といった関係でした。

 

1941年の初めごろから日本は『そう遠くない将来、アメリカと戦争状態になるな…』と察していました。もし、アメリカと戦争状態になった場合、もう1つの大国ソ連を同時に敵に回すのは得策ではありません。

 

一方のソ連も、すでに始まっていた第二次世界大戦で当時破竹の勢いで力を増していたヒトラー率いるドイツとの衝突は避けられないと判断しており、後方に当たる日本を敵に回すのは厄介であると認識していました。

 

ここで互いを敵に回したくないとの利害が一致し、1941年4月25日、「日ソ中立条約」を結びました。中立条約とは"互いに協力も攻撃もしない"約束です。ここで重要なのがこの条約のルールで

 

〇5年間は何が何でも有効(1946年4月25日まで

〇それ以降は、お互いが破棄通告しない限り、もう5年間有効

 

仮に事前に条約破棄通告しても1946年4月25日まではお互い攻撃しちゃダメと双方納得して決められているのです。

 

 

アメリカからソ連への日本への参戦要求

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出典:ポツダム会談 - Wikipedia

太平洋戦争は、ご存知の通り1945年8月15日、日本の敗戦によって終結します。1945年当初から、日本の敗戦はもはや時間の問題となり、アメリカ側は日本へのとどめをどう刺そうか考えていました。

 

考えていたのは、日本と中立条約を結んでいるソ連に対し、日本への攻撃を促すことでした。45年2月のヤルタ会談、7月のポツダム会談でアメリカ側はソ連に対し日本への攻撃を促しました。

 

ソ連側としては、5月の段階で対ドイツ戦が片付いたので、日本への攻撃には前向きでした。純粋に『日本から領土を奪い取ってやろう』的野望を持っていました。そして、ひそかに日本への侵攻計画を立案していきました。

 

もっとも、当初はソ連の力が必要だと認識していたアメリカですが、新型兵器(原子爆弾)が完成すると『これで日本にとどめ刺せるよね、だったらソ連さんに参戦してもらう必要ないなぁ…』と態度を変えます。それを知ってか知らずか、ソ連独自で対日戦の準備を進めていくのです。

 

 

ソビエト連邦の侵攻

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1945年8月8日、突如としてソ連は当時日本が支配下に置いていた中国の満州地方(当時は満州国という独立国でした)を攻撃しました。これは、中立条約を無視した明らかな約束違反な攻撃です。

 

この満州を攻撃した際の悲話は語りつくせぬものがあります。仮に1万歩譲って、まだ戦争自体が終わってなかったから8日からの侵攻はOKだとしましょう(もちろんそれでも約束違反です)。ただ、8月15日に日本政府がポツダム宣言を受けいれ(つまり敗戦を認める)戦闘が終結した後の攻撃は、卑怯以外の何物でもありません。

 

ソ連軍は8月18日、突如として占守島を襲撃しました。この2日前、ソ連のスターリン(ソ連の指導者)はアメリカ側に対し『北海道の北半分を領有したい』と要求していました。ソ連側は、ゆくゆくは北海道の占領を目論んでいたと思われます。その手始めに、占守島を攻撃したのです。

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出典:産経ニュース

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日本軍の判断

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出典: 樋口季一郎 - Wikipedia

占守島には当時日本兵が8500人ほど駐留していました。これは、アラスカ方面から襲来してくると想定された対アメリカ軍を迎え撃つための防衛軍でした。結局、アメリカ軍が襲撃してくる前に8月15日を迎えました。

 

8月15日の夕方ごろ、日本の敗戦の報が占守島まで届きました。その直後から武器の処分などを行っていました。『やっと故郷に帰れる』と喜び、保存していった食料や酒を持ってきてお別れ会を開いていたようです。そこに、ソ連軍が襲撃した来たのです。当時のアラスカ方面軍司令官は樋口季一郎(きいちろう)中将でした。

 

