もうすぐ76回目の終戦記念日、そして原爆投下の日を迎えます。コロナ禍の影響で去年に引き続き慰霊行事は縮小されてしまうかもしれませんが、例年8月になると、平和への想いを強くさせられます。
ところで、あなたは広島と長崎に落とされた原爆についてどのようにお考えですか?
アメリカの調査機関であるピュー・リサーチ・センターが2015年1~2月に日米で同時に行った意識調査を見ると、アメリカ人全体の56%が原爆投下を「正当化される」と認識しているようです。
出典:原爆投下を正当化するのは、どんなアメリカ人なのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
アメリカ人の中では未だに「原爆投下は仕方ない」「むしろ正しかった行為だ」という価値観を持つ人が過半数を占めます。そして、原爆を投下された側の日本人でさえ原爆投下を正当化している人が14%存在しているのです。7人に1人は原爆投下は「仕方なかった」とみなしているようです。
私は元中学校の教員です。日本の教育現場では、戦後から今まで平和学習を行っており、もちろん原爆投下も教えています。その現場では、「原爆は悲惨なもの」「原爆は憎むべきもの」とお経のように教え、最終的には「平和な世界へ」「核の無い地球を」と結論付けて終わります。
何が言いたいのかと言うと、「戦争はダメ!」といったような感情論を振りかざして反戦を掲げる姿勢に対する不十分さを感じているということです。もちろん、あんな悲惨な写真や映像を見せられれば、感情論が湧き上がってくるのは当然です。しかし、私は感情論だけではなく、論理的に原爆投下を否定したいのです。
「原爆投下は正しかった」「いや間違っていた」という感情論の対立だけでは、議論は平行線をたどるだけです。原爆投下正当化論に根拠を持って反論し、「~~と言う理由で原爆投下は必要無かった」と論理的に結論を出すことが当記事の目標です。
※原爆に関する記事ですが、原爆の悲惨な写真(特に被爆者の写真)は掲載していません。あくまで論理的に原爆投下肯定論に対し反論していくことを主眼としています。
※文章についてですが、中学3年生くらいの少年少女が読んでも理解できるように書いているつもりです。中高生のお子さんがいらっしゃる方は、当記事を読ませてあげてくだされば私としても嬉しい限りです。
※電子書籍くらい文量あります。
<目次>
- 原爆投下を正当化する論者の根拠
- アメリカの日本本土上陸作戦の内容とその実現性
- 原爆投下候補地の選定から分かるアメリカ側の"思惑"
- 日本政府の原爆投下への抗議
- 降伏は原爆投下でしか導けなかったのか?
- アメリカ側も理解していた「天皇制存続」
- 原爆投下に懸念を示したアメリカ人たち
- ポツダム宣言と原爆投下の関係性
- 原爆投下とソ連との関係性
- なぜアメリカは長崎にも原爆を投下したのか?
- 原爆投下を正当化する意見への反論
- 原爆投下という「過ち」を未来へどう生かしていくべきなのか?
- 参考文系&参考サイト
原爆投下を正当化する論者の根拠
出典:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7702/2/
(上写真は原爆投下を指示したアメリカ第33代大統領ハリー・S・トルーマン)
原爆投下を「仕方なかった」、もっと言えば「正しい行為だった」と消極的もしくは積極的に正当化する論者の根拠になっている思想は「あの時点(1945年8月)で原爆を投下し日本に降伏を迫らなければ、戦いは長引きさらに被害が拡大した」という考え方です。
"元陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている"
アメリカ軍の元陸軍長官であったスティムソンの主張からも分かるように、アメリカ側が原爆を肯定する理由としてよく言われるのが
- 原爆を投下したことで日本の降伏が早まった。
- 戦争終結が早まったことでアメリカ兵の命が救われた(一説によると100万人)
という理由です。
また、実際に広島に原爆を投下した戦闘機エノラ・ゲイの乗組員で最後の存命者であったセオドア・バンクーカ氏(1921‐2014)も、「原爆は戦争の終結を早め、多くの人の命を救った。投下せずに、本土上陸作戦を実施していたら凄惨な戦いになっていただろう」と生前のインタビューで述べています。( 出典:エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い: 日本経済新聞)
スティムソン氏や原爆を投下した戦闘機の乗組員たちの意見とアメリカ政府の現在の公式見解はほぼ一致しているとみて間違いないでしょう。
原爆投下が戦争終結を早めたと正当化するアメリカ側の価値観が垣間見える事象が1995年に起こりました。「原爆切手発行問題」です。
出典:https://www.jiji.com/jc/d4?p=sta924-jlp06174343&d=d4_hobby
戦争終結50周年を記念してアメリカ合衆国郵便公社が記念切手を発行ました。その切手のデザインに、原爆のキノコ雲が使用されたのです。さらにその欄外には「"Atomic bombs hasten the end of war, August 1945(1945年8月の原爆投下が戦争終結を早めた)」との文言が入っていたのです。
日本では悲劇の象徴とみなされるキノコ雲ですが、アメリカではそれも切手のデザインに採用されるもの、いうなれば"勝利の象徴"なのでしょう。このように原爆に対する評価や価値観は日米で大きく異なるのです。
アメリカの日本本土上陸作戦の内容とその実現性
原爆投下計画と同時進行で計画が進められたアメリカ軍による日本本土進攻作戦を通称「ダウンフォール作戦」と呼んでいます。先ほどのスティムソン氏の言及でしても『ダウンフォール作戦を実施すればアメリカ軍側に約100万人の犠牲が生じる』と述べられています。
ダウンフォール作戦の概要ですが「1945年秋に九州南部に上陸。航空基地を設置する」「占領した九州南部からの航空支援を受け1946年春に関東ヘ上陸」の2段階から成る作戦でした。
"両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、広島県と長崎県に続く原爆投下、及び大規模な化学兵器の使用、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事であった。 NBC兵器(大量破壊兵器)の無差別投入や、マスタードガス、サリン攻撃などの攻撃も検討されていた。"
