皆さんは「帰国事業」という言葉並びに政策をご存じでしょうか?
1959年から1984年まで実施された、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国支援事業のことを指します。日本と北朝鮮の赤十字社が手を組み、政府や朝鮮総連(日本にある在日朝鮮人の団体)の支援を得て、日本に住む在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を支援しました。25年間に及ぶ帰国事業で10万人ほどの在日朝鮮人が日本から北朝鮮へ渡ったとされています。
その多くは、もともと朝鮮半島出身もしくは在日二世(親が朝鮮半島出身)といった、朝鮮半島にルーツを持つ人々でした。それらの人々にとっては、この帰国事業は「帰国」といった意味合いを持ちます。
その一方で、北朝鮮へ渡った10万人のうち、少なくとも6839名は、日本国籍を持つ日本人でした。在日朝鮮人と結婚した日本人女性ならびにその子供です。その6839名にとって帰国事業とは、未踏の地北朝鮮への「移住」を意味しました。
出典:https://webronza.asahi.com/
現代でこそ、北朝鮮は非民主主義&監視国家として悪名高く、一般庶民は日々の生活にも困窮するような、閉鎖的かつ抑圧的な国家として周知されています。ところが、今から60年前、北朝鮮への帰国事業が始まった当初は、北朝鮮は社会主義国家の建設に成功した"地上の楽園"と称賛されていたのです。
もちろん、それは北朝鮮側の情報戦略により流布されたデマであり、実態は皆さんの想像通りの国家でした。ところが、当時(そして一部の左派の人々はつい最近まで)は本気で「北朝鮮=地上の楽園」と信じられてきたのです。
今回の記事では、そんな地上の楽園での生活を夢見て、希望を持って日本を離れていった人々を悪夢に追いやった帰国事業についてご紹介していきます。
※最初にお伝えしておきますが、当記事は9000字をゆうに超える長作です。
<目次>
- 帰国事業の概要
- 帰国手順について
- 帰国事業に対する各国の思惑
- 日本のマスメディアや文化人の評価
- なぜ北朝鮮への"帰国"を決断したのか?
- 北朝鮮へ帰国した人々のその後
- 帰国事業が現代の我々に問いかけるもの
帰国事業の概要
「帰国事業」とは、1959年から1984年にかけて、日本と北朝鮮の赤十字社が推進した在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を促す運動のことを指します。
1950年代の日本には、60万人ほどの在日朝鮮人が日本で暮らしていました。彼らは朝鮮半島出身(もしくは親が朝鮮半島出身)で、様々な理由で日本へやって来ました(それが自発的な行動なのか、それとも強制連行のようなものがあったのかについてはこの記事では深く追いません)。
日本へ渡ってきた理由としては、朝鮮での生活難から逃れるため、教育を受けるため、配偶者として日本へ渡ったため、炭鉱や軍需工場などでの労働徴用や徴兵などの戦時動員のケース、留学など様々です(出典:林典子著『朝鮮に渡った「日本人妻」たち)。
もっとも、戦前は日本が朝鮮半島を併合していたので、朝鮮半島は全域が日本領でした。文化や民族の違いはあるにせよ、形式的には朝鮮半島から日本へやってくることは、日本国内をただ移動するだけ、と認識されていました。
終戦後、それまで日本に占領されていた朝鮮半島は独立します。それに従って、それまで"日本人"として生活していた朝鮮人は、日本国籍を失います。終戦時点で200万人いたとされる在日朝鮮人のうち、終戦後140万人ほどが朝鮮半島へ帰国しました。
