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現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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【全裸論】~混浴の歴史を通して考える日本人と全裸について~

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当ブログの文章には結構な頻度で『全裸で雪面にダイブしたい』『すっぽんぽんで土砂降りの中を歩きたい』的なフレーズが出てきます。当ブログは"全裸容認派"であると言えます。

 

 

しかしながら、現在の日本で全裸でイオンとか行っちゃうと九分九厘捕まります。たとえ万引きや傷害事件などを起こしていなくても、全裸であることが罪になってしまうのです。罪以前に、人前(特に異性の前)で全裸になることはハレンチ、みたいな風潮が日本を支配しています。

 

言い換えるならば、『全裸状態を見られても気にしない相手=イチャイチャする相手』という構図が現代日本では出来上がっており、その結果、全裸がいやらしいものと捉えられてしまうのです。

 

その一方で、江頭2:50さんのように、全裸になることを恥と思わない人も少なからずいます。芸人さんだけでなく、某男性アイドルが『裸だったら何が悪い!』と叫びながら全裸で公園内を前転した出来事もあり、すっぽんぽん容認派は絶滅したわけではないのです(アイドルの方に関しては、氏名を公表するとイメージを損なう恐れがあるので公表を差し控えさせて頂きます)。

草彅剛 - Wikipedia

 

このように、全裸=恥ずかしい、いやらしいもの、と現代日本人は認識しているのですが、この日本には現代の全裸価値観とはそぐわない"文化"が存在しています。「混浴」です。

 

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出典:https://www.nikkan-gendai.com/

もちろん、現代の混浴風呂は、男女の脱衣所が厳格に分けられており、女性(場所によっては男性も)は水着もしくは湯あみ着用、と"なるべく全裸を見られないように"といった配慮とルールのもとで運営されているところがほとんどです。

 

 

それを踏まえて、こちらの絵画をご覧ください。

 

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出典:『ペリー艦隊日本遠征記』より下田公衆浴場の図

これは、江戸時代の末期、アメリカより黒船に乗って来航してきたペリーが、アメリカ政府に提出した日本に関する報告書の挿絵です。ペリー一行が上陸した静岡県の下田にあった公衆浴場(銭湯)の様子を描いたものです。

 

思いっきり混浴だし、隠してないし、威風堂々としてるし、それでいて『全裸をガン見してやろう』とかいうスケベ心も描かれている人物からは見受けられません。

 

現代の日本人の価値観からするとすさまじいギャップを感じると思いますが、むしろこの光景こそがれっきとした混浴の姿である気がするのです。全裸恥、の価値観がこの絵画から感じられます。

 

すると1つの疑問が浮かび上がります。『日本人はいつから全裸姿を見られることを恥と感じるようになったのか?』と。先ほどの公衆浴場の図を見ると、少なくともペリー来航時点では、風呂場の中とは言え、異性の前で全裸になることを恥ずかしいと思っている様子は微塵も感じられないのです。

 

今回は、日本独特の文化である「混浴」を軸に、日本人と全裸について詳しく考えていきたいと思います。

 

文字数およそ1万5000字。ブログ記事というより、無料で読める電子書籍とお考え下さい。

記事の性質上、裸体画を掲載しています。もちろん、それらの裸体画は史料的価値を持つ絵画であったり芸術作品という性質を持つ物に限定しており、卑猥な性格を持つものではありませんからGoogleポリシーには違反しないはずです。あらかじめご了承ください。

 

 

<目次>

 

 

 

 

 

混浴のはじまり

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出典:『千と千尋の神隠し』

 

江戸時代末期に来航したペリー一行は上陸した下田において、男女混浴の公衆浴場を目の当たりにしました。混浴が当たり前に行われている社会は、人前で裸を見せるハードルが低い社会であることを示します。では、日本における混浴の歴史はいつから始まったのでしょうか? それを考えるにあたって注目したいのが、「湯女(ゆな)」たちの存在です。

 

wikipediaによると湯女とは、「銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性である。」と定義づけられています。

出典:湯女 - Wikipedia

 

イメージとしては、 2001年公開の映画『千と千尋の神隠し』において、銭湯で働く女性たちのことを想像していただくと手っ取り早いです(上の画像は映画の1コマ)。

 

 

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中世までの日本でもっとも親しまれた温泉の1つが兵庫県にある有馬温泉です。当時、都があり天皇や公家たちが住んでいた京都からも近く、有馬温泉へ出かけることが上層階級のステータスになっていた時代もあったのです。

