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現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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【学校が教えない社会科】23時間目~歴史書『信長公記』に書かれている青年期の織田信長について~

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【学校で教えてくれない社会科】は、社会科の教員免許を所有しているツベルクリンが、学校で教えてくれないような役立たない社会科の授業をしていくシリーズ記事です。23時間目のこの時間は、歴史書『信長公記』に書かれている青年期の織田信長について授業していきます。

 

 

 


皆さん、織田信長ってご存知ですか?さすがにご存知ですよね(*'ω'*)。戦国時代に活躍した武将の1人です。教科書にも載っています。

 

 

教科書では"織田信長は尾張(愛知県)の小さな大名でしたが、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を破り、天下統一に向けて動き出しました"みたいな感じで書かれています。

 

 

でもね、桶狭間の戦い時点で織田信長は27歳になっているわけですよ。27歳って結構いい大人じゃないですか。歴史マニアは別として、たいていの一般人は織田信長の青年期の様子について知らないんじゃないかな?って思うわけです。この記事では、織田信長の青年期について有名なエピソードを交えてご紹介していこうと思っています。

 

 

では、そのエピソードをどこから引っ張ってくるかと言うと、信長について書かれた歴史書『信長公記(しんちょうこうき)』です。『信長公記』は、信長の書記官として仕えた太田牛一が江戸時代初期に編集した信長の記録書です。

 


信長公記ー戦国覇者の一級史料 (中公新書) [ 和田裕弘 ]
 

 

 

この『信長公記』ですが、「マジで神に誓って本当のことしか書いてないですわ!」ってニュアンスの事を太田牛一自身が語っているように、非常に信ぴょう性が高い一級資料として他の歴史書とは一線を画す存在です。

 

 

この記事では、『信長公記』に書いてある青年期の信長のエピソードとして有名な「普段のふるまいや恰好」「父信秀の葬式」「義父斎藤道三との会談」を現代語訳にしてお伝えしていきますね(*'ω'*)

 

 

最初に『信長公記』の記述を現代語訳した文章、<解説>の後に私が現代語訳した文章の背後関係等を説明しています。

 

 

 

<目次>

 

 

 

 

普段のふるまいや恰好について

出典:平手政秀 - Wikipedia

 

 

<現代語訳>

さて、平手政秀(平手政秀 - Wikipedia)の後押しで、織田信長を斎藤道三の婿とする縁組(道三の娘と信長が結婚する)がととのい、道三の娘を信長の本拠地尾張に迎えた。そんなこともあって、この頃はどの方面も平和であった。

 

信長は18歳のころまで特にこれといった遊びにふけることはなく、馬術を朝夕に稽古し、また3月から9月まで川で水泳をした。泳ぎは上手であった。ある日、竹やりの訓練を見て『やりが短くては具合が悪そうだ』と言って、柄の長さを3間(約5.5m)または3間半(約6.4m)に統一させた。

 

 

 

<解説>

 

出典:14戦国|天下統一をめざした織田信長|小学生へ歴史解説 – キッズマングローブ

 

信長が10代のころの戦国大名の勢力図です。織田家と今川家は対立状態にあったので、今川との勝負に集中するため、当時の織田家当主である織田信秀(信長の父)は北の斎藤氏との関係を強めたいと考えていました。そのため斎藤氏の当主、斎藤道三(さいとうどうざん)の娘を信長の妻として迎え入れました。両家は親戚になったのです。

 

平手政秀は信秀に仕えていた織田家の家来で、10代の頃の信長の世話人でもあった人物です。なお、政秀は信秀の死後、信長と仲が悪くなりそれが要因の1つとなって自殺してしまいます。

 

槍の話も出てきました。槍って突き刺すイメージのある武器だと思うんですよね。でも実際は上から振り下ろして叩く武器なんです。まあ突き刺そうが振り下ろそうが長い方が有利ではあります。この槍の長さを長くしたことが、後々斎藤道三との会談で効いてくることになります。

 

 

 

 

 

 

