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現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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沖縄が封印したい不都合な真実【~奄美大島出身者への差別について~】

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皆さんは「沖縄(おきなわ)」と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか?美ら海水族館や国際通りに代表される観光地、どこまでも広がる青い海。歴史学的な視点から見れば、熾烈を極めた沖縄戦、そしてその後のアメリカ軍の占領統治により浮上した基地問題‥。ざっと挙げればこのようなイメージになるでしょう。

 

 

まとめると、沖縄県民以外は沖縄(もしくは沖縄県民)に対して

  • 沖縄戦やその後の基地問題などで負担を強いられている"被害者"
  • 青い海が広がり、ゆったりとした時間の流れる場所
  • 大らかで明るい陽気な沖縄県民(現地の言葉で"うちなーんちゅ")の姿

といったイメージを持っていることが多いです。近年では、仲間由紀恵や新垣結衣、安室奈美恵などの女優や歌手も輩出しており、沖縄のイメージアップにも貢献しています。

 

そんな、戦争や基地問題などの「負」を背負いつつも、基本的には「陽」のイメージで溢れる沖縄(そして沖縄県民)ですが、過去にはすさまじいほどの「陰」を持っていた時代もあります。沖縄、そして沖縄県民が抱えていた「陰」の中でも、この記事では"沖縄県民による奄美大島出身者への差別"について考察していきます。

 

沖縄本島の住民が沖縄に出稼ぎにやってきた奄美大島出身者を徹底的に差別したことはあまり知られていません。しかも、それは遠い昔の話ではなく、戦後の話です。沖縄県民にとってその事実は、タブーであり不都合な真実なのです。そんなタブーを明らかにしていくのが、この記事の目的です。

 

もちろん、この記事で「沖縄県人は差別主義者だ!」と非難するつもりは毛頭ありません。差別問題はそう簡単に割りきれるものでは無いのですから。

 

<目次>

 

 

 

 

アメリカ軍による沖縄と奄美大島の"占領"

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出典:鹿児島県奄美市公式ホームページ

 

地図で沖縄本島と奄美大島の位置関係をおさらいしましょう。根本的な話ですが、奄美大島は鹿児島県、沖縄本島は沖縄県です。県境は沖縄本島と与論島(よろんとう・鹿児島県の最南端)の間の海に存在します。

 

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出典:琉球列島米国民政府 - Wikipedia

1945年の日本の敗戦以降、沖縄県全域と奄美大島を含む奄美諸島はアメリカ軍の占領下に入りました。沖縄本島には、アメリカの管理下にある臨時政府「琉球列島米国民政府(通称USCAR・上の写真)」、奄美大島には「臨時北部南西諸島政庁」がそれぞれ置かれました。

 

アメリカ軍は奄美大島より沖縄本島を重視しました。それは、日本の敗戦後の東アジアの情勢が緊迫していたことが関係しています。中国では毛沢東率いる共産党が内戦で勝利をおさめ、社会主義政権が誕生、朝鮮半島では1950年から朝鮮戦争が勃発。不穏な空気が漂う中で、東シナ海の絶妙な位置にある沖縄本島は、まさに軍事拠点としては最高の立地だったのです。

 

もちろん、立地的には奄美大島も軍事拠点としては申し分ない位置にありますが、両者の違いはその地形にあります。沖縄本島は山地が少なく平野が多いので飛行場建設がしやすかったのです。一方の奄美大島は島の7割が山岳地帯です。基地の建設は容易ではありません。アメリカ軍にとって沖縄本島は利用価値の高い島、奄美大島は利用価値の低い島、だったのです。

 

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その結果、当時のアメリカ軍は沖縄に資金を惜しげもなく投入する方針を打ち出しました。沖縄のあちこちに基地が建設され、沖縄は"基地建設バブル"に沸いたのです。皮肉なことですが、戦争で沖縄を破壊しつくしたのも、破壊しつくされた沖縄を復興したのもアメリカ軍だったのです。

 

