日常にツベルクリン注射を‥

現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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江戸時代に世界一周を成し遂げた日本人は世界をどう見てどう感じたのか?

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皆さんは「世界一周」をしたことがありますか?令和の現在でも世界一周は多少のハードルがあります。そんな世界一周を江戸時代に果たした日本人たちがいました。彼らは「万延元年遣米使節」と呼ばれています。

 

 

1860年(万延元年)、日本とアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約の批准のために、77名の日本人がアメリカへと渡り、そのまま世界一周を果たして帰ってきたことは、あまり知られていません。

 

77名のメンバーの中で、下級役人で記録係として使節に同行した仙台藩(現在の宮城県)出身の玉虫佐太夫(たまむし さだゆう)が、その様子を詳細に記録してます。彼の記録は『航米日録』という書物にまとめられています。

 

この記事では、佐太夫が記録した『航米日録』を基に、まだ飛行機も無い時代に世界一周を果たした佐太夫を始めとする日本人たちが、世界をどう見てどう感じたのか、解説を加えながら見ていきたいと思います。

 

日本人の世界一周に関しては、佐太夫より50年ほど前に津太夫という漁師が漂流中にロシア船に助けられ、結果的に世界一周を果たしたことがあります。あくまで能動的に、公式使節として世界一周を果たしたのは、佐太夫始めとする万延元年遣米使節団が日本人初となります。

 

先に言っておくと、数ヶ月に渡って私が勉強して、まとめ上げた記事です。かなり文章量は削ったのですが、にしてもすさまじい文量(約2万字)あります。アクセス数うんぬん以上に、この記事をネット上に残しておき、彼らの想いを令和の今に伝えていけたらとの思いで掲載しています。かなりの長文ですが、何卒よろしくお願いします。

 

<目次>

 

 

 

万延元年遣米使節団とは?

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出典:万延元年遣米使節 - Wikipedia

 

幕末の1858年、日本とアメリカの間で「日米修好通商条約」が結ばれました。リズム良い歴史用語ランキング第2位(1位は墾田永年私財法)です。義務教育を受けた方は必ず習っている歴史用語です。

 

国同士が条約を結ぶと、批准(ひじゅん)という手続きを経ねばなりません。批准とは、結ばれた条約を国が承認することです。条約ってまずは国の代表者が調印して仮発行されますが、正式に条約を有効化するためには、国の議会なり元首が条約を承認しなければなりません。国家による承認が成された証が批准書であり、それを条約を結んだ国同士で交換することで、条約は有効となるのです。

 

日本側の批准書(徳川家将軍の承認サイン)を日本側がアメリカに持っていき、アメリカ側の批准書(アメリカ大統領承認のサイン)をもらってくるのが、万延元年遣米使節の目的でした。

 

これが、日本側の使節がアメリカに持って行った批准書です。(アメリカ国立公文書館に保管)

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出典:https://www.asahi.com/

 

左側に「源家茂(第14代将軍徳川家茂を指す)」のサインが書かれています。

 

批准書の交換は別にアメリカ側を日本に呼んで交換しても良かったんですけど、『どうせならアメリカの様子を見てみたいわ!』日本側が考え、日本側の提案でアメリカで行うことになりました。

 

使節団本体は、アメリカの軍艦「ポーハタン号」に乗船しアメリカへ向かいました。ポーハタン号は、ペリー来航時に"黒船"と呼ばれた軍艦の1つです。

 

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出典:ポーハタン (蒸気フリゲート) - Wikipedia

 

もっとも、万延元年遣米使節とかポーハタン号よりも、ポーハタン号に何か事故があった時のための護衛船として一緒に付いていった「咸臨丸(かんりんまる)」の方が知名度が高いです。

 

 

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出典:勝海舟 - Wikipedia

 

咸臨丸はアメリカ・サンフランシスコ到着後、折り返して日本に帰着してますから世界一周はしていません。しかしながら、咸臨丸に乗船していた勝海舟や福沢諭吉の知名度が高いので、世界一周を果たした使節団本隊は忘れられた存在になっています。その使節団を掘り起こしていくのがこの記事の目的でもあります。

 

 

 

万延元年遣米使節のメンバー

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出典:万延元年遣米使節 - Wikipedia

 

 

万延元年遣米使節のメンバーですが、

 

・代表‥新見正興(しんみまさおき)上写真真ん中

・副代表‥村垣範正(むらがきのりまさ)上写真左端

・お目付‥小栗忠順(おぐりただまさ)‥上写真右端

 

の3人を公式使節と任命しました。新見正興と村垣範正は江戸幕府の高級官僚で外国奉行(今で言う外務大臣)に就任していました。また、お目付(今で言う監査役)の小栗忠順は、帰国後に外国奉行に就任した有能な人物でありました。

 

ちなみに、佐太夫は彼ら代表のことをまとめて「御奉行」と呼んでいました。日記中でも彼らの事を指す場合、御奉行と記述しています。

 

この3人を軸に、付き人や通訳、医師を含めた総勢77名のグループで使節団は出発したのです。今回取り上げる玉虫佐太夫は代表の新見正興の付き人兼記録係として随行しました。

 

 

 

玉虫佐太夫について

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出典:玉虫左太夫 - Wikipedia

 

今回着眼した使節団記録である『航米日録』は、仙台藩出身の使節団メンバー、玉虫佐太夫によって記録された物です。

 

佐太夫は、1823年(文政6年)に今の宮城県に生まれます。秀才であった彼は、より高度な学問を学びたいと考え、江戸へ出て幕府直轄の教育所である湯島聖堂でその才を発揮しました。

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出典:湯島聖堂 - Wikipedia

 

次第に幕府の役人とも交流を持つようになり、1857年(安政4年)、函館奉行(現在の北海道知事のような役職)に従って北海道や樺太を視察。その時の記録を『入北記』としてまとめました。その記録の詳細さや観察力を買われて、遣米使節の一員として加わることとなりました。

 

 

 

万延元年遣米使節のルート

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出典:http://w-concept.jp/tatebayashijou/data/jin_syouzaburo.html

 

遣米使節は、合計3隻のアメリカ軍艦を乗り継いでアメリカ訪問ならびに世界一周を果たしました。訪問した国・都市は以下の通りです。

 

 