その一方で、経済地盤がすでに日本にあったり、日本人と結婚していたり、当時勃発した朝鮮戦争(1950年~53年)の影響などで、60万人ほどがそのまま日本に残りました。彼らは、その後"在日"として生きていくことになります。1959年から始まった帰国事業は、そのような在日の人々とその家族を対象に帰国者の募集がかけられました。
当時の朝鮮半島の情勢を見ると、朝鮮戦争によって南の大韓民国と北の北朝鮮に分断されていました。当時の大韓民国は軍事政権が樹立されていて、政情も不安定だったこともあり、在日朝鮮人の受け入れには消極的でした。
その一方で当時の北朝鮮主席であった金日成(キム・イルソン、金正恩の祖父)は、在日朝鮮人の受け入れに積極的でした。このような背景もあり、北朝鮮への帰国事業が推し進められたのです。
帰国手順について
日本と北朝鮮の両政府の後押しを受け、1959年8月、日本赤十字社と北朝鮮の赤十字社の間で「帰還協定」が調印されました。その後、日本赤十字社より帰国事業に関する案内が公表されました。
北朝鮮への"帰国"を希望する人は、各市町村にある日本赤十字社の窓口へ出向き申請、その後、赤十字社が運行させた特別列車に乗り込み新潟県にある新潟赤十字センターへ向かいました。新潟赤十字社で事務上の手続きを経た後、新潟港より大型客船で日本を後にしました。
客船は北朝鮮の清津(チョンジン)港に到着しました。かつて日本の新潟港と北朝鮮の清津港の間には、定期航路が結ばれていたのです。
北朝鮮に入国した帰国者は、清津にある研修所にて2週間ほど手続きのため滞在した後、北朝鮮当局より指示される移転先へ散っていったのです。
帰国事業に対する各国の思惑
帰国事業に限らず、国家の後押しを受けた事業はたいてい各国の様々な思惑が存在します。帰国事業に関する各国の思惑についてまとめていきます。
日本の場合
まずは送り出す側の日本の思惑について考えると次のような背景があったと考えられます。
- 在日の人々を祖国へ帰すべきだという人道的な配慮
- 在日朝鮮人の生活保護受給率が高く、財政上の負担なっていた
- 在日朝鮮人の犯罪率が高かった(日本人の6倍とも言われた)
一部の在日朝鮮人は日本国内において様々な場面で差別を受けていたとされています。その差別が貧困や犯罪を生んでしまったという側面も考えねばなりません。そのような複雑で難しい問題を抱える在日の人々を"人道上の理由で"という建前で北朝鮮へ送ろうと考えたのです。
もっとも、これらの思惑は各全国紙で報道されており、なおかつ外務省の文章(1959年2月19日分外務省開示文章「閣議了解に至るまでの内部事情」)でも述べられていたので、隠された思惑ではなく周知された事実だったようです。
北朝鮮の場合
帰国者を迎え入れる側の北朝鮮の思惑は次のようなものがあったとされています。
- 日本との交流を活発にし国交回復を実現したい
- 北朝鮮の優位性を対立する韓国(そして全世界)に向けて示したい
- 朝鮮戦争からの復興に向けて、労働力の確保をしたい
北朝鮮は建国当時から現在にいたるまで社会主義国家です。バックには同じ社会主義国のソ連(現在のロシア)が控えています。一方の韓国は資本主義側(アメリカ側)のグループの一員でした。
50年代から60年代にかけて、社会主義陣営の勢いが強くなっている時期であり、そんな時期に日本からの帰国者を受け入れることで、北朝鮮の優位性を韓国側に見せつける意図があったとされています。
韓国の場合
帰国事業で北朝鮮へ"帰国"した在日の方々の多くは、朝鮮半島南部(韓国側)出身でした。彼らにとって北朝鮮側へ帰ることは、「同じ祖国は祖国でも異郷である」という認識でした。
韓国側が在日朝鮮人の受け入れに消極的だったため(逆に北朝鮮は上記の理由により積極的だった)、やむを得ず北朝鮮へ移住したのです(後述しますが、当時は朝鮮半島の統一は近いと思われており、北朝鮮へ移住してもいずれ近いうちに韓国の故郷へ帰られると考えていた帰国者も多数いました)。