 

そんな上層階級のお客を世話するため、各旅宿では風呂場で身体流しなどの世話をする女性をスタンバイさせるようになります。最初は風呂の世話だけだったのですが、次第に色んな世話をするようになり、最終的には有馬温泉はまるで遊郭のような街に変貌を遂げていったのです。

 

湯女の存在は、男女が同じ浴場の空間に存在するという状況を作りました。これがのちに日本各地で見られるようになる混浴の下地になっていくのです。

 

 

 

 

江戸における銭湯の開業と混浴

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出典:徳川家康 - Wikipedia

江戸に銭湯が開業したのは1592年ごろと言われています。当時の江戸は現在の東京とは違い、沼地が広がるド田舎でした。豊臣秀吉の命令によって徳川家康が東海地方から関東へお国替えとなり、本格的に江戸の整備を始めたのが1591年。江戸の整備のために集められた職人たちの需要を見込んで、銭湯が開業されたのです。

 

当初の銭湯は、ターゲットを男性に絞っていました。開発初期の江戸は、職人や武士の比率が多く、男性の方が多数派だったからです。お客を取り込む工夫として、背中流しの女性を付けるサービスを行うようになりました(これを湯女風呂という)。これは、有馬温泉の例を習ったものと言えます。

 

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出典:湯女 - Wikipedia

 

そして、有馬温泉の例と同じように、最初は本当に背中を流すだけでしたが、徐々にGoogleポリシー違反な行為を行うようになり(風呂屋側もそれをサービスにするようになる)、風紀に反すると考えた幕府によって摘発されました(そういう夜のお店はまとめて郊外に移され、のちの吉原遊郭になりました)。

 

その結果、背中流しの女性は銭湯から消えました。客の背中を流す仕事は男性が行うようになり、三助(さんすけ)と呼ばれるようになりました。やがて、江戸が大都市として発展していくと、女性の人口も増え、銭湯に女性がやってくることも増えました。当時はガスや電気が無く、自宅で風呂を沸かすことは相当の苦労があったので、銭湯の利用率が高かったのです。

 

江戸の女性の多くは、地方から出稼ぎ(もしくは嫁ぎに)にやってきた人が多く、地方では混浴が当たり前だったので、江戸においても混浴の文化が広がりました。男性客側も、浴場に女性が入ってくることはウェルカムだったようです。

 

 

そうなると、やっぱり隅っこのほうで男女の営みをしちゃう人たちも増えてきたので、風紀が乱れるようになりました。特に、18世紀後期に実施された「寛政(かんせい)の改革」において、幕府より「混浴禁止令」が出されました。

寛政の改革ってなんのこと? − 日本史用語集

 

 

もっとも、銭湯側も出入り口だけ男女別にして中は混浴、のようにごまかしたりしたので、中々根絶することは出来なかったのです。それに、禁止令が発令されたのは江戸周辺のみであり、地方の田舎(特に温泉地)では混浴が当たり前に行われ続けたのです。

 

 

 

裸を見せびらかす日本人

 

そもそも、江戸時代期の日本人は、銭湯内に限らず全裸状態を他人に見られることを恥ずかしいことだとは認識していなかったようなのです。

 

例えば、鎖国体制の最中でも常に外国に向けて開かれていた長崎の公衆浴場に関して記した文言が伝わっています。

 

 「(公衆浴場の)休憩室では老若男女を問わず、全ての人が白い布もまとわない裸で、性別や年齢、つまり私たちが西洋で礼儀作法と考えるものとはいっさい関係なく、ありとあらゆる姿態で横になっている」

出典:ヘンリー・ホームズ著『ホームズ船長の冒険』

 


ホームズ船長の冒険―開港前後のイギリス商社 (有隣新書)
 

 

1859年~1860年にかけて日本に滞在したイギリス商人、ヘンリー・ホームズは、長崎で見かけた公衆浴場の状況について上記のように記しています。今でもスーパー銭湯へ行くと、男女兼用の休憩室があるところが多いですが、当時はその休憩室でも男女ともに全裸でダラダラしていたようです。『服着ろよ(*'ω'*)』って言いたくなります。

 

 

「入浴客が男であっても、女であっても、通りへ出て風に当たりたいと思ったら、裸体で歩いても、日本の習慣では当たり前のことと見なされ、誰も咎めない」

出典:アンベール著『アンベール幕末日本絵図』

 


絵で見る幕末日本 (講談社学術文庫)
 

 

