
当ブログを開設したのは2018年12月です。開設した当時からいつかは書きたいと思っていたテーマが「心臓移植」です。心臓移植とは、死亡した直後の人(提供者=ドナー)から健康な心臓を取り出し、重度の心疾患のある患者(移植される人=レシピエント)に移植することを言います。
1967年に南アフリカで実施されて以来、世界中で研究が進められました。術後の寿命も延び初め、80年年代には欧米諸国でも臓器移植に関する法律が整備されていきました。日本でも1997年10月に「臓器移植法(後に改正)」が施行されました。
突然ですが、皆さんは心臓移植手術を行う事に賛成でしょうか?それとも反対でしょうか?当ブログ管理人の意見は「積極的に行うべき。移植のハードルも下げて1人でも多くの心臓移植を待つ患者の命を救うべき」と考えています。というのも、私の小中学校の同級生(Aさんとしておきます)が心臓移植によって命を繋ぐことが出来たという身近な実例を経験しているからです。
個人的な実感としては、心臓移植を行い心疾患を持つ患者の命を救うことそのものに反対の方はあまりいない気がするんですよね。どちらかというと、移植手術を行うまでのプロセスやどこまで臓器移植のルールのハードルを下げるべきなのか(または厳格にすべきなのか)、といった点で議論が分かれているように感じます。
当記事では私の同級生の心臓移植を1つの例にしながら、なるべく様々な立場から心臓移植についてアプローチしていきたいと思います。
<目次>
- 臓器移植法について
- 「脳死」とは何か?
- 脳死と植物状態の違い
- 脳死は人の死か
- 欧米諸国と日本の死生観の違い
- 脳死をめぐる攻防
- 現在の法律における脳死の決着点
- 日本国内における脳死移植の現状
- 日本で臓器移植が進まない理由
- クラスメイトが心臓移植手術を受けた話
- 脳死患者側の立場から
- 俗語としての「脳死」が使われることについて
- 終わりに…
臓器移植法について

いわゆる"脳死状態"の患者から心臓を含む臓器を移植できるようにする法律、「臓器移植法」が施行されたのは1997年10月16日です。その後、2010年7月17日に「改正臓器移植法」が施行されました。旧法と改正法では、移植が可能な条件が結構違うので簡単に比較したいと思います。

出典:臓器移植について | 長崎県腎臓バンク | 公益財団法人 長崎県健康事業団
旧臓器移植法では、脳死状態で臓器が提供できる条件として「生前の本人の書面による意志表示」と「家族の承認」、この両方が揃っていることでした。また、生前の本人の書面による意志表示が遺言扱いとなり、なおかつ民法上遺言が効力を持つのは記載者が15歳以上のみというルールから、臓器を提供できるのは15歳以上に限られるとみなされてきました。
すなわち、旧法では子供から子供への臓器移植は認められないこととなり、臓器移植が必要な子供は海外へ渡航し手術するしかありませんでした。
そういった状況を打開するため、2010年に改正法が施行されました。改正法では生前に本人の意思が表示されていなくても、家族の承認があれば臓器提供を行えるようになりました(もちろん、本人が生前に書面で臓器提供を拒否していればその意思が優先されます)。このことにより、15歳未満の臓器提供が可能となりました。
「脳死」とは何か?

そもそも、人間はどのような状態になったら"死んだ"とみなされるのでしょうか。いわゆる脳死という概念が登場する前(~昭和時代)は、「心臓死」が人間の死であると定義されていました。
心臓死とは(1)心臓の停止 (2)呼吸の停止 (3)瞳孔の散大(脳機能の消失)という3つの兆候を確認できた際に、宣告されるものです。
ちなみに、心臓を動かしているのは脳です。病気や事故などで脳の全てが傷ついたり、脳が全く働かなくなってしまうと、心臓も動かなくなってしまいます。
医療が未発達だった頃は、脳が機能を失った時点でほとんど間髪を開けずに心臓が停止していていました。つまり、脳は機能を喪失したが心臓を含む臓器はまだ機能を失っていない状態、すなわち脳死状態が生じる余地は存在していませんでした。
しかし、医学の進歩により人工呼吸器などが開発されると、脳の機能が停止し今まであれば心臓死を迎える状況であったとしても、機械によって呼吸を維持し、数日間心臓を動かし続けることができるようになりました。このように脳は機能していないが心臓やその他臓器は生きている状態のことを「脳死」といいます。
ただ、どんな治療をしても脳死状態から脳が回復をすることはなく、多くは数日以内に心臓が止まります。脳死下における臓器移植とは、脳死状態に陥ってしまったが臓器は生きている状態の患者から臓器を取り出し、他の患者へと移植することを指すのです。
脳死と植物状態の違い