韓国側の帰国事業に対する姿勢は以下の通りです。
- 朝鮮戦争による復興途中であり、帰国者を受け入れる余裕がない
- 当時の韓国は李承晩(イ・スンマン。上の写真)による独裁政権であり、政情が不安定だった
- 李承晩自身が反日感情が強く、日本で暮らす在日の人々の受け入れに難色を示した。
韓国側の思惑としては、在日の人々はそのまま日本に留まっていて欲しいと考えていました。そんな韓国側にとって、日本と北朝鮮が帰国事業を推進したことは、由々しき事態でした。"移住希望者がたくさん集まる地、北朝鮮"のイメージが出来上がってしまえば、敵対する韓国の立場が低くなってしまうからです。
そのため、韓国側は帰国事業を「北送事業」と呼び、北朝鮮の悪評を流して事業を阻止しようとしました。この韓国の行動は、事業に対してたいした影響を与えませんでしたが、今考えてみると、敵対していたとは言え、韓国の北朝鮮を見る目は当たっていたと言えます。
日本のマスメディアや文化人の評価
出典:朝日新聞(1959年12月14日付け夕刊)
日本政府が帰国事業にGOサインを出した要因の1つに、マスメディアからの突き上げがあったと考えられます。当時の各全国紙は、こぞって帰国事業を"人道的な政策"だとして評価していました。
出典:産経新聞(1959年12月27日)
今では考えられないことですが、当時の日本のメディアは、北朝鮮を「戦争の荒廃から復興した躍進真っ只中の国家だ」「ソ連の後押しを受けて社会主義革命を達成した」「まさに"地上の楽園"」と、おおむね賞賛していたのです。
出典:読売新聞(1960年1月9日付け)
実際に北朝鮮に渡った日本人妻(夫である在日朝鮮人と共に帰国した女性たち)に取材した記事も載せられています。今考えれば『本当なん?』と首をかしげたくなりますが、当時は多くの人が新聞記事を信じたのです。
新聞だけでなく、北朝鮮に関する書籍も北朝鮮のイメージ向上に一役買いました。
実際に北朝鮮に渡って取材した寺尾五郎氏の著書『38度線の北』(1959年発行)は、ベストエラーとなり大きな影響を与えました。
この著書では、朝鮮戦争で荒廃したことを認めつつも、
「五か年計画が完了した時には、鉄鋼を除くすべての分野で、朝鮮は日本の一昨年の水準を追い抜くわけである。日本が東洋一の工業国を自負していられるのは、せいぜい今年か来年のうちだけである」(『38度線の北』80ページより引用)
「どんなにおそくとも、1963年、64年には、朝鮮の南北統一がなにがしかのかたちを取っていると予想される」(『38度線の北』89ページより引用)
と、当時の北朝鮮を称賛しています。注意したいのは、寺尾氏はバリバリの共産党員であり、思想的には全面的に北朝鮮寄りだったという点です。しかしながら、実際に北朝鮮を訪れた日本人が書いた文章と言うことで、当時はかなり信用された書物だったのです。
建国当時から現在に至るまで、北朝鮮は秘密国家であり、特にインターネットの無い時代は内部の情報が漏れにくかったという事情があります。なので、『当時のマスメディアや一般市民が騙されるのも無理はない』という論調には、一定の理解をするつもりです。
ただ、やはりマスメディアの責任としては、間違った情報を(意図的では無いにしろ)流してしまった事に対する反省なり自己批判を為すべきだと思うんですよね。ところが、自己批判をするどころか「帰国事業の失敗は政府の責任だ!」と責任転換する新聞社もありましてね…。
出典:朝日新聞(2004年9月21付け)
もちろん、政府批判は十分に為されるべきだとは思いますが、『人道的配慮から帰国事業の推進を!』とか言って世論を煽っていたのに、『帰国事業を推進したのは政府の責任だ!』とか言っちゃうあたりが、『やっぱりね(*'ω'*)』という感を抱かざるを得ないのです。
なぜ北朝鮮への"帰国"を決断したのか?