幕末期に日本を訪れたスイスの外交官、エーメ・アンベールが残した文章です。たった150年くらい前の日本は、素っ裸で街中を歩いている男女がいても『ああ、銭湯帰りなんだな~』くらいにしか思われなかったようです。まさに、『裸だったら何が悪い!』の国です。

 

 

そもそも、場所によっては浴場自体が非常にオープンな所もあったようです。

 

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この図は江戸時代後期の1805年に発行された紀行雑誌『木曽路名所図会』に掲載された長野県の温泉地、諏訪(すわ)温泉の様子を描いたものです。赤丸のところをよく見ていただくと分かるように、風呂のすぐ横に通りがあり、道端で身体を洗っています。そして、道端で全裸で身体を洗っていても、通行人は全く気にしていません。

 

 

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出典:タウンゼント・ハリス - Wikipedia

こんなエピソードもあります。ペリーの後に日本へ来航し、条約締結に尽力した初代駐日アメリカ領事、タウンゼント・ハリスが、通訳を連れて身分の高い日本人の家を訪問した時の話です。

 

その日本人男性は、ハリスに人間の体の様々な部分(手、足、眼など)を英語で言うとどう発音するのか質問しました。その場には、男性の妻や娘も同席していました。この時点ですでに雲行きが怪しくなってきました。

 

そして、男性は着ていた着物の前部分を開き、"あそこ"を手に持って、この部分の英語の名称をハリスに聞いたのです。妻や娘がいる前で。

 

この話は『ハリス日本滞在記』で紹介されています。

 


日本滞在記 中 (岩波文庫 青 423-2)

 

お客さんの目の前で自分のアソコをご開帳するとか、普通に変態だもん(*'ω'*)。その部分の英単語が知りたいとしても、服脱ぐ必要無いよね。そして、旦那がご開帳しているのに、妻や娘がそれを咎める様子も無かったことも驚きです。

 

 

裸が「正装」である職業の人もいました。飛脚です。

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白黒写真に着色したもの

全身に刺青が入ってますけど、刺青が見えるってことは裸ってことです。ふんどし一丁のこのほぼ全裸状態が飛脚にとっての「正装」なのです。 

 

 

 

混浴の文化を罵倒したペリー提督

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混浴の歴史が大きく動くきっかけとなったのが、1853年のペリー来航です。欧米諸国には、混浴の文化が無く、日本の混浴を見て非常に驚き、罵倒したのです。

 

もっとも、幕府の禁止令により江戸においてはあからさまな混浴は減っていたものの(こっそり営業する銭湯は依然多かったが)、ペリー一行が上陸した下田(現在の静岡県)では、普通に混浴の風景が見られたのです。

 

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出典:『ペリー艦隊日本遠征記』より

 

最初の方でも紹介した下田の公衆浴場の図です。左側が男女兼用の脱衣所、真ん中が男女兼用の洗い場、奥の洞窟のようになっている部分が浴槽です。

 

ペリーは帰国後、アメリカ政府に『ペリー艦隊日本遠征記』という報告書を提出しました。その報告書内で、日本の混浴文化に触れ、そして罵倒しています。

 


ペリー提督日本遠征記【上下 合本版】 (角川ソフィア文庫)

 

「住民はいずれも日本人特有の礼儀正しさと、控えめだが愛想を備えている。しかし、裸でも気にせず男女混浴している公衆浴場を目の当たりにすると、アメリカ人には(日本の)住民の道徳性について、さほど良い印象は持てないだろう。(中略)日本の下層階級の人々は、たいていの東洋諸国民より道徳心が高いにもかかわらず、淫らであるのは間違いない。(中略)その淫猥さはうんざりするほど露骨であるばかりでなく、汚れた堕落の恥ずべき指標であった」

出典:『ペリー艦隊日本遠征記』

 

 

また、ペリーに同行した通訳、サミュエル・ウィリアムズも日記(『ペリー日本遠征随行記』)において、日本の混浴についてこう記しています。

 

「裸体の姿は男女ともに街頭に見られ、世間体などお構いなしに、ひとしく混浴の銭湯へ通っている。淫らな身振りとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を越している」

出典:『ペリー日本遠征随行記』

 


ペリー日本遠征随行記 (1970年) (新異国叢書〈8〉)
 

 

通訳のウィリアムズの言葉を信じるならば、ペリー来航時の日本(特に地方)は、混浴はおろか、銭湯へ行く時点で素っ裸で街を歩いている、という光景が見られたようです。

 