原爆投下を指示したアメリカ大統領トルーマンは、原爆投下後の公式声明で「我々は戦争の苦しみを早く終わらせるために、数多くの命を、数多くのアメリカの青年を救うために、原爆を投下したのである」と述べており、原爆投下が多くの命を救ったと主張しています。
ちなみに、トルーマンが言う"数多くの命"ですが、救われたと主張する命の数は年々増えていったようです。
「25万人のアメリカ兵の命」(1946年)
「25万人のアメリカ兵の命と"同数の日本の若者"」(1948年)
「50万人の死傷者」(1949年)
「何百万という命」(1959年)
出典:『原爆投下とトルーマン』J・サミュエル・ウォーカー著
答えた年によって救われた命の数が大幅に異なるので、根拠を持って示した数字とは到底思えません。
そしてもし、私がトルーマン大統領に物申すことができるのであれば『ではあなたは、100万人ものアメリカ兵が戦死することが予想される日本本土上陸作戦に対してGOサインを出すつもりなのですか?』と聞いてみたいです。
例を出すと、1945年2~3月に行われた硫黄島の戦いにおいて、日本兵は粘り強く戦いアメリカ兵は予想以上の損害を被りました(アメリカ兵の死傷者数は日本側を上回る28686名)。この死傷者数を受けてアメリカ国民から『死傷者数が多すぎる』と批判の声が上がったのです。
もし、アメリカ側が本気で「日本本土上陸作戦は100万人の犠牲が予想される」と思っていたのであれば、まず間違いなくトルーマンは作戦の許可を出してはいないはずなのです。もしそんな大損害を被る(と予想している)作戦にOKを出せば、民主主義国家のアメリカならばたちまち失脚してしまいます。
すなわち、日本本土上陸作戦は計画は存在したものの、実施される可能性はほぼ0%の計画、言うなれば"机上の空論"であったのです。その机上の空論でしかない作戦をアメリカ側は原爆投下の理由の材料として主張しているに過ぎないのです。極端な話、「原爆投下で100万人の命を救った」という主張もまた机上の空論でしかないのです。
原爆投下候補地の選定から分かるアメリカ側の"思惑"
1945年8月6日に広島、8月9日には長崎にそれぞれ原爆が投下されました。投下する都市はどのように選定されていったのでしょう。その選定基準と選考過程を見ていくと、アメリカ側の原爆投下への思惑が見えてきます。
最初に原爆投下の場所について議論されたのが終戦2年前の1943年5月のことです。この時は「トラック諸島(現在のミクロネシア)に存在する日本の海軍拠点への投下」が検討されました。
トラック諸島(現在のチューク諸島)は、かつて日本海軍の一大拠点が存在した場所であり、"日本の真珠湾"と呼ばれていました。日本海軍に対し壊滅的打撃を与えるため、トラック諸島への原爆投下が検討されたのです。
そもそも、戦争にはルールがあります。戦時国際法と呼ばれている物で、この時代(1945年)に適用されていた代表的な条約が1907年に採択された「ハーグ条約」です。この中で"不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。"が明確に禁止されています。
ハーグ条約 (1899年及び1907年) - Wikipedia
原爆投下は不必要な苦痛を与える、紛れもなく国際法違反な兵器です。たとえ投下目標が軍事拠点であっても許されるものであはりません。ただ、少なくともこの段階では、非戦闘員の存在が想定されていない軍事拠点への投下が検討されており、戦争に勝利する手段としてのみ原爆投下が位置付けられていたようです。
1945年4月27日にアメリカ国内で実施された「第1回投下目標選定委員会」において投下候補地と挙げられたのは、以下の17地点です。
東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市
その時の委員会の文章がこちらです。
出典:アメリカ公立公文書館
上部に「TOP SECRET」と印が押されています。実はこの選定過程はアメリカ大統領でさえ知らされていない内密な情報だったようです。注目すべきは、後から手書きで「①→Hiroshima、②→Kyoto、③→Yokohama」と書いてあることです。おそらく、17地点の中でもその優先度を示したメモであると考えられます。
1945年5月10日~11日、第2回投下目標選定委員会が開催され、次の4都市が重要候補地として挙げられました。
- 京都市:AA級目標
- 広島市:AA級目標
- 横浜市:A級目標
- 小倉市:A級目標
小倉市は現在の福岡県北九州市を指します。候補の選定において考慮された基準が次の3点です。
- 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
- 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
- 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日、第3回投下目標選定委員会において、暫定での最終投下候補地を「京都市・広島市・新潟市」と定めます。また、投下についての"ルール"も定められました。
- 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
- 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
- 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
委員会の指針を読んでいると、うっすらとアメリカ側の思惑が見えてきます。日本の首都であった東京が目標に挙げられていないのは、すでに空襲で破壊しつくされていた東京に落としても"意味がない"と見られていたのでしょう。
「爆風によって効果的に破壊しうるものであること。」「来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。」という文言から、原爆がどのくらい破壊力を持った爆弾なのか確認したいというアメリカ側の本音をくみ取ることが出来ます。そして、その破壊力を正確に確認するため、投下日の投下地点におけるの気象条件も重視したのです。晴れの日の方が、被害状況を確認しやすいと考えたのでしょう。
また、投下目標選定委員会とは別に設置された陸軍長官スティムソンを代表とする「暫定委員会」において、以下のように原爆の取り扱いを決定します。
- 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり
- それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