出典:北朝鮮帰国事業写真集 新潟の波止場からの旅立ち 撮影小島晴則
在日の人々が北朝鮮への"帰国"を決断した背景にはどのような要因があったのでしょうか?そこには「マイナスの要因」と「プラスの要因」があると考えます。
マイナスの要因
- 日本での差別から逃れるため
- 困窮する生活からの脱出
- 子供の将来に関する漠然とした不安
プラスの要因
- 北朝鮮では衣食住が完備されている
- 日本では諦めていた進学(特に大学)が北朝鮮では実現できる
- 北朝鮮では医療体制が充実しており、しかも無償で受けられる
- 近い将来、北朝鮮主導による朝鮮半島の統一が成される
プラスの要因に関しては、あくまで北朝鮮側の"宣伝"によるものであり、実態はどうだったかについては、当時を生きていない方もだいたい想像できるものだと思います。
補足説明しておきたいのが、朝鮮半島の統一についてです。前述した寺尾氏の著書『38度線の北』でも述べられているように、当時の風潮として、北朝鮮主導による朝鮮半島の統一の日も近い、と見られていました。
当時の韓国は、経済的に非常に困窮しており、さらに李承晩大統領による独裁政権も反政府運動によって揺らいでいると目されていました。事実、1960年4月に起こった「4.19革命」によって、李承晩は失脚。独裁政権が倒れたことは、朝鮮半島の統一をより現実味のあるものとしました。
そして、帰国を躊躇する人々(特に在日朝鮮人を夫に持つ日本人妻たち)に対しては「朝鮮半島が統一すれば、南北の往来は自由になり、いずれは日本にも帰国できる」と説得したのです。それも、寺尾氏の言葉を借りるならば「1963年、64年には統一される」となれば、『3~4年で里帰り出来るのなら…』と最終的に北朝鮮への移住を決断するのも無理はないでしょう。
北朝鮮へ帰国した人々のその後
出典:北朝鮮帰国事業写真集 新潟の波止場からの旅立ち 撮影小島晴則
様々な要因によって、北朝鮮への帰国を決断した在日朝鮮人とその家族。彼らが北朝鮮に渡った後、どんな状況が待ち構えていたのか。北朝鮮の実態を知っている現代の私たちからすれば、想像するのは難しくないことかもしれません。
朝鮮半島情勢に詳しいジャーナリストの菊池嘉晃氏の著書『北朝鮮帰国事業』(中公新書)から、北朝鮮へ到着直後の帰国者の様子について書かれた文章を引用します。
"1961年初夏、日本人妻ハルコの乗った帰国船が北朝鮮北部の清津港に着いた。突然、デッキにいた他の帰国者たちから一斉に歓声ともうめき声ともつかぬ声が上がった。「船のデッキから外を見たら、北朝鮮の子供たちの姿が目に付いた。みんな日焼けと垢で真っ黒になった顔をして、下半身は裸のまま。大人の服装も日本とまるで違う。これは大変なことになったと思った」"
出典:『北朝鮮帰国事業』205ページより
すでに、上陸前の船上から北朝鮮の現実を目の当たりにした帰国者たち。上陸してから"招待所"へ招かれた後も困惑は広がります。
"招待所でも帰国者の動揺は激しく、泣き出す帰国者や「帰してくれ!」と叫ぶ日本人妻もいた。「誰が帰国しようと言い出したのか」などと口論を始める家族もあった。同じ船で帰国した朝鮮総連幹部や活動家は他の帰国者から責められた。30歳前後の女性は、招待所の4階の窓から飛び降りて自殺したという"
出典:『北朝鮮帰国事業』208ページより
帰国者は、招待所で手続きをした後、北朝鮮当局の指示により各地に移動したようです。もっとも、居住地の希望はほとんど通らなかったようです。
出典:https://jp.sputniknews.com/
現在の北朝鮮もそうですが、首都平壌(ピョンヤン)とそれ以外の都市の落差が激しいと言われています。誰もが、首都平壌への移住を希望しましたが、一部のコネや特殊な技能を持った帰国者に限られたようです。
居住地や食料に関してはどうだったのでしょう?