性に対して厳格なキリスト教の国であるアメリカから見れば、すっぽんぽんで街を歩いて銭湯へ行き、しかも混浴で汗を流す日本民族を「淫ら」であり「胸糞悪い」と感じたのです。それは、現代日本人の感覚と同じように思えます。

 

 ペリーが政府に提出した報告書については、数年後和訳されて幕府要人の下へ渡ります。日本が欧米諸国からどのように見られているかを知ったのです。

 

その後、幕府は崩壊し明治新政府の時代に移ります。明治新政府は、欧米諸国から野蛮な行為と見られている混浴を取り締まる方針を固めていくのです。

 

 

 

 

坂本龍馬夫妻の話

 

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出典:坂本龍馬 - Wikipedia

ここで話を、幕末に活躍した坂本龍馬&お龍夫妻に移しましょう。彼の知り合いに、田中光顕(1843~1939)という高知生まれの政治家がいます。田中が晩年、昔のことを回顧した自伝『伯爵田中青山(1929年)』において、坂本夫妻と一緒に銭湯に行った時のことが記されています。

 

 

「いつかも3人(坂本夫妻と田中)で一緒に湯屋(銭湯)に行ったこともある。その時分の湯屋は男女混浴で、坂本は噂の通り背中にいっぱい毛が生えていたのをみたことがある」

出典:『伯爵田中青山』

 

 

坂本龍馬って背中が毛むくじゃらだったんですね~。とかどうでもよくて、今の価値観で考えれば、カップルとその知人男性の3人で一緒に混浴(しかも全裸)に行くなど考えられないですよね。

 

 

そもそも、なぜ当時の日本人は人前で全裸になることをそれほど恥と思わなかったのでしょうか?フリーライターの中野明氏は次のように説明しています。

 

「当時に日本人にとって裸体とは何だったのか?外国人からの記述から総合して考えると、次の仮説が得られる。当時の日本人は裸体をあたかも"顔"の延長、"顔"と同等のものとして考えていたのではないか、と」

出典:中野明著『裸はいつから恥ずかしくなったか』

 

と説明し、以下のように続けます。

 

「当時の人々が裸体をさらす感覚は、現代の我々が顔をさらすのと変わらないと言わざるを得ない。公衆浴場で混浴する人、公衆浴場から裸体で帰る人々、人目をはばからず行水する人々、皆そうだった」

出典:中野明著『裸はいつから恥ずかしくなったか』

 


裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)
 

 

現代の私たちが、通行人の顔をガン見しないように、当時の日本人は全裸で通行していても気にしなかったのです。なぜなら、当時の価値観では、全裸状態も顔の延長線上に含まれていたからです。そして、現代の価値観では全裸と顔は引き離されています。

 

 

もちろん、当時の日本人だって四六時中全裸であったわけではありません。冬は銭湯帰りでも服を着て帰ります。そして、女性が化粧をし、男性が髭をそるような感覚で、それなりの振る舞いが求められる場面では、服を着たのです。

 

 

 

 

 

日本人の全裸観を"許容"する外国人の存在

 

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その一方で、明治維新後に来日した外国人の中には、日本の全裸文化に理解を示す人もいました。日本の考古学の基礎を作ったアメリカ人学者モースは、日光への旅行中に遭遇した混浴の公衆浴場を見てこう書き残しています。

 

 

「日本では何百年かに渡って、裸体を無作法とは思わないのであるが、我々はそれを破廉恥とみなすように育てられてきたのである」

出典:モース著『日本のその日その日』

 


日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース/石川欣一【1000円以上送料無料】
 

 

考古学者のモースさんも来日して『あれ、アメリカでは全裸でウロチョロするのはハレンチだって教えられてきたけど、もしかしてこの価値観っておかしいのかな?』と、1つの心理にたどり着いたようです・

 

 

 

弾圧の対象となっていった全裸

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出典:明治維新 - Wikipedia

もっとも、明治新政府側は「全裸や混浴=ハレンチ」という価値観のもと、1869年(明治2年)、手始めに東京において銭湯の男女混浴を禁止する命令を出しました。1870年に再度混浴禁止令が出され、「通りから浴場が見えないようにすること」という文言が付け加えられました。

 

さらに1871年、混浴禁止令に付け加えで「外国人の多い東京では、下層階級と言えども決して裸のまま外出しないように」と文言が加えられました。翌年の72年には、軽犯罪法が成立。混浴や裸体もしくはふんどし一丁といった姿での街中の通行を禁止、立小便も禁止。違反者には罰金が科せられるようになりました。