江戸→ハワイ→サンフランシスコ→パナマ→ワシントン→フィラデルフィア→ニューヨーク→アンゴラ→インドネシア→香港→江戸

 

 

アメリカの部分を詳しく見ていきます。

 

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出典:http://w-concept.jp/tatebayashijou/data/jin_syouzaburo.html

 

サンフランシスコを出発した後は、パナマへ向かいます。このころはまだパナマ運河が開通していませんから、一旦パナマに上陸した一行は、鉄道で大西洋側の港へ出ます。当然、鉄道も彼らにとっては初体験の乗り物でした。

 

その後、船を乗り換えて(ロアノーク号)、ワシントン、フィラデルフィア、そしてニューヨークとめぐります。ニューヨークからは再度船を乗り換えて(ナイアガラ号)、大西洋を横断、アフリカへ向かったのです。

 

 

以上のことを踏まえて、玉虫佐太夫著の『航米日録』を見ていきましょう。

 

 

 

 

『航米日録』を読む

 

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出典:http://www.sendai-c.ed.jp/

 

航米日録は全8巻から成ります。その全てはこの記事では紹介しきれませんので、私の主観で記述をピックアップし、現代語訳版をご紹介していきます。

 

ある程度の差別用語と捉えかねない言葉の書き換え(例えば「支那人→中国人」「土人→現地住民」など)は私の手で行っています。ただ、彼の心情を表した文章に関しては、現代の価値観では多少差別的表現とみなされる表現であったとしても、当時の価値観を鑑み、そのまま現代語訳しています。

 

『航米日録』は日記の体裁を取っているので、文章の書かれた日付を明記しています。また、記事をテンポよいものとするため、私の方で一部文章を削除している部分もあります(「前略」や「中略」と表記)。

 

 

出発&船内の様子・雰囲気

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1860年1月18日付け

「午前10時ごろ、江戸の飯田町にある新見正興様の自宅を出発。道端は雲霞のごとく人だかりで、みんなアメリカ出発の快事を見ようとしている。友達数十人が出発を祝う詩や手紙を持って送りに来る。」

「午後2時ごろ、小船に乗って3里(約12キロ)ほど行き品川沖に停泊しているパーハタン号に乗り込む。船上では祝砲を撃ち、音楽を鳴らして祝ってくれる。(中略)さて、艦上ではアメリカ行きの人々で雑踏し、荷物を確かめたりで足の踏み場もない。夕暮れあと、ようやく身の置き場を定めた。船の中の狭いことと言ったらどうしようもない。」

 

 

使節の出発は一般市民にも告知されていたようで、アメリカ訪問に対する盛り上がりを感じられます。現代の感覚で言えば、日本人宇宙飛行士が宇宙に出発する時と同レベルの感動があったのでないでしょうか?

 

ポーハタン号の大きさは長さ約82m、幅15mであり、その広さの船内に日本人使節団77名とアメリカ人乗組員312人、合計389名が乗船していました。佐太夫が感じたように結構狭いかもしれませんね。

 

 

船内の食事の様子については以下のように記録しています。

 

 

1860年1月19日付け

「1日に3回、水兵たちに"ビール"という酒を与えている。(中略)1人の士官が水兵の名を呼んで5勺(おちょこ5杯くらい分)のブリキの器で1人ずつ与えている。」

「停泊中は大きな牛を捌き、毎朝分け与える。他にパン、スープの類がある。航海の時には塩豚、乾パン、オートミールなどを与えている。他にはきゅうりの酢漬け(ピクルスの事かと)などがある。これらはいずれも水兵の食事である。」

「士官の者は航海中と言えども羊、豚、家鴨、鶏肉などの鮮肉を食べる。これらは船の中で飼っている。そのほか、パンや鶏卵もある(中略)料理人は大抵中国人か黒人である」

 

 

船内で食べるための動物飼ってたんですね~。

 

 

下の挿絵は、1854年に日米和親条約が調印された時に、ポーハタン号船上で行われたパーティーの様子です。ポーハタン号の雰囲気が多少分かるかと思います。

 

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出典:『ペリー提督日本遠征記』

 

さて、この1860年の航海は非常に荒れた航海となったようで、強い暴風雨にいきなり襲われたようです。あまりの大波によって、佐太夫の寝室にも海水が侵入してきたようで全身ずぶ濡れになってしまいます。

 

当然、船内の設備にも支障をきたしたようですが、アメリカ人乗組員の素早い対応で事なきを得たようです。日本人が転覆の恐怖に怯える中、ただ職務を遂行していくアメリカ人乗組員の様子を見て、『恥ずかしくて赤面の至りだ』と佐太夫は記述しています。

 

 

暴風雨がある程度収まった後の話が以下の通りです

 

 

1860年1月28日付け

 

「午後になって水夫たち一同に、昨夜の働きに対する褒美として艦長から千ドルが与えられた。すぐに褒美を出すことには感心してしまう」

 

佐太夫は、「もしも艦長が1人傍観して、命令するだけで部下だけに苦労させたり、また自分の都合で褒美を与えたり与えなかったりしたり、褒美を与えるまで時間がかかっては、部下が必死になって努力することはないだろう」と感心し、「この国(アメリカ)が盛んな理由もこんなところにあるのだろう」と結んでいます。

 

 

アメリカ人乗組員の行動力や親切さ、その他にも『オハヨウ』と挨拶してくれるフレンドリーさを日記上で評価している佐太夫ですが、気になる点もあるようです。

 

 

1860年2月1日付け

「何事にも丁重に世話をしてくれ、その親切さには感心する。(中略)彼らにだって仏の教えやしきたりなどを教えれば、必ず礼儀正しくなるであろう」

 

アメリカ人の親切さは十分感謝するけれども、そのフレンドリーを佐太夫は「礼儀を失するもの」と当初は認識していたようです。

 

 

さて、佐太夫は酒好きです。そんな佐太夫が気になっていた"飲み物"があったようで、それに初挑戦したようです。

 

 

1860年2月3日付け

「今月1日はワシントン(アメリカ初代大統領)の誕生日に当たるが、暴風雨のためその祝賀儀式を行うことが出来なかった。そこで今日正午に祝砲を撃ち、その後我が国の御奉行その他アメリカの士官の部屋までチェリー酒を出してお祝いをした。」