"地方に配置された大多数の帰国者の住宅は劣悪なものだった。(中略)古い瓦屋根に土壁、12畳ほどの部屋とカマドの付いた台所だけという家をあてがわれ、衝撃を受けた。「日本で朝鮮総連が宣伝していた立派な"現代的アパート"や"農村文化住宅"と現実の家との落差があまりに大きすぎた」"
出典:『北朝鮮帰国事業』212ページより引用
"60年に夫や子供たちと北へ渡り、咸鏡北道(かんきょうほくどう・北朝鮮北東部の行政区)に配置された日本人妻トモエの場合は、米1割、小麦粉5割、残りはソ連製の黒いトウモロコシで、おかずは白菜キムチが多少ある程度だった。「(事前の宣伝で)米びつに詰まった白米の写真を見せられたのに、騙された」とトモエは悔しがる"
出典:『北朝鮮帰国事業』214ページより引用
事前の宣伝とは比べ物にならないくらい厳しい状況だったようです。これのどこが"地上の楽園"なのでしょうか?
もっとも、北朝鮮を「擁護」するならば、当時の北朝鮮の人々は、帰国者が受けた扱い以上に劣悪な環境に身を置いていました。北朝鮮側としては、帰国者を優遇したつもりだったのかもしれません(だとしても、事前の宣伝は誇大広告と言わざるをえませんが…)。
北朝鮮の人々は当初、帰国者たちは日本人から虐げられた可哀そうな人々と考えていました。そのような同情から、帰国船を歓迎したのです。ところが、帰国船から降りてくる帰国者は、見たこともないコートやジャンバーを羽織っていました。この姿を見た北朝鮮の人々は、驚き、やがてそれは嫉妬や妬みへ変わっていったのです。
日本での差別に苦しみ、それから逃れるために北朝鮮へやってきた帰国者たちでしたが、北朝鮮の地でも現地住民からの嫌がらせに苦しむことになるのです。
日本の自由で民主主義的な空気を知っている帰国者たちは、このような現実に反発します。するとどうなったのでしょうか?
"1960年頃から帰国者が配置先の決定や配置後の待遇に抗議したり、政治的な発言で北朝鮮当局に連行されたりした事例が相次いでいた。(中略)"
出典:『北朝鮮帰国事業』225ページより引用
"当局の厳格な監視・統制、住民同士の相互監視、密告を奨励する体制が構築された。悪質な犯罪者は政治犯でなくとも公開処刑に処せられた。(中略)当局の警戒と猜疑は無実の日本人配偶者にも向けられ、韓国のラジオを聴いたとか、「日本に帰りたい」との発言など些細な理由でスパイ容疑をかけられ、収容所や山間地帯などへ送られるケースが相次ぐようになる"
出典:『北朝鮮帰国事業』226ページより引用
こなってくると当然、北朝鮮からの脱出、いわゆる脱北を試みる人も現れるのですが、
"北朝鮮の国境管理や国内の管理・監視体制が現在以上に徹底していた当時、脱北を試みてもほとんどが失敗し、その場で射殺ないし逮捕・処刑されたとみられる"
出典:『北朝鮮帰国事業』
もはや北朝鮮から離れることも困難な状況に追い込まれてしまったのです。そのような状況下では、悲惨な北朝鮮の本当の姿は中々日本に伝わることはなかったのです。
帰国事業が現代の我々に問いかけるもの
出典:北朝鮮帰国事業写真集 新潟の波止場からの旅立ち 撮影小島晴則
帰国事業が始まったのが1959年。当時、日本を離れ北朝鮮へ渡ったのは20~30代の若い在日朝鮮人とその配偶者(多くは日本人妻)が多かったとされています。仮に今存命とすれば、80~90代の高齢者になっていることでしょう。
1990年代以降、何度か日本人妻の里帰り事業が行われたこともありますが、里帰り出来たのはごく一部の人だけです。多くの日本人妻が、一度も帰国できないまま、北朝鮮の土に還っている現状があるのです。