- その際、原子爆弾について何らかの事前警告をしてはならない。
この決定が成されたのは1945年6月1日です。この決定に対しトルーマン大統領は『自分の意見と一致している』と述べたとされています。
ここで大きな論点となったのが、「原爆使用を事前に日本政府に対して警告するかどうか」です。暫定委員会の委員の1人で、委員会の代表であるスティムソンよりも発言力が大きかったとされるバーンズ(下写真:終戦直前に国務長官に就任)は、あくまで無警告での原爆投下にこだわりました。
もちろん、核兵器の使用自体が国際法違反なのですが、仮にもし使用するとしても、事前に投下警告をしておけば、人々は都市部から避難し、多くの人命が救われたのではないかと思うのです。例えば、広島と長崎に原爆が投下された後、次の投下目標になりうると判断した新潟市は、全市民に対して原爆疎開を命じています。
新潟がゴーストタウンになった日。知事が命じた「原爆疎開」 | ハフポスト
無警告、すなわち人々が都市に存在している前提で原爆投下を推し進めた背景には、建物に対する破壊力だけではなく、原爆が人体に及ぼす影響を調べたかったと考えられます。
アメリカは原爆開発段階で、末期ガンの患者に対し、無断で放射性物資を注入し、その影響を調べていました。
"コード番号「CAL1」が付されたアルバート・スティーブンス(当時58歳)は、サンフランシスコの病院で「胃がんで余命半年」と診断され、1945年5月、本人に無断で大量のプルトニウムを注入された。4日後、胃の3分の2と肝臓を切除する大手術を受け、患部は研究材料として持ち去られた。"
出典:アメリカ合衆国における人体実験 - Wikipedia
放射性物質が人体にどのような影響をおよぼすか、自国民に対しても人体実験を行っていたアメリカが、本物の原爆を投下した際に生じる人体への影響を知りたくないはずがありません。
私の主張をまとめると、アメリカは原爆が持つ破壊力や人体への影響を、実際に人間が居住している未破壊の街へ落とすことで確かめたかった、と言えるのではないでしょうか。
日本政府の原爆投下への抗議
原爆が広島へ投下された後、日本政府は8月8日付けで中立国のスイスを通じ、アメリカ政府に抗議文を送付しました。以下がその抗議文の全文です。
本月6日 米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり。広島市は何ら特殊の軍事的防備ないし施設を施しおらざる普通の一地方都市にして同市全体として一の軍事目標たるの性質を有するものにあらず。本件爆撃に関する声明において米国大統領トルーマンは、『我らは船渠、工場および交通施設を破壊すべし』と言いおるも本件爆弾は落下傘を附して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以て、これによる攻撃の効果を右のごとき特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右のごとき本件爆弾の性能については米国側においても既に承知しおる所なり。
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者非交戦者の別なく又男女老幼を問わず すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられ その被害範囲の一般的にしてかつ甚大なるのみならず個々の傷害状況より見るも いまだ見ざる残虐なるものと言うべきなり。
そもそも交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものにあらざること及び不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物その他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書陸戦の法規慣例に関する規則第22条および第23条(ホ)号に明定せらるる所なり。米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガスないしその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論により不法とせられおれりとし対手国側において、まずこれを使用せざる限りこれを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾はその性能の無差別かつ残虐性において従来斯る性能を有するがゆえに使用を禁止せられおる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しおれり。
米国は国際法および人道の根本原則を無視して既に広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社、仏閣、学校、病院、一般民家等を倒壊または焼失せしめたり。而して今や新規にして かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性、残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。
帝国政府はここに自らの名において かつまた全人類および文明の名において米国政府を糺弾すると共に即時斯る非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。
日本政府が抗議したポイントは次の5つのポイントです
- 広島市は軍事都市ではなく普通の都市であり、軍事目標にすべきではない
- アメリカのトルーマン大統領は『我らは船渠、工場および交通施設を破壊すべし』と言及しているが、原爆は広範囲に被害をもたらす兵器であり、特定の目標エリアのみ攻撃するのは不可能である。しかも、そのことをアメリカ側も承知しているはずである。
- 戦時国際法においても不必要かつ無制限に苦痛を与える兵器の使用は禁じられている。原爆はそれに違反する。
- (ナチスドイツなどが)戦時下において毒ガスを使用した際、『毒ガスないしその他の非人道的戦争方法は違法である』とアメリカ側は声明を出していた。原爆はその無差別性と残虐性において毒ガスをはるかに凌駕する兵器なのではないか?
- そもそも原爆投下以前にも、国際法を無視して日本中の都市を無差別爆撃(東京大空襲など)してきた。
そして、アメリカの原爆投下を『人類文化に対する新たな罪悪なり』と断罪しています。おそらくアメリカ側も認識していたであろう原爆投下への矛盾点を鋭く突いています。
降伏は原爆投下でしか導けなかったのか?
