【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回は『アサヒグラフ』の1960年9月25日号を見ていきましょう。その前半部分です。
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私は『アサヒグラフ』大好き人間です。『アサヒグラフ』とは、大正時代の1923年から2000年まで発行されていた週刊誌です。その当時の世相が分かって非常に興味深い雑誌です。
今回は、その『アサヒグラフ』の1960年9月25日号を見ていきましょう。今から59年前の雑誌です。表紙はチェスを楽しむソ連(現在のロシア)の子供たちです。後ほど、ソ連の暮らしの様子を取材した特集記事があります。
<目次>
ローマ五輪の期待と現実
1960年のオリンピックは8月25日から9月11日までの18日間、イタリアのローマで開催されました。
真黒なページとともに"金メダル四つ"とタイトルがうってあります。ニュアンス的には『金メダル四つ"しか"取れなかった』と落胆しているように思えます。それもそのはず、日本はこの4年後に東京オリンピックを控えており、このローマ大会はそれに向けての前哨戦だったのです。その状況下での金メダル四個は期待外れということでしょう。
この当時も、体操男子は強豪国だったようで、個人では小野喬(おのたかし)選手が鉄棒と跳馬で金メダル、相原信行(あいはらのぶゆき)選手がゆかで金メダル、そして団体総合で金メダルを獲得しています。言い換えれば、ローマ大会では体操競技でしか金メダルを獲得できていなかったってことです。
銀メダリストとして、重量挙げの三宅義信選手が挙げられます。彼はこの後の東京五輪&メキシコシティ五輪にて金メダルを獲得することになるので、当時はまだ発展途上の選手だったといえます(それでも銀メダルなんですけどね)。
ちなみに、重量挙げで三宅って聞くと女子重量挙げの三宅宏実選手が思い浮かびますが、彼女の叔父さんに当たる方です。
ややマニアックな競技では、射撃フリーピストル部門で吉川貴久(よしかわたかひさ)選手が銅メダルを獲得します。この後の東京五輪でも銅メダルを獲得しました。射撃競技ってこういう感じでやるのね(´・ω・`)
60年代から70年代にかけて日本男子体操は、世界屈指の強豪国となっていきましたが、女子の方は中々上位へ進出できませんでした(その後の東京五輪では団体銅メダルにまで上りつめますが…)。高校生の学校指定ジャージみたいのようで、昭和を感じすにはいられません。
当時に女子体操のリーダー的存在であり、平均台&平行棒に出場した池田敬子選手でしたが、個人でのメダル獲得はなりませんでした。
池田選手は、引退後指導者として後進の指導に当たり、彼女の教え子にはモントリオール五輪(1976年)女子体操代表で、今年までに14回覚せい剤取締法違反で逮捕されている岡崎聡子らアグレッシブな選手を育成してきました。
ローマ五輪で一躍有名になった選手が男子マラソン金メダリストのアベベ選手です。現在では、黒人選手=長距離走が得意、みたいに思われていますが、そう思われだしたのは、アベベ選手が出現してからです。
彼は、本番レースにおいてまさかの裸足で出場するというアウトローな選手でしたが世界新記録で優勝。のちの東京五輪でも優勝しています。
このように、ローマ五輪は日本にとっては苦々しい結果に終わりましたが、その後の強化策もあってか東京五輪では金メダル16個を獲得する大躍進を遂げたのです。
ソ連みたまま
ローマ五輪においてもっとも金メダルを獲得した国は、ソ連(現在のロシア)でした。当時アメリカのライバルとされていたのがこのソ連で、宇宙開発の分野やスポーツの分野でしのぎを削っていました。
日本はアメリカ側グループの立場だったので、ソ連の情報というのはあまり入ってきていませんでした。そもそもソ連側が情報が漏れないよう、情報統制をしていたようです。そのソ連に『アサヒグラフ』のカメラマンが派遣されて撮影してきた写真を紹介するコーナーです(おそらく、ソ連政府から取材の許可が下りたと思われる)。
一枚目は貴重なカラー写真。本屋の露天です。ソ連って寒いイメージですが、思い切り半袖です。