では、なぜアメリカ軍は軍事上"価値の低い"とみなした奄美大島を占領したのかと言えば、1つは「労働力の確保」です。基地建設のための労働力の一部を奄美大島に求めたのです。後述しますが、これに奄美大島住民が応える形で、数万人(2万5000人とも5万人とも)が沖縄へ移住したと言われています。そして、この沖縄に渡った奄美大島出身者を沖縄県民は徹底的に差別したのです。

 

 

 

奄美大島の日本復帰運動

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出典:奄美群島の歴史 - Wikipedia

 

アメリカ軍に占領された奄美大島の日本復帰運動は、かなりの盛り上がりを見せました。その背景には、奄美大島の困窮があります。

 

そもそも、戦前までの奄美大島の経済は日本本土側(鹿児島県)との強い繋がりがありました。その強い経済的な結びつきが、アメリカ占領によって絶たれたのです。奄美大島は日本本土から見ると"外国"になってしまたので当然です。

 

しかも前述したように、アメリカは沖縄本島に資金を注ぎ込み奄美大島は"放置"していました。その結果、奄美大島のインフラ整備はほとんど進まず、日々の生活にさえ困窮するようになっていったのです。その結果、"同じアメリカ"だった沖縄への出稼ぎが増えるようになったのです。

 

不満が溜まった奄美大島の住民は熾烈な本土復帰運動を起こします。そのバックには、左派の奄美共産党の存在がありました。奄美大島の復帰運動が沖縄本島に波及してしまうのはマズいと考えたアメリカ軍は、奄美大島を含む奄美諸島を日本に返還しました。1953年(昭和28年)12月25日のことです。これは、奄美解放の記念すべき日であり、同時に沖縄に渡った数万人の奄美大島出身者の苦悩の始まりでもあったのです。

 

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徹底的に差別された「奄美人」

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奄美大島が日本に復帰したことで、沖縄に出稼ぎに来ていた奄美大島出身者は、沖縄から見て「外国人」となりました。外国人の奄美大島出身者に対して、当時沖縄本島を統治していた琉球列島米国民政府(以下USCAR)は、厳しい態度で臨みました。

 

奄美大島が日本に復帰してわずか4日後、1953年12月29日に奄美大島出身者に対し、"外人登録証"の発行及び携帯を義務付けました。登録証には、犯罪者のそれと同じように指紋の押捺をさせました。

 

さらにUSCARは、奄美出身者に対し、以下のような制限をかけました。

 

  • 役所や企業の重役に就いている奄美出身者の追放
  • 選挙権や被選挙権の剥奪
  • 土地所有権の剥奪
  • 公務員試験を受験することを禁止
  • 国立の琉球大学への入学拒否
  • 銀行からの融資の制限

 

このように制限は掛けておきながら、税金は他の沖縄本島出身者と同じように納めさせました。このような仕打ちを受け、沖縄へ渡った奄美大島出身者のうち、半分は奄美へ帰ったとされています。その一方で、半分の移住者は沖縄に残ったとされています。すでに沖縄に生活基盤ができつつあった出稼ぎ労働者は、帰るに帰れない個々の事情があったのかもしれません。

 

 


沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 上【電子書籍】[ 佐野眞一 ]
 

 

奄美大島出身者に対する差別に関しては近年、作家の佐野眞一氏によって書かれた『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史』において、触れられています。佐野氏は、2007年に沖縄の奄美大島出身者で結成された団体「沖縄奄美連合会」の会員であった恵忠久氏にインタビューをしています。そのインタビューにおいて恵氏は、アメリカ占領下における沖縄人から受けた差別について詳しく語っています。

 

 

 

「奄美人は沖縄に土地を買えませんでした。まともな職にも就けなかったから安定した生活をするのは無理でした。銀行も金を貸してくれません。そうなると裸一貫のニコヨン(注:日雇い労働者のことを指す)くらいにしかなれません。ええ、その日暮らしの日雇い人夫です。」

出典:佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』298ページ

 

 

 

さらに佐野氏のインタビューに応じた恵氏は、当時の沖縄の行政や財界の重役になっていた奄美大島出身者が、USCARの命令によって一斉にクビになったことに触れて、こう断言しています。

