普段はふざけている当ブログではありますが、たまに超真面目で非常に学問的なテーマについて記事をアップすることもあります。たいていは私の興味のあるテーマを私らしく掘り下げていくことが多いのですが、今回私が取り上げたテーマは「村八分」です。村八分は近世から現代にかけて続いてきた悪しき伝統であり、古くて新しいテーマではあります。
『令和になった今でも村八分ってあるの?』と思われたかもしれません。もちろん、江戸時代に発生した村八分と同じものだ、とは言いませんが確実に残っていると言わざるをえません。人間の本質は数百年程度では大きく変わらないと思っているので、現代まで村八分が残っていたとしても、悲しいことではありますが、そこは受け止めていかなければなりません。
今記事では、江戸時代から令和時代にかけて発生した村八分の事例をいくつかピックアップし、解説を加えながら組織的な仲間外しがなぜ起こるのか、自分なりに考えていきたいと思います。
※村八分の実例をなるべく具体的に挙げているので読んでいて精神的にきつくなるかもしれません。気にされない方だけ本章へお進みください
※久しぶりの1万字超え。
<目次>
村八分の語句の意味と語源について
村八分の事例紹介に入る前に、そもそも村八分って何?という根本的な疑問に答えていきたいと思います。村八分を辞書で引くと以下のように出てきます。
① 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。
②仲間はずれにすること。
出典:村八分(むらはちぶ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
昔は世間の交際(簡単に言うと近所付き合い)は十個あるとされていました。その十個とは、
①冠‥今の七五三や成人式のようなもの
②婚‥結婚
③葬‥葬式
④建築
⑤火事
⑥病気
⑦水害
⑧旅行
⑨出産
⑩追善‥お墓参りや法要のこと
を指しました。昔は今以上に地域のつながり(地縁)が強く、また今ほど行政サービスが機能していなかったので、近所の人々で助け合って生きていました。家の修理も近所の人々が総出で手伝う、といった強い繋がりがあったのです。
この十個の付き合いのうち、火事が出た時の対応と葬式以外の付き合いを一切やめることが過去の日本の村で実際にあった村八分の具体的な制裁だった…といった認識が広まっているのではないかと思います。
2018年に発行された『広辞苑第7版』において、村八分という言葉を引くと次のように出てきます。
①江戸時代以降、村民に規約違反があった時、全村が申合せにより、その家との交際や取引などを断つ私的制裁。
②転じて、一般に仲間はずれにすることにもいう。
③→八分(はちぶ)
広辞苑 第7版 机上版 2巻セット/新村出【3000円以上送料無料】
ここで③→八分、とあるのでさらに「八分」のページを読むと以下のように説明がなされています。
①(撥撫の転か。多く「ーする」の形で用いる)嫌ってのけものにすること。仲間から外すこと。
撥撫とは「はつむ」と読み、払いのけて信用しない、受け入れることを拒む、といった意味があります。
すなわち、広辞苑の解釈は、村八分の八分はもともと「撥撫」から来ていて、数字の八は単なる当て字、ということになります。goo辞書の"十個の付き合いうち八個の付き合いを断ったので~"といった解釈は取っていないようです。
後ほど詳しく見てみますが、実際の村八分の事例を調べてみると、例えば村八分状態の家でも制裁を免除されると思われがちな葬式でさえ交際を断たれる事例も存在していたようなのです。どの程度制裁を受けるのかは全国共通ではなく、犯した違反行為の程度や地域によって制裁の程度も変わってくる、と認識したほうが良いでしょう。
村八分にされる要因
村八分の言葉の意味をおさえたところで次は、一体何をしでかしたら村八分にされるのか、その基準を考えていきたいと思います。先に結論を言ってしまうと、所属している村や共同体やグループで決められている掟(ルール)を破った場合、破った者に対し村八分が発動される、とされています。
