【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、筆者であるツベルクリン所有の昔の雑誌を、解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回は1958年4月25日発行『アサヒグラフ』南極越冬画報を読んでいきましょう。
今回の雑誌は、1957年~1958年にかけて日本人で初めて南極観測に行き南極で越冬生活を行った11人の越冬隊員にまつわる特集記事です。
彼らは"第1次南極越冬隊"と呼ばれ、日本人として初めて南極での越冬生活に挑みました。敗戦まもない当時の日本にとっては、それはまさに1大プロジェクトでした。彼らの偉業はのちに映画化(1983年公開『南極物語』)や木村拓哉主演でドラマ化(2011年『南極大陸』)されました。
その偉業を今回は雑誌を通してみていきましょう。
<目次>
南極越冬隊の概要
1955年(昭和30年)以降、世界各国では南極を探検し調査しようとする機運が高まっていました。日本も南極調査の一員になれるよう手を上げますが、当時の諸外国からの反応は『敗戦国に何ができる?』といった冷ややかなものでした。
なんとか南極観測に参加できたものの、日本に割り当てられた場所は非常に環境の厳しい場所でした。それでも、何とか日本の力を見せつけようと南極観測隊が結成され、1956年(昭和31年)11月8日、南極観測船「宗谷」は1万人の群衆に見送られ東京を出発、南極大陸を目指します。
厳しい南極の自然を乗り越えながら、翌1957年1月29日に宗谷は南極大陸の東オングル島へ上陸、この地点を「昭和基地」と名付けます。
観測船の宗谷号から犬ぞりで資材を運び、基地が完成した2月から越冬隊11名が基地に残り、南極の調査ならびに越冬生活を開始するのです。
第1次越冬隊メンバー
第1次越冬隊は、11名で構成されてました。隊長は西堀栄三郎氏(56)でした。大学の教授や新聞局の記者、医者に大学院生など様々なバックグラウンドを持った人たちで構成されています。彼らはみな初対面同士だったとのことです。それぞれに仕事の分担が振り分けられています。
彼らにはあだ名が存在するみたいです。雑誌の文章を見てみると、例えば京大大学院生の北村泰一氏(27)のあだ名は「童貞さん」とかいうドストレートなネーミングです。だとしたら、男だけの南極生活開始で1年間"童貞さん"時期が延びたことになってなんだか切なくなります(*'ω'*)
南極観測の様子
隊員たちはただ南極で暮らすだけではなく、様々な地質や気候調査に出かけました。ただいま風速測定中です。写真からでもかなり風速の強いことがうかがえます。
地質調査中の昼食の様子。おにぎりを食べています。
南極のペンギンたち
やっぱり南極といったらペンギンですわ。白黒写真ということもありビジュアル的に可愛くないっていうかむしろ怖いです。よくみると足元に卵が。
ペンギンってめっちゃ可愛いし、めっちゃ臭いです。こんだけ集まってたら臭そう。なお、隊員の中にはペンギンの臭いがアレすぎてその日の夕食が食べられなかった人もいたようです。
でも、臭くても可愛いの。上の写真はペンギンの赤ちゃん。雑巾みたいな色してますが、生後すぐはこんな雑巾色をしているのです。
越冬生活の様子
雪かき中。吹雪が来ては中断し、また雪かきをして通路を作るの繰り返しだったようです。
短い夏の時期(南極なので季節は日本と逆)は、水たまりが出現するので、そこから生活用水を運びます。冬の間は全部凍ってしまうので、氷ごと切り出し運んだようです。
生活当初は日本から運んできた肉があったので、写真のようにすき焼きパーティーが出来たようです。なお、越冬生活途中で冷蔵庫が壊れてしまい、以後生鮮食品に事欠くようになりました。
ペンギンの赤ちゃんを狙いに来るカモメを逆に隊員たちが返り討ちにし、カモメの肉で焼き鳥パーティーを開いている様子です。カモメは南極唯一の生鮮肉だそうです。
お正月はやっぱり餅を食べたいのです。
娯楽が何もありませんから、麻雀くらいやらせてあげてください。
理髪担当の中野隊員が散髪をしています。ただ、散髪してる方が『はよ散髪に行け』って言いたくなるような髭ボーボーさです。