「午後2時過ぎにはアメリカ人たちが肉饅頭(おそらくハンバーグ)、焼き鳥(おそらくローストチキン)、パンなどを持ってやってきたが、臭気が鼻をついて口には合わなかった。酒が1壺あり"ビール"と言うらしい。飲んでみたところ、苦味なれど口を湿らすにはちょうど良い」

 

 

まだ当時の日本人には肉食の文化が無かった(猪肉とか鴨肉などを食すことは多少はあっただろうけど)ので、ハンバーグやローストチキンは口に合わなかった模様。ただ、ビールののど越しの良さは当時の日本人にも伝わったようです。

 

なお、佐太夫とビールについては、キリンビールのHPにおいて「ビールを愛した近代日本人」として紹介されています。

ビールを愛した近代日本の人々・玉虫左太夫|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム|キリン

 

 

ハワイに上陸

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出典:https://alohakumax.com/

 

使節団一行は最初の訪問地としてハワイに入港しました。現在でこそハワイはアメリカの一部ですが、当時はカメハメハ大王が君臨する独立国でした。ハワイ在住のアメリカ公使の紹介でハワイへ親善訪問することとなったのです。


 

1860年2月14日付け

「車に乗って旅館(ホテル))まで行く。車は四輪で、馬2頭もしくは1頭で引く。その早いこと、一瞬にして1里(約4キロ)あまり行くと言う」

「上陸の際、海岸には男女数百人が殺到し、我々日本人を見ている。あるいは笑い、あるいは黙視し、日本で外国人を見るのと変わらない。チェックイン後、ホノルル市街を回ってみたが、我々を見ようとして左右前後男女殺到して行く手を阻まれ、うるさくてたまったものではない」

 

海外の有名人が来日した時のフィーバーに似ています。外国人自体が非常に珍しい時代ですからね。

 

 

1860年2月16日付け

「午後、ホノルル市街に出て書店に行こうとしたが言葉が通じずどうしようもない。幸い、現地の住民1人に会い、手真似で本の形を作り、ページをめくる動作をしてみたところ彼は『分かった』とばかりにうなづき連れていかれたところが洗濯屋(クリーニング店)であった。また手真似で説明したところ『なるほど分かった』と大きくうなづいて次に連れてこられたところは写真屋であった。間違いであるがこれも試しと中へ入ってみることにした。」

 

 

幕末の頃も異国に行った際は、ジェスチャーなりボディーランゲージで何とかしてたみたいです。なお、そのハワイで撮影されたとされる肖像写真がこちら。

 

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出典:玉虫左太夫 - Wikipedia

 

写真を撮った翌日、佐太夫は現地住民が住む住宅地を訪問しました。住民たちは皆外国人である佐太夫を歓迎し、家に招いてくれたようです。それを受けて佐太夫はこう記しています。

 

1860年2月17日付け

「さて、この地の風習なのか、彼らの家に行けば何も躊躇することなく丁寧に応対し、珍しい品々はもちろん、自分の寝室や台所、はたまた便所まで何1つ隠すことなく見せてくれる。日本では外国人が来るのを見れば、たいていが戸を閉じて隠れ、あるいは走り逃げて接触を避けようとすることとは雲泥の差である」

 

これは、まあ現代の日本人にも言えるかもしれませんね。外国人から道を聞かれても逃げちゃう人が多いですし。もっとも、家の中に招いても大丈夫なくらい、当時の武士がハワイ住民から信頼されていた証拠とも言えます。

 

 

その翌日、2月18日にはハワイ国王の王城に招待されたようです。当時のハワイはカメハメハ4世が治めていました。

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出典:ハワイ王国 - Wikipedia

 

1860年2月18日付け

「午後、王城を見物する。海岸から離れること3,4町(1町=約109m)、その形は日本の城と違って至って簡素である(中略)このように厳重な場所ではあるが、風習なのか男女が同乗して城内を縦横に出入りしている。また身分の高い人に会っても、お辞儀することもない(中略)彼らは礼法においては禽獣同様で取るに足らない」

 

 

当時の日本の価値観では、男女が公の場所で行動を共にすることは慎む行為だとされてきました。また、ガチガチの身分社会であった当時の日本から来た身としては、上下関係が緩やかなハワイの様子に対し、違和感(というか嫌悪感)を覚え、"禽獣同様"と受け入れられなかったようです。

 

まだ、日本を出国して日が浅いので、まだまだ日本の価値観にがっつり縛られている佐太夫の姿をそこに見ることが出来ます。

 

なお、この後は『役人たちが街をウロウロして恥をさらすかもしれないし、そもそもホテル代がかかり過ぎる』という理由で、用事がない時には節約のため船で過ごすようにお達しが出たようです。いつの時代も日本人は経費にうるさいのです。

 

 

 

サンフランシスコに上陸

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出典:https://www.ryugakusite.com/

 

1860年3月11日、佐太夫ら一行はアメリカ西海岸の都市、サンフランシスコに上陸します。ハワイ同様、馬車でホテルにチェックインした彼らはそこで初めて本格的な西洋料理を目の当たりにします。

 

 

1860年3月11日付け

「午後4時頃、晩御飯を食べたが、いずれもアメリカ料理で美味とは言えないが、空腹を満たすには充分であった。献立は以下のとおりである」

「乾パン。氷水。吸い物(味は甘くて臭い)。鮭(餡かけ料理に似ている)。牛肉料理。豚肉料理。子芋(ムカゴのようなもの。塩煮にしてある)。菜のお浸し(ただの塩味で美味ではない)。蒸し餅&饅頭(中に餡が入っていて酸っぱい。ブドウを使用しているようだ)。」

「いずれも大皿に盛り、フォーク、ナイフ、スプーンを人数に応じてテーブルに並べ、食べる時にはこの三品を使用し箸は使わない。」

 

 

自分の口に合わない料理を出され、さぞ不機嫌になっているかと思いきや、佐太夫は次のように感想を記しています。

 

 

「口に合うものは1品も無かったが、これを常食とすれば、我々日本人の穀食と同じであろう(中略)ただ慣れと不慣れがあるだけである。外国に来て飲食に苦しむ者は"井の中の蛙"みたいなもので、一歩も外に行くことのできない者であり、笑うべきことである。志のある者であれば、決してこのようなこと(食べ物の文化の違い)で困ったりしないものだ」

 

 

恐らく周りの日本人たちは『クソマズいやん!』と不平不満を言い、日本食を恋しがっていたのでしょう。郷に入りては郷に従え、ってやつですね。

 