原爆投下を「仕方なかった」と捉えたり肯定化する意見の根底にあるのは、"原爆を投下する非情な方法しか日本に降伏を迫る方法が無かった"という考え方です。
この考え方に反論しようとする場合、「原爆投下するまでもなく日本は降伏した(と考えられる)」ことを示していく必要があります。
私見を述べれば、日本は1945年の中頃からアメリカを中心とする連合国軍に対して講和(和平)の道を模索していたのではないかと考えています。私がその根拠としているのが、1945年6月8日に開催された御前会議(天皇が出席する会議)において採択された今後の基本方針の一文です。
「七生尽忠の信念を源力とし地の利人の和を以て、飽く迄戦争を完遂し、以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」
出典:1945年6月8日付「今後採るべき戦争指導の基本大綱」
一般的には、この6月8日の基本方針への評価は、日本はまだまだ戦い続けることを示したものと批判がなされています。しかし、よくよく読んでみる(アンダーラインの部分)と、戦争をする目的が「国体護持」と「皇土を保衛」のみに絞られています。「国体」とは、天皇を中心とする国の在り方という意味があります。国体護持=天皇制の存続、と考えて頂いて結構です。
この1年前、1944年8月19日にも御前会議が開催され、そこでの方針文では「必勝を確信し」との文言が挿入されていました。1945年6月8日時点の方針文ではこの"必勝"という文言が削除されています。
戦争を継続する目的は「天皇制の存続」と「日本本土を守る」ことであり、逆にそれさえ達成できれば戦争を停戦しても差し支えない、戦争に勝つことは求めていない、と読むことも出来ます。この時点で、日本政府の姿勢はかなり講和(停戦)へ向かっていたと私は考察しています。
実際、この方針を立案した内閣書記長官の迫水久常は、後に『内閣側では、「国体が護持せられ、皇土が保衛されるならばそれで征戦の目的は達成されるのだ」という意味に解して、終戦に向かう方向を表したものと、解釈していたのであります』と書き記しています。
出典:迫水久常『終戦の眞相』34-35頁。
もっとも、内閣側と軍部側ではまだまだ意見の統一は為されていなかった模様です。内閣側では、外交努力によって国体護持を条件にした停戦をアメリカ側から引き出せると考えていたのに対し、軍部側はあくまで本土決戦に引きずり込み、そこでアメリカに対し一撃を加え、多少優位になった状態での停戦を望んでいました。
ただ、国の方針文から「必勝」の文字が消えたことからも分かるように、1945年6月時点ではすでに戦争継続の目的が勝つことから国体護持(=天皇制の存続)に切り替わっていたことが分かります。この目的さえ果たせれば、停戦の余地は十分にあったと考えられます。
結果的には、天皇制は廃止されることなく現代まで続いています。もし、アメリカ側にとって天皇制存続が許容しがたいものであったのなら、戦後のアメリカ統治下において昭和天皇は少なくとも皇位から追放されているでしょう。しかし、現実には天皇制は存続していますから、アメリカ側にとっても天皇制存続自体は許容しがたいものでは無かったのではないでしょうか。
まとめると、外交交渉によってアメリカ側が天皇制存続を認めることを条件に降伏を日本に迫ってきたとしたら、日本側も受け入れる可能性が高く、原爆を投下する必要はなかったはずなのです。
アメリカ側も理解していた「天皇制存続」
では、この「天皇制存続容認の条件のもとに停戦」という条件は、アメリカ側にとって受け入れがたいものだったのでしょうか?
実はアメリカ政府側にも、天皇制存続に理解を示す政治家が一定数存在しました。そのうちの1人がジョセフ・グルー国務次官です(下写真)
かつて駐日アメリカ大使だったグルーは、日本の情報に精通していました。彼は、天皇制存続について天皇そのものを"女王蜂"に例え、『もし、群れから女王蜂を取り除けば、巣全体が崩壊するであろう』と述べ、天皇の存在が唯一の日本の安定要因だと考えていました(出典:廣部泉著『グルー 真の日本の友』ミネルヴァ書房)
【中古】 グルー 真の日本の友 ミネルヴァ日本評伝選/廣部泉【著】 【中古】afb
1944年12月、アメリカ政府内に戦争遂行と戦後処理について意見を調整する国務長官、陸軍長官、海軍長官の三者からなる「3人委員会」が発足しました。国務長官の代理としてグルー氏は頻繁に会議に出席していていました。
3人委員会における三者の共通認識は「天皇制さえ守ることを条件にすれば、日本とは終戦の交渉の余地がある」というものでした。(出典:日本への原子爆弾投下 - Wikipedia)。グルー氏は1945年5月段階で、アメリカ大統領が日本に降伏を呼びかける声明を発することがあるならば、降伏の条件として、天皇制存置を認める文言を含むことをトルーマン大統領に訴えました。
後にグルー氏は、トルーマン大統領が自分の勧告どおりに、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかったと述べています(出典:有馬哲夫『歴史とプロパガンダ』PHP研究所2015年)。ただ、その勧告に対し、トルーマン大統領は『好ましくない』と却下しました。
もっと言えばアメリカ側は、日本側がソビエト連邦を通じてアメリカ側との和平の道を探っている情報を掴んでいました。
"戦争に勝てないと判断した大日本帝国政府は、7月12日にソ連にいる日本特命全権大使(佐藤尚武)宛てに、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。そのパープル暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。トルーマンは、大日本帝国政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。ポツダム入りしたアメリカ陸海空軍参謀本部は首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本は既に壊滅状態で原爆を使う必要は無く、警告すれば十分」との結論を出した。しかしトルーマンは、その結論を信用しなかった。"
トルーマン大統領自身も、日本に降伏する準備があることを1945年7月段階で認識していたのです。しかしながら、そのような日本の動向を無視する形で原爆投下を推し進めました。