街角の様子です。おそらく、カメラマンからカメラを向けられたのでしょう。その辺のおっさん指導の下、きちんとカメラ隊形に並ばされています。
アメリカに負けたくないソ連は、常に競争意識を持っていたようですが庶民の実際の暮らしはどうだったのでしょう。特派カメラマンのレポートを読んでみます。
「モスクワ(ソ連の首都)のデパートはいつも混んでいる。商品を見るのに1度行列して、その商品を買うための伝票をかうために2度行列して、その伝票と商品を引き換えるまでに3度行列しなければならない。それに8月いっぱいで夏休みが終わり、子供たちが、キャンプから、田舎の親せきから、南の保養地からと、ぞくぞくと戻ってくる。その子供たちのために、新学期の支度もしてやらねばならぬ。また、8月の末ともなれば、モスクワでは木の葉も散り始める。店頭には毛皮商品も並んだ。母親たちは冬支度もしなければならぬ。いきおい行列は長くなる。」
「しかし行列にカメラを向けると、彼らは嫌がる。中には怒って怒鳴りつけるのもある。"西側(アメリカ側)の連中は、こんなところを撮って、またソ連は物資不足だと宣伝したがるんだろう"と言うのだ。物資はもう不足していないからそんなことはやめろ、と言うのだが、それならどうして行列が解消しないのか。せっかちな日本人の見るところでは、売り手が大変な非能率で、サービスなど一向に考えてもいないためと思われたが、彼らは今のところそれを問題にしている様子はない。辛抱強く、いつまでも待っているのである。さすがは大国、といったら怒るだろうか」
ソ連自身は『もう物資余りまくりんぐで豊かすぎて困るわぁ~物資いっぱいあって困るわ~(*'ω'*)』とアメリカ側諸国に対し宣伝していたのですが、実は慢性的な品不足状態に陥っていました。工業力を軍事産業や宇宙産業に全振りしていたので、日用品や食料の生産は後回し状態だったのです。
この趣味悪い金ピカ銅像も、ソ連って感じです。
欄外の説明によると、水が出ているこのよく分からない噴水みたいなやつは、数分間に1秒間水が止まり、その間に出たり入ったりして遊ぶという遊具らしいです。子供がはしゃぐのならまだ分かりますが、入ってるの半分おっさんだからね。
今でも公園でただ座ってる老人っていますが、この時代もいたようです。
なんとまあハレンチな画像です。ソ連ではこの時代から夫婦共稼ぎが多かったようです。なので、託児所が各地に設けられました。
木陰で休むおっさん。撮影されたのは現在ではウズベクスタンとして独立している国の首都タシュケントです。当時はソ連の領域でしたが、ソ連崩壊時に独立しました。この地域の人々は、ロシア人ってよりはアジア系に近い顔つきをしています。
皇太子ご夫妻の団地見学
1950年代から60年代にかけてもてはやされたのが、"団地に住むこと"でした。団地にはダイニングキッチンが備え付けられ、これが主婦の憧れとなったのです。
それに拍車をかけた出来事が、この皇太子ご夫妻の団地見学です。皇太子ご夫妻、つまり現在の上皇さまと上皇后さまにあたります。お二人は前年の1959年にご結婚されており、新婚さんでした。
その当時の様子についてまとめた記事がこちらです
ちょっと文章を引用してみます。
「秋晴れの9月6日、皇太子ご夫妻は東京都下の"ひばりが丘団地"を見学された。"市民のありのままをご覧になる"のが目的。皇太子さまは白の背広にえんじのネクタイ。妃殿下はベージュのワンピースに、うす緑のターバンハットにさっしゅ。」
「お二人は公団側が決めたアパートの1室、横井静香氏宅で、台所、寝室、居間などをご覧になり"どこか都合の悪い点は?"などと横井夫人に質問されてなかなか興味深そう。この日の人気はやはり美智子妃殿下。1000人を超える群衆がお二人のあとを追いかけ、団地の商店街は身動きができないほどだった。」
美智子さまは、皇室初の一般人からの輿入れであり(それまでは皇族内の女性から選ぶのが通例だった) 、庶民からの人気は高かったのです。美智子さまのあだ名をもじって"ミッチーブーム"なんて呼ばれました。
終わりに…
次回の【時には昔の雑誌を…】シリーズは、1939年3月1日号『写真週報』をお届けする予定です。暇だったら読んでくださいね(´・ω・`)
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