 

さて、当初は上下関係を重視しないアメリカの価値観に嫌悪感を抱いていた佐太夫ですが、このごろから徐々に心情の変化が見られるようになりました。サンフランシスコ出発を翌日に控えた日の事です。

 

 

1860年3月17日付け

「午後4時ごろ、船内で人数確認があった。明日出港するためいつもより厳格な点呼であった。(中略)しかし艦長の前と言うのに、ただ帽子を取るだけでお辞儀をしない。もっとも、いつもの時でも艦長、士官の区別なく上下が相交じり、水兵であっても艦長を重んじているようには見えない。」

「艦長もまた威張らずお互い同僚のようだ。しかし、その情交は親密で、何事かあればそれぞれが力を出して救い合い、凶事があれば共に涙を流して悲しむ。我が国との風習とは異なる」

 

 

このように日本とアメリカの上下関係の違いについて触れ、それについて自論を記しています。

 

 

「わが国では礼法が厳しくて、身分の高い人などには容易に面会することさえ出来ず、あたかも神のようである。少々身分の高い者は大いに威張り散らし、下の者を軽蔑し、凶事があっても悲観の色など見せない点はアメリカ人と大きく異なる。」

「このような事では、万が一非常事態が発生した時に誰が力を尽くすだろうか。この点が、アメリカが国運が盛んで平和に収まっている理由ではなかろうかと思われるのだ。そうであれば、礼儀が厳しくて情交が薄いよりは、むしろ礼儀が薄くても情交が厚い方を取るべきであろうか。」

 

とアメリカ式礼儀と日本式の礼儀の間で揺れ動いている様子がうかがえます。上下関係より心を許した交際を重視する姿勢がアメリカが強国になっている理由だと思い始めたようです。

 

それにしても、「少々身分の高い者が威張り散らす」とか、現代の会社でもそんな上司がいそうで、もうアレです(*'ω'*)

 

 

 

サンフランシスコ~パナマ~ワシントン

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サンフランシスコ出港後、パナマに向かって再び航海が始まるのですが、航海中の水兵の働きぶりを以下のように記しています。

 

1860年3月28日付け

「このところ、連日波風穏やかで船内はすこぶる暇である。しかしながらアメリカの士官や水兵たちは少しも怠けることもなく、船内の修復及び機械の破損を補い、その他訓練などを行い空しく日々を過ごすことは無い」

「このようなことは、船内だけでなく、アメリカ全体がそうであると思われる。日曜を除いて少しも怠けることが無く、あらゆることに心を励まし、何か1つでも発明があればお互いに助け合い、その手柄を奪うことは無い。常日頃からそうであるから、もし急に災難が起こっても、皆がそれぞれ力を尽くして処理に当たるから恐れたりしない。」

 

それに対して日本の現状をこう嘆いています。

 

「これに対して我が国は200年以上太平の世であったため、何事にも古い習慣に固執して改めない(中略)。ゆえに少しでも何か事が起これば、みな狼狽し、その処置を失うに至る。もしも、志のある者が後世のことを考えて色々な意見を出しても、他人からは愚人あるいは狂人と誹謗され、その志を実現することはできない。」

 

 

これ160年以上前の日本人の意見なんですけど、令和の今でも十分通じる話ではあります。事なかれ主義というか問題先送り主義というか、出る杭は打たれると言うか‥。

 

コロナ禍の現在もそうですけど、日本はもっと平常時に非常時の備えを強化しておくべきだと思うんですよね。『悪いことを予測するのは不吉だ』みたいな思想がまだ少し残ってる気がするんです。準備しておかないから対応が後手後手になってしまうんですけどね。

 

 

 

さて、パナマは赤道の近くに位置するエリアです。160年前だって当然暑かったはずです。

 

1860年3月29日付け

「明日には太陽の真下になるという。ゆえに昼間は炎熱焼くようで、流れる汗をぬぐう暇もなく、部屋の中になどいられるわけもない。ただ大海原なので涼しい風が吹いたときにだけすこし暑さも和らぐ」

「さて、この暑さだから日本の風俗で単衣(裏地の無い着物)を着るのはもちろん、あるいは裸、あるいは肌脱ぎ、あるいは裾をまくり、寝る時には上半身をあらわにし、甚だしい者にいたっては、裸で十文字のような格好で寝る」

 

 

人前で裸になる日本人を見てアメリカ人はどう反応したのでしょう?

 

 

「アメリカ人はこれを見て大いに笑う。彼らは、どんなに大暑といえども、少しも肌をあらわにせず、肌をさらす者がいれば大いに蔑む。従って身分の低い者であってもシャツやズボンを着用し肌をあらわにしないことは、よい風俗といえよう」

 

 

以前、当ブログで「日本人と全裸」について分析した記事をアップしたことがあります

www.tuberculin.net

 

明治維新までの日本人は、人前で己の肌(もっと言えば裸)を見せることに対して、ほとんど抵抗がありませんでした。しかし、欧米諸国では人前で裸になることはハレンチなものと捉えていました(現在の価値観と同じですね)。

 

興味深いのは、佐太夫がどんなに暑くても服を脱がないアメリカ人の文化を"よい風俗"と感じていることです。日本人の中でもいち早く「裸=恥」の文化に触れた佐太夫の気持ちが表れていると言っていいでしょう。

 

 

 

ちょっとここで「暦(こよみ)」について説明しておきます。1860年当時の日本は「太陰暦(たいいんれき)」を採用していました。現在の日本は「太陽暦(たいようれき)」を採用しています。両者の違いは以下のサイトをご参照ください。

旧暦と陰暦、太陰暦と太陽太陰暦の違いは?日本の暦の歴史をたどってみよう – 酒とネコ

 

ここで言いたいことは、太陰暦だと暦のズレが1年で10~11日ほど生じるので、3年に1度「閏月」を設けてズレを修正したということです。昔の日本は3年に1度、1年が13か月になる年が存在していたのです。そして、使節団が出発した1860年は閏月が生じる年だったので、3月を2回繰り返しています。分かりやすく、2回目の3月を「3月」と表記しています。

 

 

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一行は、パナマ(上地図赤部分)に上陸。ポーハタン号とはここでお別れし、陸路を鉄道で移動し太平洋側から大西洋側の港に出るルートを取りました。サムライたちにとって、鉄道は初体験です。