ちなみに、傍らに猫ちゃんが写っていますが、越冬隊と一緒に南極生活を送ったオスの三毛猫タケシ君です。
帰国の途に就く隊員
本来の予定では、1年間の越冬生活を終えた第1次越冬隊を観測船宗谷号が迎えにいくはずでした。事実、その宗谷号には交代要員の「第2次越冬隊」を乗せて南極へ向かっていたのです。
ところが、進路を厚い氷に阻まれ悪天候も重なり、宗谷号は南極の昭和基地まで近づけなかったのです。そのため、第2次越冬隊を昭和基地に送り込むことを断念し、小型飛行機で第1次越冬隊を救出することにしました。その時の様子が上の写真です。
何とか隊員11名全員を救出することに成功しましたが、同じく日本から連れて行っていた犬(犬ぞり要員)15匹に関しては悪天候のため救出することができませんでした。隊員たちは、南極生まれの子犬8匹とその母親犬をなんとか飛行機に乗せ救出したものの、その他の15匹の犬は、翌年の越冬隊派遣の日までそのまま南極に置き去りしていくことになったのです。それは、まさに苦渋の決断でした。
1958年3月24日、第1次越冬隊は羽田空港へ到着。熱烈な歓迎で出迎えられました。
南極観測については、悪天候で中断された第2次越冬隊以降、翌年1959年に第3次越冬隊が結成され、以後毎年南極観測を継続しています。2020年現在は第61次観測隊が昭和基地にて調査中です。
第1次越冬隊にまつわる2つのエピソード
日本人初めての南極での越冬生活に挑んだ第1次越冬隊にまつわるエピソードが2つあります。ご紹介していきましょう。
タロとジロ
越冬生活に挑んだのは人間だけではありません。犬ぞり要員として寒さに強い樺太犬も南極へ一緒に随行しました。
第1次越冬隊が昭和基地を離れる際、前述したように悪天候のため迎えに来た観測船が着岸できず代わりに小型飛行機で隊員を救出しました。ギリギリの状況下で何とか基地で生まれた子犬8匹(上の雑誌の写真)とその母犬は救出できましたが、残りの15匹の犬は置き去りにせざるをえませんでした。
翌1959年、第3次越冬隊(第2次は悪天候のため派遣中止)が南極の昭和基地へやってきました。当然、置き去りにされた犬は全員死んでいるものと思われていました。ところが、「タロ」と「ジロ」の2匹が生存していたのです。
このことは日本中の感動を呼び、タロとジロをたたえる歌まで作られたほどです。
その後、ジロは昭和基地で亡くなりますが、タロは昭和基地で任務を続け、1961年に日本へ帰国。1970年、14歳で亡くなりその天寿を全うしました。
世界一短いラブレター
第1次越冬隊に参加した隊員は全員男性でした。彼らの中には、遠く離れた日本に妻や恋人を残してきた隊員も多くいました。隊員たちは越冬生活中に使用したコップに、妻や恋人の名前を書いていたようです。
そんな隊員たちの楽しみは、家族から送られてくる電報でした。当時の昭和基地は、メールはおろか電話もありません。当時の電報ではカタカナか数字のみで通信を行っていました。なおかつ、電報も公的な通信が優先され、私的な電報は制限されました。
その制限の中、なるべく短い文章で日本にいる妻や恋人たちはその想いを電報に託したのです。家族から来た電報は、それぞれ隊員がみんなの前で発表し合いました。
やがて、大塚正雄隊員の番になりました。彼はまだ新婚の身でありながら、日本に妻を残して越冬隊に参加していたのです。彼は、妻からの電報を読もうとしたところ、声にならず嗚咽がもれてきました。
『もしかして訃報か‥』ほかの隊員たちは心配そうに大塚隊員の顔を見つめます。その電報には、カタカナでたった3文字、こう書かれていました。
「 ア ナ タ 」
たくさんの文字を打つことはできない。でも伝えたいことはたくさんある。そんな想いを奥さんはたった3文字「アナタ」に込めたのです。
終わりに…
今後も、自宅にある古い雑誌の在庫が無くなるまでは、当シリーズの連載を続けみなさまにタイムスリップ気分を味わっていただこうと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
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