東京都南奥多摩郡出身の作家、きだみのる氏は自身の故郷での見聞をまとめた著書『にっぽん部落』(1967年)において、4つの村の掟について言及しています。すなわち、「火事を起こすな」「殺傷事件を起こすな」「窃盗を働くな」「村の恥を外部に漏らすな」の4つです。
実際の村八分の事例を見ていくと、奥多摩郡に限らず、だいたいどこの集落や村もこの4つの掟を破ると立場が非常に悪くなります。明治期以降は例えば殺人なんかを起こせば警察に連行されるのはもちろんですが、一般的に村八分は個人に対してだけではなくその一家全体に波及して発動されるものなので、残された家族の立場も非常に厳しいものとなったのです。
昭和期以降になると、例えば「町内会費を払わない」「会合に出席しない」などの要因で村八分のような扱いを受けることもあったのかもしれませんが、基本的にはきだ氏が挙げた4つの掟は、村八分を理解するうえで重要なファクターとなっていきます。
主な村八分の事例集
ここから先は江戸時代から令和時代に発生した村八分(または村八分状態にあったことが疑われる)の事例をいくつかピックアップしてご紹介していきます。
江戸時代の事例
<丹波の国の事例>
寛永年間(1624年~1644年)に丹波の国(現在の兵庫県)で発生した事例。主人である清左衛門が亡くなった後に残された未亡人が村内で稲穂を盗んだことが発覚した。村民が話し合った結果、この未亡人と子供を村から追放(=村払い)することに決定した。
この決定に対し未亡人は、『盗みは自分の一存であり子供は関係ないので、子供だけは勘弁してほしい』と懇願。村民はこの懇願を聞き入れ未亡人のみを村払いすることにした。
村払いされた未亡人は行くあても無いので、村はずれで何もせずに臥せっていた。これを知った子供たちが密かに食べ物を運んだが、未亡人は一切口にせず、ついに餓死してしまった。
参考:『近世の郷村自治と行政』(水元邦彦著)
この事例で注目したいのは、村を追放された未亡人に対し、子供たちが"ひそかに"食べ物を運んだという点です。ここから想像できるのは、村八分された人物に対し手を差し伸べることはご法度であったのであろう、ということです。そのような事情があったからこそ、我が子に影響が及ぶのを恐れて未亡人は食べ物に手を付けなかったのではないか、と想像が出来るのです。
明治&大正時代の事例
<青森県の事例>
青森県に住んでいた山木半次郎は、木綿雑貨の店舗を構える新興商人だった。1890年(明治23年)10月、山木家付近から出火し、196戸を焼失する大火事が発生した。山木の成功を嫉妬していた一部の村民が、山木が出火元であると警察に訴えた。その後裁判となり、山木は証拠不十分で無罪判決となった。
ここから山木とその一家に対する村八分が始まった。例として山木の店舗前に張り込み来店客に威嚇する、墓石を店舗前に並べる、糞尿を店舗の戸に塗り付けるなどの物理的な嫌がらせにはじまり、本人はもとよりその子供や孫の世代まで心理的な迫害があったとされている。
1913年(大正2年)、地域の小学校の再建に際し、山木が多額の寄付金を納めたことをキッカケに村八分は収まった。
参考:『宇曽利百話』(笹沢魯羊著)
出火原因が山木家にあるかどうか裁判にまでもつれた結果、無罪と認定されたにもかかわらず(むしろ無罪になったため?)、一部の村民から村八分に遭ったようです。村内部で発生したトラブルを解決するために、外部の公的機関に救済を求める姿勢が、反発を招いたように思えます。
また、山木家への村八分に参加したのは全村民ではなく、傍観する者もいたようで、全村民の賛同の元に行われたと言うより、一部の村民が強引に実行したものであったとも考えられます。
<秋田県の事例>
以下の事例は、猿倉人形芝居の伝承者として知られる木内勇吉氏の幼少期の話です。
猿倉人形(さるくらにんぎょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
明治30年代の後半のある年の12月、秋田県由利郡の豪農、村上家から出火し、4軒が燃える火災が起きた。警察は放火と断定、村上家に恨みを持つ者の犯行の可能性が高いとみて捜査を始めた。