 

注目すべきは、これらの取締令が外国人の目を思い切り意識しているということです。「外国人の多い東京では~」という文言のように、「外国人に迷惑がかかる」「外国では裸体は恥ずべきものである」といったニュアンスで取締りが行われていたのです。

 

富国強兵を目指し、欧米諸国の仲間入りを目指そうとしていた明治新政府にとって、欧米諸国から『日本は裸体をさらけ出す恥さらしの国家だ』と思われてはいけないと考えたのです。

 

 

 

日本にもたらされた"全裸=恥"という価値観

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明治新政府による裸体への弾圧も激しいものがありましたが、開国によって外国からもたらされた全裸=恥の価値観が日本人へ浸透していった点も見逃せません。

 

もともとペリー来航依然の日本には、全裸=恥という価値観はそれほど強くありませんでした。一方で、外国人は現代の日本人と同じように全裸=恥と考えます。そして、恥という視点以外にもう一つの視点があります。それは、"性の対象"という視点です。

 

開国によって外国の商人たちが大ぜい来日しました。彼らの中では、『どうやら日本人は男女が一緒に風呂に入るらしい‥』という情報が都市伝説的に流布していたようです。『男女が一緒に風呂に入るなどけしからん!』と考える"真面目な"外国人がいる一方、噂の混浴銭湯に好奇心、もっと言えば"性的な視点を"持って潜入する外国人もいたのです。

 

開国によって外国から日本へ写真技術が伝わってきました。上野彦馬といったカメラマンを職業にする日本人も出てきました。坂本龍馬や高杉晋作ら幕末の志士たちの写真が残っているのは、彼の業績によるところが大きいのです。

上野彦馬 - Wikipedia

 

外国人の中には、日本人のヌード写真を所望する人もいたようです。上野をはじめ、日本人のカメラマンたちも『え、もしかして外国人って裸の写真が好きなん?』と気づき、積極的に日本人女性のヌード写真を撮影していたようです。

 

 

幕末期に出版された『春窓情史』とかいう、かなり意味深なタイトルの書物に、ヌード写真を撮られる女性の図が掲載されています。

 

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出典:『春窓情史』

ぜひ、右側の撮影者の下半身がどうなっているかにもご注目ください(*^-^*)

 

 

このように、外国から「裸体=恥」であり「裸体=性の対象」という価値観が流入してくると、特に女性の中には、全裸姿を見られるのを避けようとする思いが出てくるのです。

 

 

 

弾圧される銭湯の混浴と見逃される温泉地

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明治政府の混浴に対する取締りと、外国からもたらされた裸体=恥、という価値観が徐々に浸透していくことで、少なくとも都心部の公衆浴場(銭湯)での混浴は明治中頃以降に姿を消していくようになります。その一方で、現代の日本でも地方の温泉地へ行くと混浴風呂が残っている個所も数多くあります。この矛盾はどういうことなのでしょうか?

 

明治政府が混浴を原則禁止とするお触れを出した際、地方の温泉地は反発の声を上げました。1874年(明治7年)に、豊岡県(現在の兵庫県北部にあたる)が政府に対し『温泉地に関しては混浴禁止令の対象としないで欲しい』と懇願しました。

 

兵庫県の豊岡地方には、城崎(きのさき)温泉など温泉地が多数存在していました。温泉は都心部の銭湯と違い 、温泉療養が目的の1つとして存在していました。病気療養のためにやってくる高齢者は、介助無しでは入浴が困難な人も多く、自分の娘を連れてきたりしていました。混浴禁止になってしまうと、温泉療養に不都合が生じる、との理由からです。

 

『娘じゃなくて息子連れて来いよ』と思うかもしれませんが、もしかしたら娘しかいなかったのかもしれない(*'ω'*)。本音はどうであれ、『混浴でなければ介助に不都合が生じる』というタテマエ的理由から、温泉地では混浴が政府より黙認されていったのです。

 

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出典:http://daikisen.com/

 

明治政府のこの「銭湯は混浴禁止だけど温泉なら混浴OK」という方針は、現在まで影響を与えています。現代の私たちは、銭湯の混浴に拒絶感を覚えると同時に、温泉地の混浴ならそれも風情の一種みたいに感じます。矛盾しているようですが、この価値観の形成には、明治政府の矛盾した方針が深く関係していると言えるのです。

 

 

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詳しい年代は不明ですが、別府温泉のうたせ湯を撮影した絵葉書です。下半身は隠してますが、上半身はポロンしています。しかもこの写真、絵葉書ですからね。おそらく、写っているのはモデルさんなのでしょうけど、昔はポロンしたって全然気にしてなかったのでしょう。

 

しかしながら、『温泉療養には介助が必要、だから混浴OKにして!』と言っておきながら、うたせ湯って療養目的あるんですかね?。療養が必要な高齢者がうたせ湯したら大変なことになっちゃうよね。そういう意味でも、療養うんぬん関係なく、なし崩し的に温泉地では混浴が認められていたようです。

 

 

 

 

裸体画はわいせつ物かそれとも芸術か?