 

 

1860年3月6日付け

「(前略)さて、車(蒸気機関車)の速いこと、左右に樹木があっても認識しにくいほどである。列車の音のやかましいこと、雷のようである。2人で話していてもよく聞き取れない。ただ、平らな所を走っている場面では、ゆっくり座っているようで文字を書くことも出来る。時たま窓を開ければ涼しい風が前面から吹いてきて、いかなる酷暑と言えども、その暑さを感じない。そのカラクリの精巧な事、驚くばかりである」

 

 

使節団が乗車した鉄道がこちらです。

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日本とアメリカの国旗がたなびいています。

 

 

パナマを鉄道で横断後、アメリカが用意した軍艦「ロアノーク号」に乗り換えてアメリカの首都ワシントンを目指します。

 

 

1860年3月9日付け

「昨夜、アメリカ人水兵が2人病死した。今日水葬にするということで、葬式が行われた。館長らが式に参加し、悲観の色を表さない者はいない。その深く切実な様子は、まるでわが子に対するような様子だった。」

「これによってアメリカが強国な理由が分かる。何かあれば上の者と下の者が親しくすること、この姿勢であれば自ずと人々の心は良い方向へ変わっていく。かつてアメリカは、建国以来反逆者がいないと聞いたが、実にそのとおりであろうと思う。」

「わが国では、身分が低い者が死んでも犬や馬が死んだのと同じで、身分の上の者が弔うことなどあり得ない。だから、上下間の情は薄く、アメリカ人に対して恥ずかしい。今、彼らを見て心に恥じない者はいないはずである」

 

 

身分制度が確固たるものであった日本で育った佐太夫も、アメリカ人の上下関係を超えた情の厚さに次第に感銘するようになっていくのです。しかしながら、身分の下の者が死んでも何とも思わない文化はその後も日本人の間に残り続けますよね。でないと、太平洋戦争時の「バンザイ突撃」とか「神風特攻隊」なんて戦術生まれませんもの。

 

 

 

 

ワシントンに上陸

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出典:ホワイトハウス - Wikipedia

 

1860年閏3月25日、一行はアメリカの首都ワシントンに上陸しました。閏3月28日、ホワイトハウスを訪問しアメリカ大統領と会見を行っています。佐太夫自身は中には入れませんでしたが、その様子を以下のように記しています。

 

 

1860年3月28日付け

「正午、御奉行たちが初めて大統領邸宅(ホワイトハウスのこと)を訪問した。今日は初めての会見であり御奉行(新見正興と村垣範正)、お目付(小栗忠順)は狩衣(かりぎぬ:江戸時代の公式な場で着用する礼服)を着ていた」

 

 

狩衣のイメージです

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出典:狩衣姿 | 日本服飾史

 

日本側は国を挙げた一大会見と捉え、最高レベルの礼服で臨みました。一方のアメリカ側の対応はどうだったのでしょう?

 

 

「さて、会見はいたって簡易であった。はじめ御奉行らが各待機室におり、しばらくして案内の者が来て御奉行たちを応接所に案内、大統領らと一礼して部屋の中に入った。大統領は全く威張ることなく衣服は黒羅紗で格別の装飾はなく、普通の人間と同じである(中略)各々帽子を取って手を握りその後談話に及んだ。」

 

 

こちらがその時の様子を描いた絵画です。

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出典:万延元年遣米使節団のニューヨーク訪問150周年記念:歴史

 

右側日本側の仰々しい態度と、左側アメリカ側のカジュアルな態度が描かれています。

 

そして、この会見を一目見ようとホワイトハウスの外には人だかりができていたようですが、特に格段の警備する様子もなく非常にオープンな状況に佐太夫は驚きます。実際に大統領と対面した副代表の村垣範正も自身の手記で『アメリカは上下関係もなく、礼儀は全くないので、我々が狩衣を着たことも意味がなかった』と記しています(『航海日記』)。

 

 

当時のホワイトハウスの様子はこんな感じでした。

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出典:ホワイトハウス - Wikipedia

 

 

その後数日間は、各大臣の邸宅を訪問したようです。4月1日、アメリカ人ガイドの案内によってワシントン市内を見学したのですが‥

 

 

1860年4月1日付け

「さて、今日は初めての外出であったが厳命があって一歩たりとも自由な行動は出来ず、ただガイドの意に従うだけであった。もっとも、繁華な所へ行くことは避けていたようにみえ、物寂しい場所だけを選んで案内された。みんな不満を表しているが、これまたどうしようもない。」

「アメリカ人たちは私たちを見ようとして道路は雑踏、親しもうと握手を求めてくる。また父母が3~4歳の小児を連れてきて握手をして欲しいといって離れない。その情の厚いことはこのようである」

 

 

そりゃあんまり自由に歩かせたら日本人を一目見ようと押し寄せますからね。

 

 

当時のアメリカのホテルはどうだったのでしょう?佐太夫は日記の欄外に【ワシントン形勢】と題してその概要を書き連ねていますが、その中で【旅館】という欄があります。

 

ワシントンの旅館について

「全体の部屋数は総計407室で高さは7階建てである。廊下を縦横に作り中央に花毛氈(カーペットのこと)を敷いて通行する。各客室は四面白壁で部屋の広さに応じて寝床(ベッド)を2つ、3つ備えてある。(中略)窓は全てガラス窓である。また、部屋の広さに応じて鏡台を立てるが、その他の家具類も1つも清潔でないものはない。」

 

「食堂は多く1階にあるが2回にも設けてある。便所は各階にある。(中略)大小便一緒で必ず尻をかけるところがある。その尻の当たるところは常に湯を回して暖めてある。かたわらに紐があり、これを上下に動かせばお湯が出てきて汚物を洗い流す」

 

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出典: https://irohanihoheto-jp.com/toilet/

 

佐太夫の記述によると、すでに160年前のアメリカでは、高級ホテルに水洗トイレが存在したことになります(日本における近代的な水洗トイレの登場は1916年とされる)。おそらく、頭上に水洗タンクが存在し、レバー(紐)を引っ張ると水が流れて汚物が流される仕組みだったようです。

 

 