村上家の主人は、過去に因縁のあった勇吉の祖母が犯人と決めつけていた。警察はある村民が勇吉の祖母が出火当日の夜に村上家に侵入するのを見た、とする証言をもって、勇吉の祖母を警察に連行した。勇吉の祖母は全く身に覚えがないと訴えたが、警察は勇吉の父(祖母からみると息子)を連行し、祖母の目の前で拷問した。自分が拷問されるより辛いと感じた祖母は、『放火した』と嘘の自白をしてしまった。
勇吉の一家は、村民の評議によって当時の金額で200円を罰金として取られたうえに、以後5年間「村八分」にすると決められた。村内の草や薪を使わせてもらえない、村の祭への参加を拒否される、祝い事や葬式の付き合いも一切を断たれる、といった制裁が実行された。
このことを受けて、勇吉の父はショックで気がふれるようになり、村民は"狐がついた"と噂するようになった。当時7歳だった勇吉自身も、父親に狐がついたというので同世代の子から「つき」というあだ名を付けられてからかわれた。また、勇吉の家で不幸が起きた時も誰も葬式の手伝いに来なかった。
1906年、勇吉家の作業小屋が放火され警察の捜査によって犯人が捕まった。犯人は以前、村上家に放火したことも自供したので、ここにようやく勇吉の祖母の嫌疑は晴れ、罰金200円は返還された。
参考:『猿倉人形遣い独り語り』(木内勇吉著)
これまでの村八分との相違点を挙げるとするならば、村八分の対象相手に対し罰金を科している点だと言えます。現代でも、スピード違反等の違反者に警察から罰金刑が科されることがありますが、それは法律に基づいた量刑です。この事例における罰金200円とは、一体何を根拠に科されているものなのでしょうか?法的根拠の無いものではあり、完全な私的制裁です。
ただ、勇吉の一家はこの私的制裁をかわすことは出来ず、(後に返金されたとは言え)罰金を支払っていることを考えると、村八分における制裁の圧の強さを物語っているあると言えるでしょう。
<大分県の事例>
大分県の国東半島のある村において、同じ村内に住む小玉氏を村八分状態にした。村内を通る新規の道路計画があったにも関わらず、小玉氏1人が道路予定地の提供に反対し、それが理由で結果的に新規の道路計画自体が無くなってしまったことに起因しています。
1918年から1年間ほど続いた村八分であったが、小玉氏が損害賠償請求を求める民事裁判を起こし、事態は動いた。大分地方裁判所における裁判では、村八分行為は人間の自由と名誉を毀損する行為である、と認定され、小玉氏の損害賠償請求は認められた。村八分を行った側は、小玉氏の態度にも問題があるとし、大審院(今の最高裁)に上告したものの、1921年の裁判にいて上告は退けられた。
参考:『大審院民事判決録』第27輯
大審院判決録 民事編 明治28年~大正10年 | NDLサーチ | 国立国会図書館
↑ 国立国会図書館ホームぺージで調べられます
明治期までの村八分が主に「火事を起こす」「殺傷事件を起こす」「窃盗を働く」「村の恥を外部に漏らす」の4点を起こした者に実行されることが多かったのに対し、大正期以降になると"全体の利益に寄与しない行為"も咎められるようになり、その適用範囲が広くなった感もあります。
それにしても、"道路を造るのに必要な立ち退きに協力しない"みたいな話って現代にも通じる話ではあります。俗に言う、空気が読めない行為に対する制裁が起こるようになっていったのです。
現在の最高裁にあたる大審院において実施された裁判では、村八分をした側の上告を退けた理由として「小玉氏の村民に対する態度が悪かったという問題と、村民が小玉氏に対して不法行為を行ったという問題は、別問題である」と明確に結論付けています。いじめられる方にも問題がある…みたいな論調はすでに100年以上前の大審院判決で明確に否定されているのです。
昭和時代の事例
<石川県の事例>
1927年9月ごろ石川県のある集落において、青年団から除名処分を受けているAという者がいた。同じ集落の青年団員であったB、Ⅽ、ⅮはAから雇われて薬草の採取に従事した。また、同じく青年団員であったEは、親戚から頼まれ薬草をAまで届けた。