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出典:黒田清輝 - Wikipedia

 

外国から入ってきた全裸は恥ずべきもの、ハレンチなものと考える風潮が世の中に広まっていく過程で、1つの論争が繰り広げられることになります。それは、裸体画はわいせつ物かそれとも芸術か?という論争です。

 

その論争が繰り広げられる発端となったのが、日本洋画界の巨匠、黒田清輝が1893年に描いた作品『朝妝(ちょうしょう)』です。(太平洋戦争時の空襲で焼失し現存しません)。

 

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当時、裸体画の先端を行っていたのはフランスであり、黒田もフランスの影響を受けて、鏡の前に立つフランス人女性の裸体画を描き上げました。そして、この作品を京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品しました。

 

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出典:https://japanknowledge.com/

 

これに対し、新聞各紙は「わいせつ物を展示するとはいかがなものか?」と、黒田の姿勢に批判の声をあげます。明治中頃以降の日本では、「裸体=恥、ハレンチなもの」という世論の形成にマスメディアが一役買った、とも言えます。

 

 

マスメディアの言い分はこうです。『政府は法律を整備し全裸を規制&弾圧しているのに、博覧会と言う公式な場においてこのようなわいせつな絵画の展示を許可するのはいかがなものか?』。政府の矛盾を突いているのです。

 

世間の反応も、『朝妝』の展示に対しては、困惑の想いを持っていたようです。明治期に日本に17年間滞在し、日本の世相を風刺画として描いたフランス人画家ビゴーは、この『朝妝』を鑑賞する日本人の風刺画も描いています。

 

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注目したいのは中央の着物姿の女性。わいせつな絵画を見て恥ずかしくて自分の着物の前部分の裾を思い切りまくり上げて目を隠しています。目を覆い隠す代わりに、自分の足や"神秘的な部分"が露出しちゃってますけど、それは大丈夫なんですかね‥(*'ω'*)

 

 

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出典:ジョルジュ・ビゴー - Wikipedia

 

風刺画を描いたビゴーは、裸体画の最先端を行っていたフランスの出身です。前述したように、欧米諸国はキリスト教の影響が強く、裸体をタブーする風潮が強かったのです。

 

なぜ、そのような風潮のあるフランスが裸体画の先端だったのかと言うと、裸体画はわいせつ物ではなく芸術と捉えていたからす。それを踏まえて、ビゴーは『裸体画を見て目を背ける日本人は、まだまだ芸術が分かってないな~』とでも言いたかったのでしょうかね。

 

ちなみにお笑い芸人のカズレーサーさんのtwitterでもこのビゴーの風刺画が取り上げられていました。

 

 

そんな日本も、大正時代に入ってくると裸体画に関する規制も緩くなってきました。日本人の間にも、『裸体画は芸術である』『芸術である絵画に羞恥心を抱くとかハレンチだわ』という認識が広がっていったのです。そのような認識に支えられるかたちで、現在の日本には普通に裸体画や裸体像が美術館に展示されているのです。

 

そして、それに反比例するように『裸体は芸術の枠の中でのみ許される。芸術の枠を外れる裸体はわいせつ物である』というな線引きが日本人の間に出来上がっていったのです。

 

 

 

 

下着を着用しだす女性たち

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出典:https://store.ponparemall.com/

 

政府の弾圧と海外からの新しい価値観の流入によって、人前で裸体を晒すことは恥ずかしいこと、という認識が日本人の間に広まっていきました。とはいえ、戦前の女性たちは、ブラジャーはおろか下のパンツも穿かない人が多かったのです。

 

日本の歴史風俗史に詳しい青木英夫氏は、戦前の女性が下着を着用しなかった理由を次のように分析しています。

 

「ズロース(下着の一種)は腰巻のような下着と違って、肌に密着するわけで、今までの和服も生活には無かった経験である。しかも、本来局部を保護するものでありながら、女性にとっては嫌な感じがしたに違いない」