脳死状態とよく似た状態として皆さんが思いつくのは「植物状態」ではないでしょうか?両者の違いを説明していきましょう。
脳は大きく分けて3部分に分けることができます。「大脳」「小脳」「脳幹」です。
- 大脳:知覚、記憶、判断、運動の命令、感情などの高度な心の働き
- 小脳:運動や姿勢を調節をする働き
- 脳幹:呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働き
植物状態とはこれらのうち「大脳」のみが機能を喪失している状態を指します。大脳が機能していないので、思考したり話をしたり身体を動かしたりすることは出来ません。
ただ、植物状態は脳の中の「脳幹」と呼よばれる部分が働いているので、そこから心臓に命令を出して、自分で呼吸したり、血液を身体中に送ったりすることができます。そのため、植物状態になっていても、治療を続けることで目を覚ましたり、話ができるようになることもあります。
これに対して脳死は、大脳や脳幹、小脳など、脳の機能全てが働かなくなった状態を指します。心臓をはじめ、全ての臓器は自分の力で動くことはありません。どのような治療をしても、元気な身体に戻ることはなく、人工呼吸器を外せば、呼吸も心臓もすぐに止まってしまいます。
もっとも、繰り返しにはなりますが脳死状態下でかつ人工呼吸器を付けている間は、心臓を含む臓器はまだ機能しているので、他人に臓器を移植することができる状態である、とも言えます。
脳死は人の死か

出典:https://times.abema.tv/articles/-/10131466
これまでの医療現場では、心臓が機能を停止することをもって(=心臓死)人間の死とみなしてきました。しかし医療の発達によって"脳は機能を喪失し回復する可能性は0だが、心臓やその他臓器はまだ稼働している"状態、すなわち脳死という新しい死の概念が誕生しました。
根本的な問いにはなるのですが、「脳死は人の死か?」という死生観に関わる究極のテーマが臓器移植を語るうえで常に考えなければならないものになっています。
欧米諸国では脳死は人の死と捉えられる考え方が主流のようです。
"アメリカ、フィリピン、シンガポール、オーストラリア、デンマーク、スウェーデンでは、法律で脳死を「人の死」と捉えています。また、台湾、ベルギー、フランス、カナダでは、法律には規定せずに、医学会、医師会などの判断によって脳死を「人の死」と認めています"
出典:脳死について | 臓器移植を支援するNPO法人トリオ・ジャパン
仮に脳死が人の死ではない、という考え方に立つのであれば、例え脳が死んでも(機能を全喪失しても)、心臓が止まるまでは死と判定しないとする心臓死のみが死である、という意見になるかと思います。
NHKが2002年と2014年に実施した調査では


出典:日本人は“いのち”をどうとらえているか ~ N H K「生命倫理に関する意識」調査から~ | 中央調査報 | 中央調査社
2002年調査よりも2014年調査の方が「脳死は人間の死である」と思う人の割合が増えています。もっとも、3割以上の人が「心臓死のみを死とする」という考え方を持っており、まだまだ議論の余地がありそうではあります。
欧米諸国と日本の死生観の違い