「便所から半間(約90㎝)ほど隔てて浴室がある。長さ1間2~3尺(約200~210㎝)、横1間(約180㎝)ばかりに囲み、その中に長さ1間、横5尺(約150㎝)の湯桶がある。形は四角だが中は楕円形で鉄板製、浅くてようやく膝に達するほどだが、これは1人が入って横に寝て入浴するのである。湯桶の右に水と湯の管があり、ネジで口を閉じ、これを回せば湯水が思うがままに注ぎ出る。上にはジョウロ(シャワーのこと)を設けている。(中略)1人が風呂に入ればすぐに汚湯を流し出して新しいお湯を入れる。湯桶の中に穴が1つあり常に栓でその穴を塞いでいるが、入浴し終わってこれを抜けば汚れたお湯は流れ出ていく。1人の黒人の召使が常に側にいてこれを掃除するので、いささかの汚れも見られない」

 

 

現在のホテルとさほど変わらないような気もしてきます。彼らが宿泊したホテルは、「ウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン」というホテルです。現在も営業しています。

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出典:ウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン - Wikipedia

現在の建物は1901年に新築された建物ですが、当時も威風堂々としたたたずまいであったことでしょう。

 

ホテルの食事については以下のように記録しています。

 

 

「旅館の待遇は極めて厚く、常に饗応の官吏及び守衛、医師2、3人ずつが昼夜に渡って守っている。我が国の者が外出する時は必ず馬車を用意し案内役が1人付き添う。食事は御奉行には、果実酒・魚肉・パンなどである。ただ下級役人たちは、初め2日間は朝は米飯・パン・魚肉及び鶏卵・砂糖・バターなどを出す。昼は氷水・菓子・魚肉・野菜・鶏卵など数種類である。酒は1度も出てこなかったがこれは日本側の役人が断ったらしい。」

「その待遇は丁重だったが、2~3日経つと料理の種類が減ってしまった。コーヒー、湯茶は朝夕出るがいずれも(料理は)塩薄くいずれも口に合わない。テーブルの上には、塩、醬油のようなもの(ソース?)・酢・辛子・胡椒など5、6種類の香辛料が出ているが我が国の味とは違い、皆困惑していた」

 

 

ワシントンのホテルでの夕食の様子がこちらです。

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アメリカ側は、初日にたくさん料理を提供して、日本人がどの料理を好むのか調べていたようです。そして、その後は日本人好みの料理のみ提供するようになったのですが、佐太夫は『料理の種類減ったわ!』と不満に思ったようです。ちょっとしたすれ違いが起きていて面白いです。

 

 

 

ニューヨーカーの熱狂的な歓迎

 

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使節一行は、ワシントンを後にしフィラデルフィアに数日滞在。その後、アメリカ最大の都市、ニューヨークを訪れます。ニューヨークに上陸した後、ブロードウェイに向かってパレードが行われます。

 

パレード出発式の様子がこちら

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出典:万延元年遣米使節団のニューヨーク訪問150周年記念:歴史

 

 

パレードの様子を『航米日録』の記述を基に見ていきましょう。

 

 

1860年4月28日付け

「(ニューヨークに)上陸して御奉行以下全員馬車に乗っていくが、港では大砲を八門備えて祝砲を発する。そして、馬車の左右には歩兵が2尺(約60㎝)ほどの棍棒を腰にして並んでいる。また、特別に1台の車があり車上に美しい彩のテントを張り全面に彩りのある花を飾り、車の前には我が国とアメリカの国旗を並べ、その美しさは言葉にならないほどである」

「およそ小銃隊が4000人、騎兵隊2000人、大砲車16台など総勢7500名から成る警備隊である。これはアメリカ建国以来最大の警護であるという。ゆえに見物人の多いこと、数キロに渡って大混雑している。見るも愉快である。」

 

 

パレードの様子です。

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(C) Collection of Tom Burnett 

 

この建物は、使節団が宿泊したメトロポリタンホテル。窓から日本とアメリカの国旗が掲げられています。言っておきますが、この写真はまだ江戸時代の頃の様子ですからね。1950年前後の写真と言われても信じます。

 

 

ところで、佐太夫はアメリカ人に対して散々"情に厚いが礼儀が足りない"と嘆いていました。実は、当のアメリカ人側もそう思っている人々がいたようです。日本人のパレードの様子を報道した新聞社、ハーパー・ウィークリー誌は、アメリカ人の振る舞いに対してこう苦言を呈しています。

 

「米国には疑いなく紳士・淑女が存在する。しかし、米国訪問中の日本使節団一行が紳士・淑女に会い見舞える機会は来るのだろうか。野蛮で野放図な振る舞いを行うのは常に米国人ばかりではないか 」

 

日本人の礼儀正しさは、アメリカ人にとってもまた参考になる部分もあったようです。

 

 

一行は、ニューヨーク到着後、市内見学に出かけます。

 

 

1860年5月4日付け

「午後、市中を徘徊する。市内の建物の大きなことは全て我が国の大寺院のようである。なかでも洋服店(デパート)は最も巨大で、各階ごとに品物を分けて販売し、千種万品数えることさえできず目を驚かすばかりだ。」

「午後、御奉行たちがセントラルパークという所に行ったが、ここはニューヨーク市街の中央で庭園を造営中であり風景はとても美しく、現在造営の途中であるが、すでに1000万ドルの費用がかかっているという」

「今日、ある人が聾啞学校に行ったのでその話を聞いてみると、旅館から5、6町(約500~600m)行ったところにブルックリンという聾唖学校があり、生徒は300人ばかりで7歳から20歳くらいまでの者が多く、みな手真似を持って教えている。賢い者は1年間修業すれば文字を書いたりちょっとした事を話したりできるようになる。彼らが机の上で文章を書いていたそうだが、その素早さなこと息をつく間も無いほどだったという。これを聞いてアメリカ人は人を捨てないことを知った」

 

 

聾唖学校を見学した佐太夫は、まだ日本にはほとんど根付いていなかったバリアフリー社会を始めて目の当たりにし、感服したようです。

 

 

昼間は表敬訪問や市内見学に忙しかったのですが、夜は夜で歓迎パーティーも行われたようです。

 

1860年5月8日付け

「この日の夜、旅館の別室で今回の我が国との条約締結を祝うパーティーがあった。(中略)夕方から男女がパーティー会場に入ってきて、手と手を組んで踊り合う。その数は3000人という。見物人も多く数百人が部屋中にごった返して、誰が踊っているのかさえ見極めにくい。御奉行は正面の高いところにおられるが、アメリカ人たちはこれを見ようとして踊り手たちには構わずに無意味に雑踏するだけである」