出典:青木英夫著『下着の文化史』

 


下着の文化史
 

 

戦前の下着は、上の写真のような物で「ズロース」と呼ばれていました。ぴったりと肌にくっつく感じを、当時の女性たちは嫌ったのです。旅館の浴衣を着ると分かるように、和服は基本的にはゆったりしています。ゆったりした和服の下に、締め付けるような下着を着ることは違和感を覚えたのでしょう。

 

そんな日本人女性たちも、次第に洋服を着るようになります。様々な要因が考えられますが、まずはレビューの流行がその要因の1つと考えられます。

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出典:https://www.poke.co.jp/

レビューとは、歌や踊りを中心とした演劇のことを指します。1914年(大正3年)に宝塚歌劇団が発足したのを皮切りに、東京や大阪で劇団が数多く結成され人気を博しました。

 

レビューの醍醐味は、ダンサーたちが足を上げ下げする振付が見られることです(上の写真)。ダンサーたちは当然、下着(ズロース)を着用します。さもないと神秘的な部分が客前にオープン状態となるからです。

 

その結果、当時の女性たちの間に『下着を着ているダンサー、マジ素敵だわ(*'ω'*)』という憧れが広がっていったのです。そして、下着を着ることが憧れの女性に近づく方法だと考えられたのです。

 

フリーライターの中野明氏もこの点を指摘しています。

「このレビュー人気は女性の下着観に間接的な影響を及ぼした。男性にとって堂々とズロースをはくレビューの踊り子たちは憧れの的である。また、一般女性にとっては、ズロースをはくことが踊り子達のような素敵な女性になるための一つの条件のようにも思えてくる。これらも、世の女性にパンツを着用させる大きな動機付けとして働いたのではないか」

出典:中野明著『裸はいつから恥ずかしくなったか』

 

 

女性の下着着用を促すキッカケとなったと"都市伝説的に"噂されている事件が、1932年(昭和7年)に発生した東京・日本橋にあった白木屋百貨店の火災です。

 

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出典:白木屋 (デパート) - Wikipedia

 

火災と下着着用がどう関係あるのか、wikipediaの記事を引用します。

この火災では、逃げ遅れた高層階の女性店員が転落死している。和服を着ていた女性店員たちはズロースを着けていなかったため、陰部が野次馬に晒されるのを防ぐため風でめくれる裾を押さえようとして、思わず命綱を手放し転落死したとされている。また、この悲劇を教訓として女性へズロース着用が呼びかけられたことで、ズロースを履く習慣が広まり、洋装化が進んだとされている。」

出典:白木屋 (デパート) - Wikipedia

 

もっとも、「風でめくれる裾を押さえようとした店員」と「転落死した店員」は別人だと後ほどの調査で分かっています。その上で、Wikipediaでは次のように結論付けています。

 

白木屋火災をきっかけとしたズロースの着用率増加はせいぜい1%程度とみられており、ズロースの本格的な普及が始まるのは火災から10年ほど経ってからである。当時の日本人は腰巻の習慣が長く、ズロースを着用するようになるにはかなりの時間が必要だった。のちにズロースが普及したのは、女性が男性と同じ職に就くようになるにつれ、職業婦人としての洋装が定着したからである」

出典:白木屋 (デパート) - Wikipedia


 

すなわち、「服装の洋風化」と「ズロース(下着)の着用」はセットであり、表裏一体の関係なのです。女性の社会進出が進むにつれ、動きやすいように服装の洋風化が進んだことで、ズロースの着用率も上がっていった、と考えるのが自然でしょう。

 

 

 

そして、皮肉なことに、下着を付けて陰部を隠すことで、より陰部の神秘性が増してしまったのです。風俗史研究家の井上章一氏は次のように述べています。

 

「彼女たちは、陰部の露出が恥ずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部を隠すパンツが、それまでにない恥ずかしさを、学習させたのだ」

出典:井上章一著『パンツが見える』


パンツが見える。 羞恥心の現代史 (朝日選書)
 

 

 『なんちゅうタイトルの本やねん(*'ω'*)』って感じです。卵が先か、鶏が先か、って話みたいですけど、要するに下着をはいてアソコを隠しだした瞬間から、アソコが神秘性を持ち出した、ということです。神秘性を放ちだした瞬間、それを人前に晒してしまうことを極度に恐れるようになっていったのです。

 

 

 

 