原爆投下に懸念を示したアメリカ人たち
原爆投下に反対していたのは、グルー氏だけではありません。1945年当時、アメリカ海軍の参謀長で大統領にも近かったウィリアム・リーヒ参謀長は後の回想録の中で次のように述べています。
「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。」
軍人ですら、原爆投下を疑問視する声も存在していたのです。リーヒ参謀長は最終的に「元帥(げんすい)」という軍人として最高位の階級に昇進するような人物です。その彼が原爆に対し否定的な見解を示していることは注目すべきでしょう。
投下への懸念は原爆製造計画(マンハッタン計画)に参加した科学者からも聞こえてきました。後にノーベル賞を受賞した物理学者のジェイムス・フランクは、原爆投下に反対する科学者たちを集めて報告書を提出しました。『フランクレポート』と呼ばれているものです。
"軍人、市民の区別なく生命を大量に殺戮などという手段を採用すれば、アメリカは世界的信用を失う。無警告による投下によって得られる軍事的利点、例えば、アメリカ軍兵士の生命救済も、投下によって生じる信頼の喪失に比べれば、ものの数ではない。不信は世界に広がるばかりか、我が国の世論を深く分裂させ、恐怖と不信と反抗を生むだろう。"
とし、原爆の使用方法については
"あらかじめ無人の地域で実演をして公開するなど、日本に破壊力を認識させるような方法で、原爆の示威をすべきである"
と述べています(出典:フランクレポート - Wikipedia)。核兵器を使用すれば核開発競争を招く恐れがあり危険と考え、原爆の実戦使用に反対しました。しかし、このレポートはアメリカ政府によって退けられてしまいます。
トルーマン大統領へ手紙を送る人物もいました。例えば、原爆製造計画に携わったエンジニア、ブルースター氏は、トルーマン宛に原爆投下反対の手紙を送りました。
"親愛なるトルーマン大統領。自分は無名の何の影響力も無い名声も無い技術者です。しかし、名も無い一般人だからと言ってどうか、この訴えを無視しないでください(中略)原子爆弾は地球上に存在することを許してはならないものです。これは絶対に使用してはいけません。どうか原爆投下を阻止してください。投下すれば文明の破壊は免れません。無制限の核開発競争も始めるでしょう。この国では沢山の国民があなたを見ています。この国の未来と世界の平和と言う名目で、あなたが偏った取り決めをしないでください"
出典:『Look』(1963年8月13日号)
この手紙は、陸軍長官であったスティムソン氏に届けられ、内容に興味を示したスティムソン氏がトルーマンへ渡したとされています。ただ、その声が反映されることはありませんでした。
ポツダム宣言と原爆投下の関係性
1945年5月にはドイツが降伏し、ヨーロッパ戦線は収束しました。その後のヨーロッパ戦後構想ならびにまだ戦争を継続している日本への対応を話し合うため、ドイツのポツダムで米・英・ソ連の3首脳による会議がもたれました。ポツダム会談です。
1つの意見として、1945年7月に開催されたポツダム会談にて採択されたポツダム宣言(日本への降伏を勧告する宣言)を日本側が無視したから原爆を投下しとどめを刺した、という考え方があります。この考え方は、アメリカ国内において広く浸透しており、その証拠にアメリカの教科書にもそのような書かれ方がしてあります。
"連合国の指導者たちは、ポツダムから日本に対し、降伏しなければ「迅速かつ完全な破滅」が行われると警告する声明を送った。しかし、原子爆弾のことを知らない日本の指導者たちはこのポツダム宣言を無視した。(中略)戦争後、トルーマン大統領は、原爆使用に同意したのは「戦争の苦しみを早く終わらせ、大勢のアメリカ人の命を救うためだった」と語った。大統領は正しい判断を下したと思いますか?あなたの意見を述べなさい"
出典:『The American National』2002年版
つまり、「ポツダム宣言を日本側が無視」したから「原爆投下」の流れになった、と主張していますが、これははっきり言って間違いです。 なぜなら、ポツダム宣言が採択されたのは7月26日、一方で日本への原爆投下が正式に命令されたされたのは7月25日、ポツダム宣言採択の前日だったからです。
こちらが原爆投下命令書です。
命令書によると「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの目標都市の一つに8月3日ごろ以降、最初の原爆を投下する命令」が出されています。その日付は「25 July 1945」となっています。
すなわち、ポツダム宣言を日本側が拒否したから原爆投下を決定したのではなく、すでにポツダム宣言を出す前から投下を決定していたのです。
原爆投下とソ連との関係性
アメリカは日本が講和への道を模索していたことを知っていました。外交交渉によって原爆投下をしなくても日本を降伏させることが出来ると主張するアメリカの政府関係者も存在していました。では、なぜアメリカはそのような状況において、外交交渉をせず日本に原爆を投下したのでしょうか?そこにチラつくのは、ソビエト連邦の影でした。
1945年7月17日より始まったポツダム会談ですが、実はイギリスのチャーチル首相は5月ごろからアメリカに対し再三、三首脳による会談を開催するように要請していました。ところが、アメリカはある理由から会談の開催を先延ばしにしていました。アメリカのトルーマン大統領は、7月中旬にアメリカ国内で実施される核実験の成否を見てから、会談に臨みたいと考えていたのです。
出典:Trinity's cloud (1945) | Restricted Data
トルーマン自身も核実験が行われるまでは、原爆に対して懐疑的な見方をしていました。もし、核実験が失敗(不発など)してしまえば、アメリカの名誉が傷付く事になると恐れたのです。
(左からチャーチル・トルーマン・スターリン)
ポツダム会談に出席するチャーチル首相とスターリン書記長は、共に経験豊富で政治手腕もある政治家でした。45年4月に大統領に就任したばかりのトルーマンが苦戦するのは明らかで、是非とも核実験成功というカードを持って会談に臨みたいという思惑がありました。