「午後8時ごろになると踊り乱れる状態になり、各々酒を酌み交わし酒瓶(シャンパン)を抜く音が絶え間なく聞こえる。後になって男女とも酔いが回ってきて我が国の者と握手したり接吻までする。あるいは花を投げたり酒を注いだり笑い声が絶えず、その喧騒はまことに甚だしい。午前4時ごろになってようやく静かになった。」

「今夜のパーティーはアメリカ人の役人およびその妻子を除いて入ることの出来ないと言いながらこのありさまである。もし誰でも入ることが出来たとしたらその喧騒は計り知れないものであっただろう。奇妙な風習である」

 

 

ホテルでの舞踏会の様子がこちらです。

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佐太夫も『騒がしい』と不満を口にするものの、午前4時まできっちりお付き合いした模様。彼は酒好きですから、朝まで飲むのも苦では無かったのでしょう。

 

 

 

大西洋への航海へ

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1860年5月12日、盛大な祝砲の下、一行はアメリカが用意した軍艦「ナイアガラ号」で大西洋に向け出発します。石炭を補給するため、当時ポルトガル領であったカーボベルデ諸島に寄港します。

 

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現在では、カーボベルデ共和国として独立しています。たぶんこの記事の読者のほとんどは聞いたことない国名かもしれませんね。


 

1860年6月1日付け

「石炭を船中に積み込むが、夜半になってようやく終わった。午後陸上から"パイナップル"という果物を売りに来た者があり、よく日本語を知っていて『ワカラナイ』『スケベ』などと言う。これはかつて労働者として我が国に来たことがある者だという」

 

 

開国して間もない時期ではありましたが、どこかの西欧諸国の船に雇われて日本を訪れたことのある現地住人との出会いがあったようです。そして、もうちょっとマシな日本語を教えてあげてよ、と思いました(*'ω'*)

 

 

このカーボベルデの現地住民の様子について、佐太夫は酷評しています。

 

 

「男女とも色は黒く縮れ毛であり、その醜悪は見るに堪えない。衣服は我が国の風呂敷のようなものを着て、腰にはふんどしを着るだけである。家は板をもって壁とし、茅のようなもので屋根を覆い、土の床に直接座り、粗末でむさ苦しい。人種としては例えようもなく愚かである。役人のうち2人ほどが島に上陸したが、立ち小便をしようとして衣服をまくり上げたところ、土人は何を思ったか非常に驚いて大声を上げて逃げ去ったらしい。その愚かなることこの上ない」

 

佐太夫さんのセリフを現代で放ったら即問題になりますが、160年前の価値観が非常によく分かる記述です。まあ、現地住民からしてもチョンマゲ姿の日本人を見て『なにあの黄色い奴等』『なにあの髪型』と思われてたかもしれませんし‥。今までに経験したことがない物や事に出くわすと、自らの定規に当てはめて差別するのは、今も昔も変わっていませんね。

 

 

 

さて、彼らは大西洋を横断し、アフリカ大陸へ到着します。上陸したのはアンゴラです。

 

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出典:アンゴラ - Wikipedia


 

 

1860年6月25日付け

「午前11時ごろ上陸した。左右に黒人がおり男女数十人が砂や土の上に野菜や魚類を並べて売っている。また少し行くと市街地だが、中央に並木がありその下で黒人が小屋を構え雑品を売っている。ガラス玉を連ねた飾りが多く非常に小さくて綺麗である。ただ、砂や土の上に直に置いているので汚れている。私たちが来るのをみて喜びあるいは恐れ、声高に叫んでくるがその汚らしさには耐えられない。」

 

この後佐太夫は、鎖につながれて働かされている黒人の姿を目にするのですが、この時点では彼等黒人に対する同情心はなく、むしろ"汚らしい者たち"という視点で見ているようです。

 

現地の黒人奴隷の様子については、使節団の一員であった木村鉄太著の『航米記』に挿絵が挿入されています。

 

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出典:木村鉄太著『航米記』
 

 

 

 

 

ジャカルタ&香港訪問

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アンゴラを出発した一行は、アフリカ大陸最南端の喜望峰を経由しインド洋を北上、現在のインドネシア付近まで進みます。

 


 

1860年8月16日付け

「昨夜、(スンダ海峡の)アンジャーに到着し、ここで食料を買った(中略)さて、このあたりの人物は毛髪は黒く顔の色は中国人に似ており、歯を黒く染めているようにも見える(中略)。その振る舞いはアンゴラ人に比べれば粗暴さはない。多くの人は英語を用いる」

 

 

スンダー海峡」とは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間に位置する海峡を指します。

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出典:https://www.sankei.com/
 

 

自分と同じアジア人に久しぶりに出会い、ちょっとした親近感を抱いているようです。インドネシアは多数の島からなる島国であり、島が点在する様子を佐太夫は日本の宮城県にある松島の風景に似ていると評しました。佐太夫は仙台藩の出身ですから故郷の風景に似た景色を見て、日本が恋しくなっているのかもしれません。

 

 

一行はインドネシア最大の都市バタビア(現在の首都ジャカルタ)に上陸します。

 

 

1860年8月20日付け

「(上陸後)2時間ほどして一軒の店に休憩に入った。この店では酒を売っており"ビリヤード"という玉突きの台があり、2、3人の男子と1人の夫人が応対する。我が国の茶屋のような店だ。」

「私たちを一目見ようと現地住民が店の外に立ち並ぶ。アメリカ人と違って握手を求める者はいない。さらに女性たちは近づこうとせず、その雰囲気は我が国と似ている」

 

 

異国の人を一目見ようと野次馬になるのは、アメリカもインドネシアも日本も変わりません。ただ、積極的に交流を持とうとしたアメリカ人に対し、インドネシア人は遠巻きに見るだけといった様子を見て、インドネシア人と日本人は似ているなと佐太夫は思ったのです。

 

 

このバタビアでの滞在において、佐太夫が驚いたのが現地に住んでいる中国人の態度の横柄さとケチさです。

 

 