胸も隠すようになった日本人

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戦前~戦後にかけて、徐々に神秘的な部分を隠す下着(ズロースからやがてパンティーへ)を着るようになった日本人。時代が下り、昭和30年代以降になると胸を隠す下着(すなわちブラジャー)を着る女性が出現してきます。

 

もっとも、ブラジャーの着用が女性の間に広がるのには多少の時間がかかった模様です。1966年(昭和41年)の調査によると、中高年以上の女性のブラジャー着用率は若い世代と比べて低く、旧価値観と新価値観のせめぎ合いの時代が続いたようです。

 

<ブラジャー保有率(1966年調査)>

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出典:『長期需要動向調査結果報告書(ファンデーション・ガーメント)』

 

ブラジャーの生産がピークになったのが1970年代中ごろなので、ブラジャーが市民権を得たのはここ40年程の話なのです。

 

よく、おじさんの昔話で聞くのが『昔の深夜番組ではよくポロリしていたなぁ~』という思い出話です。昔のテレビ放送では、胸に関する規制が緩かったようで、よくポロリしていたようです。今は亡き志村けんさんが出演していた『志村けんのバカ殿様』でも、よく志村けんが女性出演者の胸を揉みまくっていたようです。

 

平成生まれの私が『バカ殿様』を見るようになった時には、すでにそういうお色気シーンは無くなっていた気がしますね。

 

こちらのサイト様の考察によると、2000年ごろから地上波における胸の露出規制が高ままったようで、2012~2013年ごろを最後に、地上波でポロリすることが無くなったようです。 

おっぱいかく戦えり 地上波最後のおっぱいを探せ (1/2)

 

 

 

 

隠し続ける先に待ち構えている未来

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パンティーにしろ(これは男性のブリーフにも言えるけど)、ブラジャーにしろ、隠すことによって、それまではさらけ出すことに何も違和感を覚えなかった部分が、急に"神秘的な"意味を持つようになり、やがて隠さないと羞恥心を感じるようになると前章まででお伝えしてきました。陰部に続き胸を隠すようになった日本人の今後の未来について最後に論じたいと思います。

 

これはあくまで私見であり、大きな根拠がある話ではないのですが、そう遠くない将来、一部の日本人は自分の「顔」を隠すようになると思うのです。

 

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現在(2020年秋)、コロナウイルスが流行しており、日本人のほとんどが外出中は常にマスクを着けています。

 

もちろん、マスクの感染防止効果は非常に高いと考えられ、今後もコロナ禍が完全収束するまではマスク着用は推奨されていくべきです。と同時に、マスクをつけることによって、自分の顔半分が隠された状態が長期間続くことになります。

 

『一度隠されるとそれは神秘性を持つようになる』『隠すのに慣れるとそれを再度さらけ出すには大きな勇気を伴う』……陰部や胸が隠されてきた歴史を見ると、もしかすると自分の「顔」さえも、隠す対象になってくるのではないかと思うのです。

 

特に、自分の顔にコンプレックスを持っている人からすれば、マスクによって顔を隠す"快適さ"を知ってしまうと、マスクなしの生活に戻ることに恐怖を感じるようになるのではないでしょうか?

 

これまでは、冬の風邪流行期以外でマスクを付けている人は稀でした。それが、1年中マスクをすることが当たり前の社会になると、たとえコロナ禍が収束しても『感染症対策のため』といった口実で、収束以降もマスクを付け続ける人が出現すると思います。そういう人にとってマスクを外すことは、下着を外すことと同等の意味を持つようになるのです。
 

 

 

 

終わりに…

 

先ほど紹介した志村けんに関するtwitterのツイートに反論する意見も存在します。

フェミニスト「志村けんの名前を見るとバカ殿でやってた数々の女性に対する性的搾取を思い出してしまう。あの番組を「いい思い出」にしないで。忌むべきものとして恥じてほしい。」:ハムスター速報

 

どちら側の意見が正しいとかは置いておいて、このような反論意見は、陰部や胸が徹底的に隠される社会においてはじめて出現する意見だと言えます。つい150年前くらいは、男女ともに銭湯へ全裸で出かけて行っていたというのに‥。

 

隠せば隠すほど、その部分の神秘性は否応なく高まっていきます。前章で述べたように、もしかすると『食事中以外で顔全部を人前にさらけ出すのは見苦しいことだ』と人々が言い出す社会がやってくるかもしれません。もちろん、『そんなわけ無いじゃん(笑)』と一笑に付せればいいんですけどね。

 

 

 

 

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