ソ連軍の襲撃に対し、対応としては2パターン考えられます。1つは「撤退・ソ連軍上陸の黙認」です。すでに、戦争は終結しています。これ以上抵抗をして兵士たちに犠牲を出すのは心苦しい、という考え方です。もう1つは「徹底抗戦」です。戦争は終結していようが、目の前の敵を倒すべしという考え方です。

 

樋口は、「徹底抗戦」の命令を下しました。ソ連軍は8800人、迎え撃つ日本軍は8500人。兵力差は互角です。ここに、占守島の戦いの幕が切って落とされたのです。

 

 

戦闘の結果

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8月18日午前2時、ソ連軍8800人が占守島に上陸。激しい攻撃を加えます。不意を突かれた日本軍は当初、攻撃してきた軍隊の国籍をつかめずにいました。夜明けとともに、それがソ連軍だと認識するようになります。

 

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ソ連軍は竹田浜より上陸しました。そして、いったんは岬周辺を占領しますが、夜明けとともに日本軍の激しい抵抗が始まりました。日本軍はソ連軍に取られた陣地を奪還、さらなる反撃を加えることができるまでに態勢を整えました。

 

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ただ、18日夕刻、司令部から「積極的な攻撃は止めよ。あくまで自衛行動のみに専念すべし」との指令が出されます。日本としては、早くソ連と停戦をしたいとの意向がありました。その後は、日本軍の方からは積極的に攻撃を仕掛けることはなく、ひたすら防戦し続けました。

 

最終的には、8月23日に日本とソ連の間で停戦交渉がまとまり、日本が「降伏、武装解除(武器を捨てること)」を認めました。

 

その後、ソ連軍は日本軍の武装解除を進めつつ、千島列島を占領していったのです。その中には、現在問題になっている北方領土も含まれていたのです。

 

 


占守島の戦いの意義

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出典:ヨシフ・スターリン - Wikipedia

千島列島全体の占領を達成したソ連でしたが、目的であった北海道の占領は断念せざるを得ませんでした。占守島の戦いにおける両軍の死傷者数は、日本軍600名程度に対し、ソ連軍3000名と推定されています。日本軍の頑強な抵抗によりスターリンに『こりゃ北海道占領するの無理だな』と思わせることに成功したのです。

 

一方、ソ連軍も多大な犠牲を出しましたが、停戦交渉の後、無理やり千島列島全体の占領に成功しました。日本が降伏を認めた後だったので、北方領土の人々も無抵抗でソ連軍の進駐を受け入れました。これ以降、ソ連(その後のロシア)は北方領土を占拠しているのです。

 

 

戦いのその後

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出典:cccp2017 (@cccp2017) | Twitter

ソ連軍は千島列島へ進駐し、日本兵を捕虜としました。そして、行き先も告げずにシベリアへ連行しました。そして、厳しい環境の中、強制労働に従事させました。これは、明らかなルール違反であり、たくさんの人がシベリアで亡くなりました。

シベリア抑留 - Wikipedia

 

戦争が終わり、故郷に帰られる矢先にソ連軍に襲撃され、それでも懸命に戦った兵士、その戦いで戦死した兵士、そして捕虜となりシベリアへ連行された兵士、そのような人々の存在があったからこそ、日本が分断されずに済んだのです。その歴史を忘れてはならないし、知るべきだと思います。

 

詳しく知りたい方はこちらの書物などがおススメです。


一九四五 占守島の真実 少年戦車兵が見た最後の戦場 (PHP新書) [ 相原秀起 ]
 

 

 


知られざるシベリア抑留の悲劇 占守島の戦士たちはどこへ連れていかれたのか / 長瀬了治 【本】

 

 また、終戦記念日に関してはこちらの記事もご覧ください

www.tuberculin.net

 

 

終わりに…

 

私が中学校の社会科の先生をしていた時に準備していた授業をブログ用にアレンジして当ブログで授業しています。これからも、たまにこういう真面目な記事を更新していきます。

 

次回の当ブログ更新日はお盆休み明け8月19日(月)の18時ごろです。新シリーズ【使ってはいけない英会話】~第1回講座~をお送りいたします。

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