「(中国人の)人柄は素朴ではなく、他国の人を侮辱する(中略)今回私たちが上陸した時、中国人の中に巻きタバコをくれた者がいた。彼の親切と思い断らずに受け取ったら、翌日になってタバコの請求書を持ってきて厳しく支払いを求められた。また、私たちの服装が変わっているのを見て大いに笑う。非常に失礼である。思うに、昔はこのような性格で無かったと思うが、時代が変わって他国の人と交わってからたちまち性格が変わってしまったのであろう。恐るべきことである。」

 

 

タバコの請求書の話は現代でもありそうな話ではあります。江戸時代以降中国はアジア諸国への進出を強めていました。佐太夫を含む多くの日本人にとって、中国は昔からお手本にしてきた国であり憧れの対象でもあったのです。しかし、バタビアで見かけた中国人は、憧れとはかけ離れた存在に見えたのでしょう。

 

 

 

 

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出典:香港の歴史 - Wikipedia

 

一行は、インドネシアを後にし、いよいよ香港までやってきます。1842年のアヘン戦争においてイギリスに敗れた中国は、香港をイギリスに奪われてしまっていたのです。イギリスが支配する香港を歩いた佐太夫は、中国人の哀れな姿を目にします。

 

 

 

1860年9月12日付け

「(前略)歩き回ることすでに3時間ほどになったが、数十人の中国人が群がり私たちの様子を見ようとしている。イギリスの兵隊が近くにいて鉄の棒で撃ち払うが、まるで犬や馬を追い払うようだ。これを見て甚だ心が痛んだ」

「人柄は疑い深くずる賢い。ことに道端には盗賊が多く、少し用心しなければ担いでる荷物といえども奪い取られるとのことである。なおかつ中国人はイギリス人に使われること犬馬のようで、汚い仕事や労力を要する辛い仕事は全て中国人の仕事で、黒人奴隷のようだ。もともとこの土地の者であるにも関わらず、このように他国の者に酷使される様子を見て、極めて無念である。」

 

 

日本人から古くからお手本にしてきた中国人が、いまや西洋諸国の圧力に屈し、邪見に扱われこき使われている姿を見た佐太夫は衝撃を覚えます。そして、哀れな中国人の姿とアフリカで見た鎖につながれた黒人奴隷の姿が重なったのです。

 

日本もそう遠くない将来、外国の圧力に屈してしまうのではないか‥‥アメリカの強国ぶりをこの目で見た佐太夫にとって、それは現実味を帯びた問題として強く心に残ったことでしょう。

 

 

日本帰国

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1860年9月28日付け

「さて、千万里にも及ぶ航海からようやく帰国したわけであるから皆の喜びようは限りがない。さらに大洋を航海中は未曾有の苦行を経てしばしば死を覚悟した時もあったが、今にして思えば現実だったのか、それとも夢だったのか一同話し合いながら未だに信じられないといった様子である」

「ああ、この度の航海は我が国始まって以来未曾有のことであり、わずが十か月で地球を1周したことは"万国なお稀なり"と言われる。」

 

 

あまり感情を出さない佐太夫ですが、世界1周を10か月というスピードで達成したことに関しては、『万国なお稀なり(世界中でもまだ稀なことである)』と、ちょっと誇らしげに思っているみたいです。

 

 

 

 

玉虫佐太夫のその後

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公式訪問団として日本人初の世界一周を果たした万延元年遣米使節。帰国後はさぞかし好待遇でバリバリ活躍したかというと、どうもそういう訳では無さそうです。その証拠に、現代日本人の一体何人が使節団代表であった新見正興や村垣範正を知っているのでしょうか?

 

というのも、彼らが帰国した後の日本では、"外国など打ち払え!"という過激な排他思想が台頭してきたからです。この思想を「攘夷(じょうい)」と言います。そのせいで、江戸幕府の洋式化&近代化が遅れ、結果として薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕勢力に押されることになってしまったのです。せっかく幕府の人材を世界一周させてきたというのに、その経験をほとんど生かせないまま、幕府は倒れたのです。

 

幕府が倒れた後、薩摩藩&長州藩を中心とする新政府軍と、それに反発する旧幕府軍との間で内戦が起こりました。戊辰(ぼしん)戦争です。仙台藩の武士であった佐太夫ですが、仙台藩は旧幕府軍側に加勢。結果として新政府軍の前に仙台藩は壊滅、仙台藩側の重要人物と目された佐太夫は切腹を言い渡されます。1869年4月9日、切腹。享年47歳でした。

 

 

終わりに…

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出典:小栗忠順 - Wikipedia

 

使節団の中で帰国後、最も名を馳せた人物は、小栗忠順かと思います。彼は幕府の重臣として、攘夷運動が収まった後、幕府改革に乗り出しました。後に明治・大正期の政治家であり早稲田大学創設者でもある大隈重信は『明治新政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣に過ぎない』とさえ言い残しています。

 

そんな小栗も、戊辰戦争の際に新政府軍に捕らえられ処刑されています。江戸幕府だけでなく、明治新政府も遣米使節団の経験を十分に生かせ無かったのです。

 

今回のこの記事は、歴史に埋もれてしまっている遣米使節団を掘り起こすことで、当時の彼らが目にしたり感じたことを、グローバル社会に生きる皆様に触れて頂きたいと思って編集いたしました。160年以上前のサムライたちが感じた"世界"が、皆様に少しでも伝われば幸いです。

 

 

参考文献&参考サイト

 

<参考文献>

 

・『航米日録』/玉虫佐太夫著

・『仙台藩士幕末世界一周』/山本三郎訳

・『玉虫佐太夫「航米日録」を読む・日本最初の世界一周日記』/小田基著

 


仙台藩士幕末世界一周―玉蟲左太夫外遊録 (叢書東北の声)
  

 


玉蟲左太夫『航米日録』を読む: 日本最初の世界一周日記 (TUP叢書 (4))
 

 

 

<参考サイト>

 

玉虫左太夫 - Wikipedia

万延元年遣米使節 - Wikipedia

新見正興 - Wikipedia

村垣範正 - Wikipedia

小栗忠順 - Wikipedia

一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会 – 江戸幕府初の遣米使節・ポーハタン号

万延元年遣米使節団のニューヨーク訪問150周年記念:ホーム

外務省ホームページ(日本語):トップページ

遣米使節団160年 – 週刊NY生活ウェブ版

東善寺(小栗上野介)東善寺(小栗上野介)

 

 

 

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