日本においてまだまだ脳死=人間の死、という考え方に賛成できない人が一定数存在している要因としては、日本人は身体そのものにも魂が宿ると考えているからではないでしょうか?
こちらの過去記事でも言及していますが、欧米諸国はあまり故人の遺骨に執着しないのに対し、日本人は遺骨そのものにも故人の魂が宿っていると考える傾向にあると言及しています。
そのことを示すX(旧twitter)の投稿がいくつかあったので引用します。
ドイツのお葬式、遺体が安置されてるわけではないので、死が抽象的にしか感じられない。「人間の死体を見たことがない」という人がほとんどらしくてそれもびっくり。私なんか子供の頃から親族が亡くなるたびに「お別れの挨拶」をしたもんだけど。。
— かよ🇩🇪 (@dobrepivko) December 8, 2025
私も🇩🇪で同じことを感じる。
— はねうさぎドットコム (@haneusagi_com) December 8, 2025
夫の祖父が亡くなった時にご遺体はどこにあるのか質問したら「君の質問の意味がわからない」と言われた。
その後、私の父が亡くなり🇩🇪夫と帰国した時に座敷で眠る父を見てぎょっとしてた😅
通夜葬儀に参列した後「あの時の君の質問の意味が今よくわかったよ」と言われた。 https://t.co/OxoiZEAaiX
チェコ人義母が亡くなった時ショックだったのは、病院からいま息を引き取ったという連絡が来たので私はすぐ会いに行くつもりでいたら、夫を含め兄弟も誰も母親に会いに行かないのよ。1週間後の葬式までノータッチなの。もう魂は離れてしまったからと言って。それはすごく冷たくないか?と思った。 https://t.co/IV4epGhmRr
— gonpiro🍉 (@gonpiro) December 10, 2025
欧米というかキリスト教圏の世界では、故人の身体に執着をしない価値観が存在します。故人の魂は死と共にあの世に逝ってしまうので、残された身体はただの物体に過ぎない、という考え方です。
土葬文化圏であった欧米でも火葬が徐々に広まっていますが、日本のように立ち会っての火葬ではなく、業者に任せて灰になった後に時間がある時に取りに行く、といった感じです。外国人が日本で亡くなったとしても、家族はわざわざ日本まで遺骨を取りに行ったりしないのではないでしょうか。
逆に日本人が事故や災害に巻き込まれた際に、『せめて遺骨だけでも…』と残された家族が必死になって故人の遺骨を探す姿は、欧米人から見ると奇異な姿に見えるのかもしれません。この死生観の違いが、そのまま脳死を人の死と認めるかという価値観に直結している気がするのです。
欧米人にとって脳死状態の身体は、例え心臓が機能していてまだ温かみがあったとしても、魂は空に昇っているのでただの物体に過ぎない、という認識なのかもしれません。だから臓器を取り出されたとしてもそれほど抵抗は無いし、むしろ誰かの役に立つのであれば歓迎する、ということでしょう(もちろん、欧米人全員がそのような価値観だとは思いません)。
これは後述する、欧米に比べ日本の臓器移植件数が少ない理由にも関わってきます。遺骨にも故人の魂が宿っていると考える日本人であれば、まだ心臓が動いている脳死状態の身体を前にして医師から『移植のため臓器を提供してもらえますか?』と問われてもすぐに気持ちを切り替えることは難しいのではないでしょうか?
脳死をめぐる攻防

臓器移植に関する法律を整備するにあたって、議論の中心になったのが「脳死は人間の死であると法律で定義するべきかどうか?」という点でした。この議論において医者側、とくに実際に移植手術を行う移植医から「脳死は人間の死であると一律に法制定すべし」との声が上がります。
"移植医は、まず、臓器の提供の場となる救急現場の医師を告発から守らないと臓器がもらえないということで、法でキッチリ脳死を一律に死としてほしいと言うのだが、彼等もまた「脳死になった人というのは、もう死んでいる人なんだよと法律で言ってもらわないと困る。臓器移植の目的にだけ厳しい条件を満たせば死と見なしてもらうというのでは、移植への恩恵的な響きがあって、どこか条件を満たしていていないんじゃないかと、後からなんだかんだとあら捜しされて、結局我々も殺人罪で告発される可能性がありそうで心配だ」と言うのであった"
出典:『脳死と臓器移植法』中島みち著:79~80ページ
要するに、脳死状態は人間の死であると一律に決めてもらわなければ、脳死=まだ生きている状態、となり、その患者から心臓などの臓器を取り出すと、医者側が殺人罪で告発されるんじゃないかと不安になってしまう、ということです。
医者側がこのように思う背景に、1968年に発生した「和田心臓移植事件」という出来事があったことを抑えておく必要があります。