ポツダム会談に出席する前まで、トルーマンはソ連が日本を攻撃することを望んでいました。日本とソ連は不戦条約を結んでおり、戦闘状態には入っていませんでした。日本を徹底的に叩きたい、その一方で原爆が上手く爆発するか不安視していたトルーマンにとって、ソ連の対日参戦は非常に魅力的なものに映ったのです。ある意味、原爆が不発に終わった時の"保険"として、ソ連参戦を考えていたのです。
会談初日、トルーマンとスターリンは個別会談を行い、その際、ソ連の対日参戦を要請しました。それに対しスターリンは『8月中旬を目処に参戦する準備がある』と返答しました。
ソ連の対日参戦はすでに45年2月に実施されたヤルタ会談(米・英・ソ連の首脳が出席した会談。米は前大統領のルーズベルトが出席した)において「ドイツ降伏後2〜3ヶ月後を目処にソ連が日本を攻撃する」という密約が会議出席国間で交わされており、ポツダム会談段階ではソ連の対日参戦は確定済みの案件ではありました。それをトルーマンは念押ししてソ連側に確認したのです。
トルーマンは、改めてソ連参戦をスターリンに促した日の日記において『彼(スターリン)は8月15日に対日戦争に参戦する。そうなったらジャップ(日本人への蔑称)も終わりだ』と書き記しています。(出典:『Off the record』トルーマン著)
Off the Record: The Private Papers of Harry S.Truman (Give 'Em Hell Harry Series)
さらに同じ日に、妻であるベス・トルーマンに宛てた手紙の中で『スターリンは8月15日に何の条件も付けずに戦争に参加する。戦争は1年以内に終わるであろう。これでアメリカの兵隊が死ななくて済む。これが重要な点だ』と書き記しています。
出典:『Dear Bess: The Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959』
Dear Bess: The Letters from Harry to Bess Truman
この日記や手紙の文章だけで判断するのであれば、トルーマンはソ連参戦を喜んでいるし、ソ連参戦によって日本は確実に降伏すると思っていたようです。こうなってくるとなぜ原爆を投下したのか分からなくなってきます。原爆投下が日本の降伏を導いたとアメリカは主張していますが、トルーマンはソ連が参戦すれば日本は降伏するだろうと見越しているのです。ソ連参戦の確約を取れたにもかかわらず、原爆投下を中止しなかったのは、日本に降伏を迫る以外の投下理由があったとみるべきです。
もっとも、核実験の成功並びにその詳細情報が次々とトルーマンに報告されると、その態度を急変させます。核実験の結果がトルーマンの予想以上に素晴らしいものだったようで、次第に原爆の力を借りればソ連参戦が無くとも日本を叩きのめすことが出来ると考えるようになりました。
作家の竹田恒泰氏はアメリカの原爆投下の思惑について『戦後ソ連に対して優位に立つには、ソ連参戦前に原子爆弾を使用し、アジアでのソ連の影響力を封じ込めることが、アメリカの国益に寄与するのは明白だった』としています(出典:『アメリカの戦争責任』259ページ) アメリカの戦争責任 戦後最大のタブーに挑む (PHP新書)
予想以上に強力で確実に爆発するであろう原爆が実戦で使用できると分かった時点で、ソ連参戦という"保険"は必要なくなったとアメリカ側は思ったのでしょう。なおかつ、ソ連とも距離的に近い日本に原爆を投下する行為自体がそのままソ連への牽制になると考えたのです。
スターリンがアメリカ側の思惑に気付いたのは、7月26日に発表されたポツダム宣言にソ連を加えなかったのが分かった時です。日本への最後通牒とも言えるポツダム宣言を発表するにあたって、アメリカはわざとソ連抜きで事を運びました。
まだ日本と戦争状態になっていないソ連に配慮した、とアメリカ側は説明しましたが、この抜け駆けをスターリンは、ソ連の手を借りずにアメリカが日本を降伏させるつもりだと認識しました。日本へ攻撃を仕掛け、日本の領土を奪い取る野望を持っていたスターリンにとって、ソ連参戦前に日本が降伏してしまう事だけは避けたいと考えていました。
ソ連を牽制するためには、ソ連が日本へ攻撃を仕掛ける前に原爆を投下した方がそのショックは大きいと考えられます。ポツダム会談後は、アメリカ側は原爆投下の準備、ソ連側は対日参戦の準備を急ピッチで進めたようです。時系列で表すと以下の通りです。
7月25日:日本への原爆投下を正式に決定
7月26日:日本へ降伏を迫るポツダム宣言を発表
7月29日:日本の鈴木首相、ポツダム宣言を「黙殺」すると表明
8月6日:広島へ原爆投下
8月8日:ソ連が日本へ宣戦布告(9日午前0時に攻撃開始)
8月9日:長崎へ原爆投下
ポツダム宣言が発表された時点で日本はまだ、不戦条約を結んでいるソ連を仲介とした和平交渉が出来ると考えていました。ソ連に対し仲介を依頼しその返答待ちだったので、鈴木首相はポツダム宣言を「黙殺(ノーコメント)」すると表明したのです(ソ連は回答を先延ばしにすることで日本への攻撃準備の時間を稼いでいた)。この「黙殺」の言葉の意味をアメリカ側は「拒絶する」と訳し、それを口実に原爆投下に踏み切ったのです。
wikipediaの「ポツダム宣言」のページには「黙殺」の翻訳違いについてこう書かれています。
"この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。"
もっとも、トルーマン大統領自身は『最後通告(ポツダム宣言)に対する日本の正式な回答はなかった』(出典:『トルーマン回顧録(1)』301ページ)と書き残しているように、日本側は宣言を承認も拒否もしていないことを認識しているのです。
ですが、8月6日の原爆投下直後に発表した大統領声明では『日本の指導者たちはこの最後通牒(=ポツダム宣言)を即座に拒絶した』(出典:原爆投下に関するアメリカ政府の公式声明(1945年8月)』とあり、即座に拒絶したから原爆を投下せざるをえなかったとアメリカ国民に訴えているのです。けれども、日本政府がポツダム宣言を公式に拒絶した事実は存在しません。それは、トルーマン自身も認識していたことなのです。
ですからもし、原爆投下の理由の1つとして『日本がポツダム宣言を拒絶したから』とアメリカ側が主張してきても、『そのような事実は存在しない』とだけ答えれば良いということです。
なぜアメリカは長崎にも原爆を投下したのか?