 

 

 

佐野氏『全員免職!免職の大義名分は何だったんですか?』

恵氏『USCARの布告、布告です。でも、それを出させたのは沖縄人の陳情です』

佐野氏『沖縄人の陳情!』

恵氏『僕はUSCARと親しかった人から直接聞きましたので、間違いありません。USCARの命令といったら、もう終わりです。泣く子も黙る』

出典:佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』299ページ

 

 

 

 

アメリカ占領下の沖縄本島は、沖縄県民による琉球政府の上にアメリカ軍管轄のUSCARが置かれました。USCARの命令は琉球政府も背けません。そんなUSCARが前述した"奄美差別政策"を打ち出したのですが、その背景には沖縄県民による陳情があったと言われているのです。奄美出身者を差別するように促したのは、沖縄県民だったのです。

 

さらにインタビューは続きます。

 

 

恵氏『僕も奄美出身ということがすぐわかる恵という苗字で、随分いじめられました。僕は不動産関係の仕事をやっていたから分かりますが、復帰前も復帰後も"奄美と宮古(宮古島のこと)はお断り"と言われて、奄美出身者はアパートにも入れなかったのです。』

出典:佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』

 

 

 

佐野氏のインタビューに答えた恵氏は、沖縄出身の女性の家に婿入り結婚したので、不動産関係の仕事にも就けたようです。そうでもない限り、奄美大島出身者はまともな職に就くことも難しく、家を借りる際にもハードルがあったようです。

 

 

 

差別を煽った"沖縄2大新聞社"

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出典:沖縄タイムス - Wikipedia

占領下の沖縄を統治していた米国民政府(USCAR)や沖縄の人々が奄美大島出身者を差別していたことは、佐野氏のインタビューを読んでも明らかです。では、当時の新聞社は奄美大島出身者に対し、どのような報道姿勢をとっていたのでしょう?

 

沖縄には2大新聞社があります。沖縄タイムス琉球新報(当時は、うるま新報と言った)です。沖縄タイムスは、1953年の奄美大島日本復帰直後に当時の琉球銀行総裁(池畑氏、奄美大島の出身)が解任されたことについて、以下のように社説を載せています。

 

 

「琉銀創立以来6か年も勤めた総裁が出張先でクビになるなど、ちょっと人情味のない扱い方であるように思われるが、しかし日本復帰と共に外国人となる奄美大島人は1日たりとも、琉球政府や中央銀行の重要公務に携わらせるわけにはいかない、といういかにも割り切ったやり方は、我々にはすぐには真似ることは出来ないにしても、公私をみじんも混交しない態度はある程度学んでよいのではないかと思う」

出典:沖縄タイムス(1953年12月30日号社説)

 

 

 

特にスキャンダルを起こしたわけでもない(ただ奄美大島出身者という理由だけで)銀行総裁の解任について、沖縄タイムスはおおむね賛成しているのです。出身地による差別を肯定していると言っても過言ではありません。

 

この解任については、米国民政府(USCAR)の指令によるものでした。USCARはアメリカ人による沖縄統治機構であります。現在の沖縄タイムスは、散々反米&反基地の姿勢でアメリカを批判し続けているのに、この当時はむしろアメリカにべったりの姿勢です。

 

奄美大島が日本に復帰して以降、奄美大島人への差別を煽っているとも言える表現が新聞記事に掲載され続けます。

 

 

ピストル男は大島生まれの脱獄囚(沖縄タイムス1954年10月1日号)

食えない大島人、沖縄に出る外なし(沖縄タイムス1955年6月15日号)

大島青年米兵を刺す 闇の女をめぐる兇劇か(うるま新報1956年2月5日号)

 

 

奄美大島出身者がそのような犯罪を犯してしまったのは事実かもしれません。問題は些細な犯罪、沖縄県民であれば報道もされないような小さな事件でも、その犯人が奄美大島出身者と分かれば「奄美大島生まれの‥」とセンセーショナルに報道したのです。

 