<現代語訳>

その頃の信長の身なりや振る舞いといえば、浴衣を袖脱ぎにして着て半袴(足首までの長さの袴)、火打ち袋やら何やらたくさん身に着けて、髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)。それを赤色とか萌黄色とかの糸で巻きたてて結い、朱鞘の大刀を差していた。お付きの者には皆、朱色の武具を着けるよう命じ、市川大介を呼んで弓の稽古、橋本一巴を師匠として鉄砲の稽古、平田三位を呼んで兵法の稽古、それに鷹狩などを習っていた。

 

特に見苦しいこともあった。町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿は言うまでもなく、瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた。その頃は世間一般には礼儀作法が正しいことが良いとされていた時代だったから、人々は信長を「大馬鹿者」と呼んだ。

 

 

 

<解説>

なんかファンキーな格好してたっぽいことが書いてありますが、文章では分かりにくいので他サイト様のイラストを引用します。

 

 

出典:大うつけ呼ばわりの織田信長って一体どんな青年だったのか? | 戦国ヒストリー

 

ゆくゆくは一家の当主となる見込みの青年がこんな格好して、中学の部活帰りみたいな買い食いなんてことをしてたら、そりゃ馬鹿にもしたくなりますよね(*'ω'*)

 

 

 

 

 

 

 

父信秀の葬式

 

<現代語訳>

信長の父、織田信秀は流行り病に罹り、色々治療や祈祷をしたけれども治らず、ついに1551年3月3日、42歳で病死した。(中略)国中の僧侶を集め、盛大な葬儀を執り行った。おりから関東に上り下りする旅の修行僧たちも多数参加して、僧侶は約300名にも及んだ。

 

信長には林、平手、青山、内藤らの家老たちがお供に従った。信長の弟信行には柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛、らがお供した。

 

信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは長柄の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴も穿かない。仏前に出て、抹香をカッと掴んで仏前へ投げつけて帰った。弟信行はきちんとした肩衣と袴を着用し、礼儀にかなった作法であった。

 

信長について『あの大バカ者が』と皆陰口を叩いたが、そのなかで九州から来た旅の僧1人だけが『あの方こそ天下人になるお人だ』と言ったとか。

 

 

 

 

<解説>

父親の葬式に礼服じゃなくてファンキーな格好してやって来て、焼香の時に抹香(細かく砕いたお香)を遺影に向かって投げつけたりしたら、そりゃヤバい奴認定されるでしょ(*'ω'*)

 

そんなヤバい奴の姿を見た1人の僧が『あの方は偉い方だ』と漏らしたのは、正直『本当かよ?(∩´∀`)』って思っちゃいます。たしかに、著者の太田牛一は信長をずっと近くで見ていた人物なんですけど、この書物自体は江戸時代に入ってからまとめられたものですから、歴史の結果がある程度分かった後に書かれたものであるという視点は必要かもしれません。

 

ここで出てくる信長の弟信行ですが、父親の信秀の死後に兄の信長と対立し破れ信長の手によって暗殺されます。なんか源頼朝と義経みたいな感じです。信長が27歳で桶狭間デビューする前は、別に何もしていなかったわけではなく、織田家内の権力争いに終始していたというわけですね。

 

 

 

 

 

斎藤道三との会見

出典:斎藤道三 - Wikipedia

 

 

<現代語訳>

1553年4月の事である。斎藤道三から『(現在の愛知県)聖徳寺まで出向きますので、織田信長殿もここまでお出で下されば幸いです。ぜひお会いしたい』と信長へ言ってきた、そのわけは、近頃信長を妬んで『娘婿であられる信長殿は大バカ者ですぞ』と道三へ進言する者が多くいたので、『いや、バカではないのだ』と道三はいつも返答していたのだが、会ってみてその真偽を見極めよう、ということらしい。

(中略)

斎藤道三の計画は、信長は実直でない男だという噂だから、驚かせて笑ってやろう、ということで、古老の者7、800人ほどにきちんとした肩衣と袴、上品な身支度をさせて聖徳寺の御堂の縁に並んで座らせ、その前を信長が通るように準備した。その上で、道三は町はずれの小屋に隠れて、信長には内緒で信長の行列を覗き見しようと考えた。

 