出典:〈1968年の今日〉8月8日 : 札幌医大の和田教授が日本初の心臓移植手術執刀 | nippon.com
和田心臓移植事件とは、1968年(昭和43年)、札幌医科大学で循環器外科の和田教授のチームで行われた日本初、世界で30例目になる脳死者からの心臓移植手術のことを指します。海で溺れ、重篤となった当時21歳の男子大学生が、脳死とみなされ、当大学附属病院に心臓弁の疾患で入院をしていた18歳の男子高校生に移植されたのです。一旦手術は成功した様に見えたが、83日後に移植を受けた高校生も死亡してしまいました。
当時はまだ臓器移植に関する法律が整備されておらず、悪い言い方をすると、和田医師の独断によって移植手術が実行されたのです。移植を受けた高校生の死亡後、この手術には様々な嫌疑がかけられることとなります。大きく分けて以下の3点です。
- 溺れた大学生の延命治療は誠実に行われたのか?
- 大学生は本当に脳死状態にあったのか?
- 移植患者はそもそも本当に移植しないと助からない身であったのか
和田医師はこの後、殺人罪で刑事告発(後に証拠不十分で起訴はされなかった)されてしまいます。この和田心臓移植事件が影響して、その後の日本の医療界において臓器移植(特に心臓移植)がタブー視されるようになり、臓器移植自体が停滞することになってしまいました。
現在の法律における脳死の決着点

ここまで述べてきたように、脳死を人間の死とするかどうかについては紆余曲折あったわけですが、1997年に「臓器移植法」が施行されたことで一応の決着をみたと言えます。
"臓器の移植に関する法律(1997年制定、公布、施行)では、本人が生前より脳死判定に従い、脳死後臓器を提供する旨の意思を書面により表示し、家族がこれを拒まないか、または家族がない場合に、2回にわたって法に規定する脳死判定が実施され、脳死と判定された場合は法的に死となることと規定されていました。"
出典:日本透析医学会 - ・日本移植学会より「脳死は人の死」についての見解
要するに臓器移植をする場合のみ脳死は人の死であると定義づけられているということです。逆の言い方をすると、臓器移植をしない場合は脳死は人間の死ではない、とも言えるでしょう。
日本国内における脳死移植の現状

1997年に臓器移植法が施行され、日本国内において法律に基づく心臓移植手術が行われるようになりました。しかし、その数は年間数件程度でした。というのも旧法では当記事の前半部分で書いたように、移植に関するハードルが非常に高かったからです。
2010年に臓器移植法が改正された結果、移植のハードルが下がりました。また国内での15歳未満の移植も事実上認められることとなりました。そんな日本国内における移植手術の件数は以下のように推移しています。

出典:データで見る臓器移植|一般の方|一般社団法人 日本移植学会
上のグラフは、心臓移植件数を年ごとにグラフ化しているものになります。1999年には年間3件だったものが、2023年には115件になっています。ちなみに、2025年は12月前時点で134件となっていて、過去最高を更新しています。
このグラフだけを見れば、2010年に法律が改正されたおかげで移植件数が増えたと評価することが出来ます。では、諸外国と比べるといかがでしょうか?