ここまで、アメリカ側の『原爆投下によって日本の降伏が早まった』『多くのアメリカ兵の命が救われた』といった投下理由が説得力を持たないことを当ブログでは主張してきました。
もちろん、アメリカ側にもアメリカ側の正義だったり価値観が存在するでしょうから、『いや、やはり日本を降伏に追い込むためには原爆投下は必要だった』と再反論してくるかもしれません。
では、原爆を1発だけでなく2発落とす必要はあったのでしょうか?恐らく、原爆肯定派の立場に立つような人でさえ、1発目の原爆はともかく2発目の長崎への投下の必要性に関して、うまく説明出来ないんじゃないでしょうか。
例えば、アメリカのバートン・バーンスタイン教授も『1発目の原爆投下の必要性をどうように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた2発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった』と述べています(出典:『検証・原爆投下までの300日』)
もし、原爆が日本へ降伏を迫るためだけの理由で投下されたのであれば、 8月8日にソ連が日本へ攻撃を開始した時点で2発目の投下を中止すべきでしょう。前述したように、トルーマン大統領はじめアメリカ側は、ソ連が対日参戦することで日本は確実に降伏すると読んでいました。なぜなら、日本はソ連をアメリカとの和平交渉の仲介役として期待しており、ソ連の対日参戦はその期待が完全に消滅したことを意味していたからです。
ソ連が仲介してくれない以上、残された道は徹底抗戦か降伏しかないのですが、アメリカとソ連を同時に相手するなど到底不可能なことは、当時の軍部でさえ認識していました。ソ連が参戦してきた時点で、日本の降伏は決まったようなものです。
すなわち、日本に降伏を迫る事が原爆投下の理由であるならば、ソ連が参戦した時点で2発目の原爆投下は中止(最低でも延期)するのが筋というものです。しかし、トルーマン大統領が中止を命じた事実は存在していません。ということは、少なくとも2発目の原爆投下に関して言えば、その投下理由として「日本へ降伏を迫るため」では無いことが分かります。
そもそも、1発目の原爆を広島に投下(8月6日)してから2発目を落とすまで(8月9日)中2日間しかありません。戦争を終結させるためには、様々な方面への調整が必要であり時間的猶予が望まれるべきところです。猶予をほぼ与えずに2発目を投下したことは、言うなれば「2発落とすまで降伏はさせない」というアメリカの姿勢を示すものではないでしょうか?
中2日間で2つの原爆を投下した事実から、原爆投下は「2発で1作戦」だったと考えられます。先ほど引用した1945年7月25日付けの「原爆投下命令書」の第2項において、次のような文言が記されています。
(2)更に別の爆弾が準備され次第に前記目標に投下せよ。前記以外の爆撃目標に就いての指令は追って発表される。
第1項では「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの目標都市の一つに8月3日ごろ以降、最初の原爆を投下せよ」と書かれていましたが、命令書の段階で最初から2発の原爆を投下することが決定していたようです。ソ連参戦のタイミングに関わらず、2発の原爆投下は既定路線だったようです。
ご存知かとは思いますが、広島に落とされた原爆は「リトルボーイ」、長崎に落とされた原爆は「ファットマン」と言います。一言で原爆と言っても、2つの原爆は使用している放射性物質が違うのです。リトルボーイはウラン、ファットマンはプルトニウムを使用しています。
1945年7月に行われたアメリカの核実験において、実験されたのはプルトニウム系の原爆でした。当時の科学者の間では、ウラン系の原爆は単純な構造であり、実験しなくとも確実に爆発すると予想されていました。
"8月6日に日本の広島市に投下された一発目の爆弾は「リトルボーイ」というコードネームで呼ばれ、核分裂物質としてウラン235が使われていた。このタイプの原子爆弾は実験を行なっていなかったが、爆縮型の原爆に比べて構造がはるかに単純なため、ほぼ間違いなく正常に作動することが予想された。"
私見ですが、アメリカにとって"本命の原爆"は2発目のファットマンだったのではないかと思うのです。1発目の原爆は確実に爆発すると見られていた(不発だとアメリカのメンツに関わる)リトルボーイを投下し、その成功を持って広島型よりも威力が強いプルトニウム系のファットマンを満を持して長崎に投下したのではないでしょうか?2発目が本命なのですから、例え1発目投下後にソ連が参戦して日本の降伏が決定的になろうともアメリカにとっては関係なかったのでしょう。
原爆投下を正当化する意見への反論
長々と原爆投下肯定論に反論してきました。当ブログの主張をまとめます。
<原爆投下はたくさんの命を救ったのか?>
・「もし日本本土決戦が行わればアメリカ兵に100万人の犠牲が生じた」という原爆投下の正当化の根拠に関して、予想される犠牲者数は根拠ない数字であり、原爆を正当化できるものとしては不十分である
・そもそも、100万人の犠牲が予想される日本本土上陸作戦にGOサインを出せば、世論の反発が予想され、政権そのものが倒れてしまう恐れがある。日本本土上陸作戦自体が机上の空論であり、原爆投下を肯定する根拠には出来ない。