その時の信長の恰好は、髪は茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻きたてて、浴衣を袖まくりし、金銀飾りの太刀、脇差2つとも藁の縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰の周りは猿回しのように火打ち袋、ひょうたんを7、8つほどぶら下げ、トラ皮とヒョウ皮を4色に染め分けた半袴を穿いていた。

 

家来を7、800人ほどずらっと並べ、柄3間半(約6.4m)の朱色の槍500本、弓と鉄砲500挺を持たせ、元気な足軽を行列の先頭を走らせた。

 

宿舎の寺に着いたところで、屏風を立て生まれて初めて髪を結い、褐色の長袴を穿き、誰にも知れられずに準備していた小刀を差した。この身支度を人々は見て『さては最近のアホぶりは、ワザと装っていたのだな…』と誰もが察した。

 

信長は御堂へするすると出た。縁の上がり口に春日丹後・堀田道空(2人とも斎藤家の家来と考えられる)が出迎えて『お早くおいでなさいませ』と声をかけたが、信長は知らん顔、武士が居並ぶ前をスイスイと通り抜け、縁の柱にもたれかかっていた。

 

しばらくして、屏風をおしのけて斎藤道三が出てきた。それでもまだ知らん顔をしていたので、堀田道空が近づき『こちらが道三様でございます』と言うと『いらっしゃったか』と言って敷居の中へ入り、道三に挨拶をしてそのまま座敷に座った。そのうち、堀田道空がお茶漬けを出した。互いに盃を交わし、道三との対面はとどこおりなくお開きとなった。道三は、苦虫を嚙み潰したような様子で『また近いうちにお目にかかろう』と言って席を立った。

 

道三が帰るのを信長は20町(2キロほど)見送った。その時、斎藤勢の槍は短く、信長勢の槍は長く、それを掲げて行列して行ったのを道三は見て、面白くなさそうな顔で何を言わずに帰って行った。

 

途中、家来の猪子高就が道三に『どう見ても信長殿は馬鹿でございますなぁ』と言った。道三は『だから残念だ。私の息子どもが、必ずあの馬鹿に家来になってしまうだろう』とだけ言った。

 

この時以降、道三の前で信長を馬鹿者呼ばわりする者は、1人もいなくなった。

 

 

 

 

 

<解説>

 

2人が会見した場所は現在の愛知県一宮市にある聖徳寺でした。織田家と斎藤家の境界上に位置する、まあ会見するとしたら都合のいい場所です(*'ω'*)

 

もっとも、斎藤道三は義父という立場ですから、信長に対し自分の本拠地である城まで来いと言ってもいいような気もするので、わざわざ両家の境界まで足を運ぶということは、信長に対し気を使ってる感はあります。

 

www.138ss.com

 

 

 

信長がどんな様子で会見場までやってくるのか、その行列を隠れて見てみようと考えた道三ですが、そんな彼の目の前に現れたのは、あいかわらずファンキーな格好をした信長とそれに従う規律の取れた見るからに強そうな兵隊でした。

 

慌てて会見場へ戻った道三でしたが、会見の時間になるとさっきのファンキーな格好からうって変わって正装で現れた信長の姿を見てさらに驚きます。

 

会見の後、道三を送った信長でしたが、それぞれの家来を比べると信長の兵隊の方が槍も長いしなんか強そうで、道三にとってあまり気分の良い会見では無かったようです。

 

この場面だけ見ると、道三と信長の中はあんまり良くないのかな?って思ってしまいますが、数年後に道三と道三の息子の義龍(よしたつ)が親子間で権力闘争になった際、信長は道三側に付き自ら出陣し援軍を送っています(ただ道三が負け戦死してしまう)。援軍を送るだけではなく自ら出陣していますから、信長と道三の信頼関係は高かったと言えます。

 

道三は実の息子である義龍をあまり評価しておらず、逆に聖徳寺の会見で娘婿である信長のことを高く評価していますから、いっそのこと自分の支配地を息子ではなく信長にくれてやってもいい、くらい思っていたのかもしれません(*'ω'*)

 

 

 

 

終わりに…

当ブログでガッツリ織田信長を取り上げたのは多分初めてです。今後気が向いたら、桶狭間の戦い以降の壮年期信長について『信長公記』からエピソードを引っ張ってきたよ記事をアップしようと思います(思っているだけ)

 

 


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