出典:臓器移植少ない日本、世界で44位 ドナー足りず海外へ - 日本経済新聞
上図は、人口100万人当たりの臓器移植件数(心臓以外の臓器も含む)を集計したものです。欧米諸国に比べると日本の移植件数はまだまだ少ないと言えます。機会を求めて多額の寄付金を集め海外渡航する患者が後を絶たないのもうなずけます。
日本で臓器移植が進まない理由
日本は諸外国に比べて心臓などの臓器移植件数が少ない国と言えます。これがいいのか悪いのかは一旦置いておいて、なぜ件数が少ないのか考察すると以下の理由があると考えられます。
制度上の問題
日本で臓器移植が実行されるためには、ドナー本人が生前に臓器提供を拒否していない&ドナー家族の承認が必要です。これがアメリカの場合、生前に臓器提供の意思を表明しておくことが義務化されています(州の法律)。またスペイン・フランス・イギリスでは、生前に臓器提供を拒否する意思を表示していない限り、全員がドナーとなる方式(オプトアウト方式)と採用しています。
やはり、アメリカ式やオプトアウト式の方が圧倒的にドナー数が多くなります。その結果、必然的に心臓を始めとする臓器移植件数が増えることにもなります。
脳死を受け入れる抵抗感
臓器移植の場面においてのみ脳死は人の死であるとされています。家族が脳死状態に陥ったとして、いざ臓器提供の話が出た際に、その現実を受け入れることへの抵抗感が根強く、家族の承諾のみで提供可能になっても、家族が葛藤し同意に至らないケースが多いとされています。このことについては、後の章で詳しく言及したいと思います。
そもそも、生前に家族の目の前で『自分が死んだら自分の臓器は~』みたいな話ってなかなかしないんじゃないでしょうか。『やめなさい、縁起が悪い』って突き返されそうではあります。
臓器移植が出来る病院や医師が少ない
臓器移植、特に心臓移植手術の場合、ドナー側の脳死判定がその前提となります。問題は、世の中の医師全員が脳死判定が出来るわけではないということです。
"ちなみに現在は厚生労働省の研究班が作成した「法的脳死判定マニュアル」に沿って行われるが、「6歳以上では1回目の脳死判定が終了後、6時間以上開けた時点で2回目の判定を実施」「移植に関わらない2名以上の判定医で実施」など諸外国にはない細かな規定が特徴となっている。
この判定基準が、マンパワー不足にあえぐ医療機関の足かせになる。マニュアル上では主治医以外に2人の常勤医(脳神経外科、神経内科、救急などの専門医や認定医の資格を持ち、かつ脳死判定に関して豊富な経験がある)が脳死判定に関わらねばならない。"
出典:4年半で215人…日本で臓器提供者が増えない理由 | AERA DIGITAL(アエラデジタル)
臓器移植が増えてきているとはいえ、"脳死判定に豊富な経験がある"ような医者ってそうたくさんいるわけではありませんよね。
あまり良い言い方ではないかもしれませんが、1件の移植手術に経験豊富な医師が3人も取られたら、他の業務に支障が出てしまうかもしれません。となると、仮に脳死状態とみなせるような患者が出てしまったとしても、そこから他の患者への臓器提供までなかなか繋がっていかないケースも存在しているのではないでしょうか。
また、仮に脳死判定まで進んで家族の同意も得られたにもかかわらず、臓器提供を受ける側の態勢が整っておらず移植が出来なかったケースも多々存在しています。
臓器移植の見送り662件 24年、病院態勢不備が理由で(共同通信) - Yahoo!ニュース
昨今の医療現場を取り巻く環境は決して良好とは言えず、赤字や人手不足に悩む病院も相当数存在しています。その現状が改善されなければ、いくら「臓器移植を増やそう!」と声高に訴えたとしても、劇的に件数が増えていくとは考えにくいのではないでしょうか。
クラスメイトが心臓移植手術を受けた話

※現在もネット上を探せば当時の記事が出てくるのでイニシャル表示(Aさん)と表記します。性別は伏せておきます。移植手術前後の時期(今から約20年前ほど)はローカルニュースで何度か特集されていました。
私の小中学校のクラスメイトにAさんという子(性別は伏せます)がいました。Aさんは生まれつき重い心臓病(詳しい病名は伏せます)を抱えていて、心臓に負担のかかる激しい運動が出来ませんでした。
とは言っても体育以外の通常の授業を受ける分には支障は無かったですし、家から学校までの道のりを歩いて来ていたので(徒歩7~8分くらいかな)、Aさんのことを特別意識することもなかったように思います。当時のクラスメイトはAさんが心臓病であることを"個性"くらいに捉えていたフシさえあります。
幼少期に手術を何回かしたことは聞いていて、体内にペースメーカが入っていることもクラスメイト全員が知ってはいましたが、学校を入院などで長期休みするようなことも無かったので、何も意識せずに接していたと覚えています。
もちろん、多少の影響というか配慮はあって、私の学年は1年生から6年生までずっと教室が2階にありました。普通、学年が上がっていくと上の階に上がっていくものなのですが、Aさんの負担を考慮して6年間教室が2階から動くことはありませんでした。今考えると他の児童にとっても2階の方が楽です。
ただ、繰り返しになりますが、教室がずっと2階ってことと体育の授業はだいたい見学してる‥ってくらいで、後は病気を持たないクラスメイトをほぼ同じ学校生活を送っていました。