<原爆投下でしか日本を降伏に導けなかったのか?>
・少なくとも1945年中ごろには、日本はソ連を仲介とした和平交渉を模索していた。そのことをアメリカも認識していた。交渉の余地はいくらでも存在した
・日本側の唯一の懸念事項は天皇制の存続であった。アメリカ国内にも天皇制を認めることを条件に日本に降伏を迫るべしとの意見があった。天皇制の存続自体はアメリカ側が許容しがたい条件ではなく、そのような条件で降伏を迫れば、日本が早い段階で降伏を受け入れた可能性は非常に高かったと言える。
・原爆投下よりもソ連参戦の方が日本に与えるショックが大きいとトルーマン大統領は認識していた。原爆投下せずとも、ソ連の参戦の確約を得た時点で決着はついたと考えられるため、原爆投下は不要であった。
・「日本がポツダム宣言を拒否したから原爆を投下した」という主張も正しくない。日本がポツダム宣言を"拒否"したという事実は存在しない。そもそも、宣言発表の前日に原爆投下の命令を下している。原爆投下は既定路線だった。
<何のために原爆を投下したのか?>
・原爆の破壊力や人体に与える影響を調べたかった。そのため、空襲が行われていない未破壊の都市を狙って原爆を投下した。
・まだ核兵器を開発できていなかったソ連に対し、軍事的かつ政治的な圧力をかけるため。戦後、アジアにおける影響力を原爆の力で保とうとした。
以上の根拠をもって、当ブログでは「原爆投下は不必要だった」と結論付けます。 もし、それでも原爆投下は必要だったと主張する方がいらっしゃれば、これらの根拠を全て論破しなければなりませんが、いかかでしょうか?
原爆投下という「過ち」を未来へどう生かしていくべきなのか?
出典:総務省
広島市の平和記念公園には、原爆死没者慰霊碑があります。その碑文にはこう書いてあります。
『安からに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』
この慰霊碑が建立されたのは1952年ですが、当時からこの碑文を巡って論争が起こっています。「過ち」をおかしたのは誰なのか?という議論です。
広島市の見解は過ちを犯した主語を「人類」と定義しているようです。
"碑文の趣旨は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。つまり、碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています。"
出典:原爆死没者慰霊碑の碑文を改めるべき - 広島市公式ホームページ
私から言わせれば、人類、なんていう綺麗で当たり障りのない言葉を選んでいるように思えてなりません。原爆投下という卑劣な行為をした過ちは、どう考えてもアメリカもしくは当時の最高責任者トルーマンにあると考えるべきです。
しかしながら、原爆投下の責任及び謝罪を例えば戦後生まれの現代のアメリカ大統領(バイデン大統領は戦前生まれですが…)に追及し続けるのも、少し違う気がするのです。もちろん謝罪してもらえばそれはそれで構わないのですが、謝罪してもらう事以上に大切なのが"長崎を最後の被爆地にすること"だと思うのです。
長崎を最後の被爆地にするためには、序章でも述べたように、論理的に原爆投下を否定できるようにならなければなりません。『原爆は恐ろしいもの』という感情だけでは、『原爆投下でたくさんの人が救われたんだよ』というアメリカ側の価値観をぶつけられた時に、反核の決意が揺らいでしまいかねないからです。
2021年現在、実際に被爆された方々がまだ生きておられ、その体験談をお話してくださる方も多くいらっしゃいます。もちろん、悲惨で思い出したくもない体験談をお話してくださることに、敬意を払うのは当然ですが、いずれ被爆者全員がお亡くなりになる日がやってきます。実際に原爆を体験していない世代が感情論だけで語り継いでいくのは中々難しいものがあると思います。だからこそ、論理的に原爆投下を否定できなければいけないのです。
今回は原爆投下にテーマを絞ってお話してきましたが、不幸な戦争を再び繰り返さないように、今を生きる私たちがどう考え何をすべきか考えていかなければならないと思います。そのために当記事が少しでも役立てば幸いです。
参考文系&参考サイト
<参考文献>
・『届かなかった手紙』大平一枝著
・『まさかの大統領』A・J・ベイム著、河内隆弥訳
・『アメリカの戦争責任』竹田恒泰著
・『原爆投下とトルーマン』J・サミュエル・ウォーカー著
・『終戦の眞相』 迫水久常著
・『グルー 真の日本の友』廣部泉著
・『Off the record』トルーマン著
・『Dear Bess: The Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959』トルーマン著
・『トルーマン回顧録』トルーマン著
<参考サイト>
日本への原爆投下は必要な』トルーマン著かった…アメリカで急拡大する「新たな考え方」(飯塚 真紀子) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
アメリカは長崎に2つ目の原爆を落とす必要があったのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ハーバードで白熱議論「長崎への原爆投下は必要だったのか」 | ハーバードの知性に学ぶ「日本論」 佐藤智恵 | ダイヤモンド・オンライン