帰国事業に対する当時の世論は、人道的な政策だとしておおむね評価する向きが強かったと言えます。マスメディアもこぞって帰国事業を称賛したことはこの記事で述べたとおりです。
もちろん、『北朝鮮に帰りたい』という在日の方々の強い意思があったとするならば、その意思を否定することは人道上反しているかもしれません。ただ、歴史を振り返れば、帰国事業は誇大的な宣伝で人々を騙したうえで帰国を促した"失敗"事業であったことは言うまでもありません(もはや、失敗の一言で済まされる問題ではないのですが…)。
帰国事業が現代の我々に問いかけていることは、「"人道上の配慮"という理由で行う政策は全てが正しいのか?」という論点です。例えば、現在の日本国内における朝鮮問題の1つに「朝鮮学校高等科の無償化問題」があります。2020年9月のニュースを引用します。
「高校の授業料を実質的に無償化する制度の対象から外された愛知県の朝鮮学校の元生徒たちが、国の対応は違法だと訴えていた裁判で、最高裁判所は上告を退ける決定をし、元生徒たちの敗訴が確定しました。」
出典:朝鮮学校の無償化除外 元生徒たちの敗訴が確定 | NHKニュース
日本国内に朝鮮学校が64校存在しています。この朝鮮学校においては、北朝鮮の支配者である金日成(キムイルソン)、金正日(キムジョンイル)、そして金正恩(キムジョンウン)一家を崇拝する教育を行っています。その証拠に朝鮮学校の各教室には、彼らの肖像画が掲げられているのです。
北朝鮮は皆さんのご存じの通り、かつては帰国事業で誇大表現とも言える宣伝を流布して在日の方々やその配偶者を騙す形で北朝鮮へ帰国させました。それ以降、日本人を拉致したり、挙句の果てには日本近海にミサイルを発射してくるような国家です。
もちろん、朝鮮学校に通う生徒たち自身に罪はありません。なので『朝鮮学校の生徒が可哀そうだから高等科も無償にしてあげるべき!』との"人道的な"意見もあるかもしれません。ですが、日本人の生命を脅かすような国家の支配者を崇拝するような教育を行う学校に対して、どうして日本人の血税を投入して無償化を実現する必要があるのでしょうか?
もっとも、朝鮮学校の存在自体を否定するつもりはありません。朝鮮の民族教育も大切にされるべきです。ただ、日本国内で教育を行うのであれば、日本の法律や文部科学省の決めたルール内で教育を行うべきです。キム一家への崇拝教育はそれを逸脱していると思えてなりません。
話がだいぶ逸れましたが、帰国事業に関わらず、"人道上の配慮"という甘美な響きに惑わされず、長い目で見てその政策や事業が本当に良い結果をもたらすのか、十分に考え尽くさねばならないのです。
今回の記事は、菊池嘉晃著『北朝鮮帰国事業』(2009年)及び林典子著『朝鮮に渡った日本人妻」』(2019年)、ならびにwikipediaの記事在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipediaを参考に、私一個人の意見を交えて書きあげました。
【中古】 北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」か「追放」か 中公新書/菊池嘉晃【著】 【中古】afb
フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った「日本人妻」 60年の記憶 (岩波新書) [ 林 典子 ]
掲載画像は、こちらのサイト様より引用をいたしました。
北朝鮮帰国事業写真集 新潟の波止場からの旅立ち 撮影小島晴則