そんなAさんが学校に来られなくなったのは中学に上がってからでした。身体の成長に対し心臓が耐えられなくなってきていたのがその要因です。中学1年生のころまではまだ登校で来ていたのですが、2年生以降は登校することが出来なくなってしまったのです。
そして私の記憶を辿れば、このあたりから医者に『心臓移植をするしか手が無い』と宣告されていたようです。当時の旧臓器移植法では、15歳未満の移植は事実上日本国内では認められていませんでした。一部の国会議員の手によって15歳未満でも日本国内で移植が認められるように法改正する動きはあったものの、衆議院の解散(2005年の郵政解散)などが重なり中々審議入りできる状態にはありませんでした。
Aさんが中学生の時点から地元の放送局がAさんの病状について取材をしており、番組として放送されることもありました。移植できる機会が少ない日本ではなく、海外へ出向いて移植手術を受ける流れがある中で、当時のAさんはあえて国内での移植の道を模索していました。
Aさんの心境について、当時(20年前くらい)の番組内でAさんのお母さんが話しておられました。『移植手術に対する日本の姿勢が変わらないと意味がない』『日本で進まない移植医療の現実をより多くの人に知ってもらいたい』と。中学生にしてその視野で物事を考えることが出来るのか、しかも自分の命をかけてまで……と同級生の私は感じたのです。と同時に、お母さんは現実的な問題として、海外での移植を検討すべきが悩んでおられるようでした。
親になった今なら、お母さんの苦悩が少し分かります。我が子の意志は出来る限り尊重してあげたいが、命のタイムリミットも迫ってきている‥。やっぱりこれからも生きていって欲しいに決まっています。
余談ですが、Aさんを特集したニュース番組で最初の放送ではAさんの顔にはモザイク処理がかけられ名前もイニシャル表記だったんですよね。恐らくプライバシーに配慮しての放送だったようですが、『悪いことをしたわけではない』とAさんの強い希望で2回目からの放送ではモザイク無しの実名でAさんの様子が放送されるようになりました。身体はかなり弱っていたとは思いますが、気持ちは強い人だったんだな、と今でも思います。
私とAさんが中学3年生の頃に、Aさんは治療に専念するため大病院の院内中学校に転校しました。すでにその頃は常に酸素マスクが必要な状態であり、寝たきりに近い状態だったようです。
※Aさんには2個下の弟がおり、その弟と私は同じ中学の陸上部の先輩後輩の関係でした。弟を通じてAさんの様子も聞くことができました。

私が高校2年生の時、いよいよAさんの症状が予断を許さない状況になってきており、Aさんは日本国内での移植手術を諦め、海外での移植を目指すこととなりました。ただ、海外での移植は相当な費用がかかります。
2006年夏にAさんを助ける会が発足、募金活動が始まりました。目標金額は5000万円。募金を呼び掛けるポスターが私が通う高校にも貼られるようになりました(Aさんは通信生の高校に進学しましたがそもそも勉強が出来る状態ではなかったと思います)。
有名人でもないAさんの元に募金など集まるのだろうか‥高校生だった私は正直半信半疑でしたが、蓋を開けてみるとたった2か月で目標金額5000万を大きく上回る金額が集まりました。人の善意の力って大きいんだなぁ‥と遠いニュースの話としてではなくかなり身近な実感として感じたのです。