もちろん、新聞といえども人間の作るものであり、当時の世相や風潮に押されて間違ったことを書いてしまうこともあるかもしれません。間違いを犯した場合は、たとえ新聞社と言えども明確に謝罪をすべきです。時代は下って、奄美大島日本復帰55周年によせた琉球新報(旧うるま新報)の社説を引用します。

 

 

 

「奄美諸島が25日、本土復帰55周年を迎えた。戦後、1946年2月に米軍統治下に置かれた奄美が53年、沖縄より19年早く本土復帰を実現した。(中略)25日に奄美市内で開かれた記念行事でも、復帰運動で示した奄美人の底力を"後世に語り継ぎ、力強い未来を建設しよう"と誓いを新たにしている。同じ"琉球弧"の一員としてエールを送りたい。(中略)奄美は、もともとは琉球王国の一員だった。1609年に薩摩藩による琉球侵攻で分断されたが、言語、民謡、食文化など共通点はいまなお多い。」

出典:琉球新報社説(2008年12月27日号)

 

 

 

 

奄美大島出身者への差別を煽っておきながら、それを謝罪することもなく、そもそも差別の事実に触れるわけでもなく、しまいには『同じ琉球弧の一員として‥』と言い張る始末です。こんな新聞社が今では基地問題を通じて政府を批判しているのです。もちろん、政府への批判は十分に為されるべきですけど、まずは自己批判でもしたらどうですか?って話です。

  

では、沖縄タイムスはどうでしょう?奄美大島日本復帰60周年の際に社説を載せています。

 

 

『日本復帰は、語り継ぐプラスの遺産』『復帰の歴史を後世に伝えていくのは、われわれの責務』。奄美の人たちに復帰について問うと、こんな言葉が返ってくる。(中略)1953年12月25日、奄美群島は、終戦後の約8年におよぶ米軍統治から日本復帰を果たした。来る25日はそれから60年を迎える「復帰の日」である。奄美市などでは多彩なメモリアルイベントが開催される。

 

 奄美群島は戦後、沖縄とともに本土と切り離され米軍統治下に置かれた。換金作物、物産の販路は途絶え人々は困窮にあえいだ。仕事を求めて沖縄本島に渡った人も多かった。生活の困窮は復帰運動の原動力ともなった。「一人一人が主役の自立的な無血の民族運動」。当時を振り返り、語り継いでいこうとの動きが節目の今年は活発化した。

出典:沖縄タイムス(2013年12月23日)

社説[奄美復帰60年]歴史継承し未来の糧に | 社説 | 沖縄タイムス+プラス

 

 

奄美大島出身者が沖縄本島へ渡ったことについては触れられていますが、そこで差別があったことについては一切触れられていません。

 

琉球新報も沖縄タイムスも、現在の基本的なスタンスは反アメリカ&反基地です。このスタンスから見ると奄美大島は団結してアメリカの支配から脱却した島という立ち位置にあるようです。

 

つまりは、新聞社の思想やスタンスによって、書かれる記事の論調が変わってくるのです。差別を煽るのも、琉球の一員と仲間のように接するのも結局は新聞社の都合による部分があることは否めません。

 

 

 

終わりに…

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『なぜ差別がいけないのか?』…この質問に対する答えは人それぞれあると思います。答えも1つだけではもちろんありません。その質問に対する私なりの答え(の1つ)が、『差別はまた別の差別を生んでしまう』からです。

 

1879年の明治政府による琉球処分によって、琉球王国は日本に編入され沖縄県となりました。以後、日本人が"琉球人"である沖縄県民の人々を差別したのは、まぎれもない事実です。

日本における琉球民族に対する差別 | 反差別国際運動(IMADR)

 

差別を受けた沖縄の人々が今度は奄美大島の人々を差別する…差別がまた別の差別を生んでしまう構図が出来上がってしまったのです。

 

私たちが出来るのは、差別があった事実を知り差別をしてしまった過去を反省することです。差別を無かったことにして蓋をする姿勢は決して正しい姿とは言えないのではないでしょうか?

 

 

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