2006年9月、移植手術を受けるためヨーロッパのある国(詳しい国名は伏せておきます)へ渡航。ただ、多額の費用を払ったからといって優先的に手術が受けられるわけではなく、ひたすらドナーが現れるのを待つ日々が続きました。手術が受けられたのは2008年1月になってからでした。
手術は無事成功し、ようやく帰国することができました。休学していた通信制の高校にも復学することができたようです。その後のAさんは医療関係従事者として勤務する傍ら、心臓移植の実体験をシンポジウムなどで講演する機会があるそうです。
脳死患者側の立場から
Aさんの実例を挙げて心臓移植を受ける側に立って言及してきました。私は同級生にAさんという心臓移植の当事者がいたので、どうしても移植推進の立場で主張をしがちではあるんですが、ここであえて反対側の臓器を提供する立場(レシピエント−脳死患者側)から臓器移植を検証していきたいと思います。
臓器移植に関してドナー側とレシピエント側の両方の立場から提言を行っていた作家の中島みち氏が、かつて夫に先立たれた時の経験を自身の著書にて以下のように回想しています。
"ちょうどこの、夫が死んだ1981年から、日本でも脳死状態の患者からの臓器移植が行われ、腎臓の脳死移植が見切り発車していった。医学の進歩がもたらした新しい死として報じられる脳死について、私は頭の中では十分に理解していたはずだったが、臓器移植のニュースに接するたびに、いつも同じ疑問に突き当たっていた。
それは、心臓が停まってしまった身体にさえ、まだあたたかさが残るうちはあんな気持ちを抱いたのに、ましてや、この手に、ドッキン、ドッキンと心臓の動き、あたたかな血の流れが感じられる身体を、私たちの目には見えない脳幹とやらの死を医師に告げられたからといって、どうして死体だと思えるのだろうか。そしていったい何故、脈打つ身体を手術室に運び、メスを入れ、臓器を取り出すのを許す気持ちになれるだろうか、という疑問である"
出典:『脳死と臓器移植法』中島みち著 124ページ
この手の話でよく聞く意見が、「亡くなった人の臓器が誰かの身体の一部となって生き続けてくれると考えれば前向きになれる」みたいな考え方です。確かに立派ですし、そう考え生前に臓器提供意思カードを記入されている方もおられることでしょう。
ただ、中島氏も実体験を基に指摘しているように、心臓が動いている状態の身体を前にして『この患者は脳死状態です。もう生き返る可能性はありません』と医者から宣告されたとして、残された家族は『はい分かりました』と受け入れることができるものなのでしょうか?すぐに『臓器を誰かに移植してあげてください』と切り替えられることができるのでしょうか?
そもそも脳死は、交通事故による脳挫傷など、急に起こるものです。ガンなどで長期に渡り治療を続けていたのであれば、心の準備であったり担当医との信頼関係も築く時間もあるのでしょう。そうではなく、脳死判定が思いがけずやってくる状況で家族が動揺しているところに、初対面の医師から『残念ながら患者は脳死状態にあります』と告げられたところで、『じゃあ臓器を誰かに移植してあげてください』なんて思考に至れるでしょうか?
脳死判定後は、臓器が生きているうちに患者の体内から臓器を取り出さねばなりません。急に家族を失い途方も無い精神的ショックの中で、さらに臓器移植をするかどうかの選択を残された家族がくださなければならない心理的負担は、想像を絶するものがあるでしょう。しかしながら、今までの移植手術のニュースを見ていると、どうしても臓器の提供側(ドナー)と提供を受ける側(レシピエント)に注目が集まりがちで、早期提供を決断した遺族については、その想いや苦しみに目を向けてこなかった現実があったのではないでしょうか。
私は心臓移植を受けた同級生の存在もあってか、臓器移植はもっと積極的に行うべきでありそのハードルも下げるべきだと考えています。でも、もし私の身内や友人に脳死判定を受けた者がいたとしたら、もしかしたら『残された家族に臓器移植の選択を迫って来るなんて人道的ではないじゃないか。そもそも臓器移植などしなければいいのだ』という立場を取っていたかもしれません。
SNSを眺めていると、自身の子供が脳死判定を受けた父親が我が子に向けて書いた手紙の文章がアップされていました。
お子さんの臓器提供をしたお父さんから、お子さんへの手紙 自分が脳死になったら使える臓器は全て使ってほしいけど、自分が親になって幼い子供の臓器提供を決意できるかと言われると全然わからない いざその立場に立つまで絶対にわからないからこそこういう手記を定期的に読み返している pic.twitter.com/yvzZvFxeJW
— O次郎 (@oooooooojiro) December 3, 2025
この父親は最終的に我が子の臓器を他の患者に提供することに決めたようです。そこに至るまでの葛藤は同じ子を持つ親としてほんの少しだけかもしれませんが痛いほど分かります。
もっとも、このケースでは手紙の内容を読む感じ、子供が体調を崩してから脳死状態に陥るまで多少の時間があったようです。実際には、不慮の事故などで急に脳死状態に陥ることも多く、かつ移植が行える制限時間を考えると、悲しみに浸る時間も無いままに残された家族は臓器を提供するかどうかの判断を下さなければなりません。
心臓移植を積極的に行っていくべきだと考える立場であったとしても、そのような想像を絶する辛い決断が常に存在していることは認識しておかなければならないな、と自戒を込めて言及しておきます。
これまで様々な角度から脳死と心臓移植について検証してきましたが、それらを踏まえた上で、現時点の私の意見に近いのが以下の文章です。生後4ヶ月で6臓器移植を成功させた赤ちゃんの両親の手記から引用します。
"だが、現在の日本では、脳死者からの臓器提供が非常に限られているため、移植を受けて行きたいという側の選択と決断の実現を、絶対的な臓器提供者不足という大きな壁が阻んでいる。確かに生体からの移植や心臓死からの移植という道もあるが、それらだけでは、心臓や小腸など適応できない臓器もあり、とうてい移植を待つ人たちの願いを叶えられない。
一方、臓器を提供する側にも選択と決断が迫られる。アメリカでも、各家族の信条の違いから、すべての脳死者の家族が臓器の提供を選択するわけではない。しかし、年間7000人ものドナーの家族が「命のリレー」の意義を認め、脳死した者の生きてきた証として、その臓器を人のために役立てたいというポジティブな気持ちから脳死による臓器提供に合意しているのも事実である(欧米では、臓器提供は残された家族の心を癒す医療行為の1つであるとさえ考えられている)
日本では、まだ体の温かい脳死状態での臓器提供を望む脳死者の家族は依然少ないだろうが、脳死を人の死として受け入れ、その臓器を人のために役立てたいという信条を持つ家族がいないては限らない(中略)。脳死は人の死ではないという人も多い。私も全ての脳死者から臓器提供がなされるべきだとは思わない。しかし、臓器提供を選択しようとする家族の信条と決断は「人が人を救う」最も尊い行為として、日本社会でも受け入れられ、尊重されることを願うばかりだ。"
出典:大橋之歩・由江著『神様からのプレゼント』あとがきより
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【中古】神様からのプレゼント: 6臓器同時移植を乗り越えた赤ちゃん
俗語としての「脳死」が使われることについて

ネット上を見てみると、「脳死」という言葉が医療用語としてではなく、俗語として使われているのをよく見かけます。意味として「何も考えていない」みたいな感じでしょうか。
あくまで俗語なので本来の意味とはだいぶかけ離れています。この記事をここまでご覧になった皆様であれば、脳死という言葉がどれほど重い意味を持つか、十分に認識していただけると思います。
日本で脳死判定される人は、1年間で5000〜1万人いるとされています。そして、脳死患者の家族はその何倍も存在しているはずなんですよね。そんな人たちがネット上で脳死という言葉がふざけた意味を含んだ俗語として使われるのを見かけたとしたらどんな気持ちになるでしょうか。
もちろん、そんな言葉は脳死だけに限った話ではないんですよね。本来、重い意味を持つ言葉をネット上の娯楽として消費して欲しくは無いと思っています。
終わりに…
日本人の価値観を考えると、例え脳死状態と判定されてしまったとしても、まだ心臓が動いていて温かみを持つ身体の前に、残された家族はすぐには脳死を受け入れられないのではないか。そして、それが心臓移植の大きなハードルになっている可能性を指摘してきました。亡くなった身体にも魂が宿っていると考える日本人の価値観では、欧米諸国と比べて脳死が受け入れられにくい、というわけです。
日本人がこの価値観を打ち破れるとしたら、この価値観に匹敵するような価値観があるとしたらそれは"故人の生前の想いを叶えてあげたい"という気持ちだと思うんですよね。脳死判定をされた人物がもし元気な頃に、臓器移植を希望する旨を家族に伝えていたとしたら、それはきっと残された家族の最後の希望として、臓器提供の後押しになるのではないでしょうか?
もちろん、臓器提供に賛同するかどうかは個人の自由です。どちらにせよ、自分の身に万が一のことが起こった際の対応について意思表示をしておくことは、残された家族の心理的な負担を少しでも軽減することにつながると思うのです。