ことを知った青年団の団長は10月9日、60人ほどの団員を集めたうえで、B、Ⅽ、Ⅾを呼び出した。Eは無断欠席した。
団長らは同日午後6時から翌10日午前2時ごろまで畳の上に正座させ、Aに雇われたことを咎め、罰金を支払うことを3人に承認させた。また、10日午前3時ごろ、団長らは欠席したEを集会の場に連行し、同じように正座させたうえでAと関わったこと並びに集会を欠席したことを責め、除名処分に課すことを通告した。
この事件を受け、検察側は団長らを違法行為の疑いで起訴し刑事裁判で裁かれることになった。1928年8月、大審院は団長らが3名に対し罰金を無理やり支払わせたことは「恐喝罪」にあたり、また団長らがEを集会に連行して除名の通告を行ったことは「脅迫罪」にあたると判断を下した。
参考:『大審院刑事判例集』第7巻
大審院刑事判例集 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑ この判例に関するページはログインしなくても閲覧できます
出典:大審院刑事判例集 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
村八分を行うこと自体が法律で禁止されているわけではありませんが、ほとんどのケースで人権違反となる行為を伴って行われるのが村八分である、と言えます。これまでに挙げた事例では、民事裁判で争われるケースでしたが、この石川県のケースでは、村八分を実行した側に対し、刑事裁判で裁かれていることが注目すべき点です。
裁判の結果、村八分を実行した団長らに対し、執行猶予付きではありましたが、懲役刑が科されることとなりました。
<静岡県の事例>
1952(昭和27)年5月6日、静岡県の参議院補欠選挙で同県富士郡上野村(現・富士宮市)が組織的な替え玉投票を実施しました。これを知った、当時17歳の女子高校生、石川皐月さんが朝日新聞に告発。不正選挙事件が明るみになりました。
これで事件が終息するかに見えましたが、結果としてその一家が村八分にされ、人権侵害として問題になり、日本全国的に上野村は有名になってしまいました。
wikipediaのページでは詳しい村八分の内容が記されています。
"選挙が終わって暫く経った日、石川は路上で同村の女性に呼び止められた。そして『今日十何人もの人が警察に呼ばれた。まだ皆帰ってきていないが、帰ってきたら皆してお礼に行くそうだ』と報復のお礼参りが計画されていることを仄めかされ、『学生なのだから、他人を罪に落として喜んだり、自分の住んでいる村の恥をかかせることが良いことか悪いことかくらい分かるだろう』と、あたかも不正選挙を告発することが悪であるかのように主張された。
この頃から、石川家に対する村八分が開始された。田植えの季節が既に始まっていたが、近所からの手伝いが誰も来なくなり、朝夕の挨拶すら避けられるようになった。さらに、近所の小中学生が石川の妹に対して「アカだ」「スパイだ」と野次を浴びせたり、地元の新聞が石川の父親の操行について書き立てた。
法務局の調査に対して、村民は村八分の正当化のために「石川の父親が金を返さない」と申し立てたが、父親の問題と選挙の問題は別であると考えていた石川は、「父親の行為を正せないものが、村の問題をとやかく言うべきではない」という村民の意見を聞き、ショックを受けた"
いわゆる「村八分」という言葉が世間一般に広がったキッカケとされている事件です。恐らく石川家に対する嫌がらせがあったことは事実と見ていいでしょう。問題は、昭和期以前の村八分のように、村民の申合せにより村ぐるみの村八分が実行されていたのかどうか、という点です。その点について以下のサイトにて言及されています。
"地元関係者への調査の結果、公式には、村民が申し合わせて『村八分にしよう』とした事実は無いという結論になり、上野村から公式な声明も出されました。ただし、自然発生的に、村民が個々に距離を置いたり、敵対心を持って接したり暴言を吐く人があったため、事実上の村八分ともとれるような状態に成った、という弁明がされています。
当事者家族の証言によれば『事件後は、田植え時期にも人手を頼めなくなった』『手伝ってもいいけど、昼は目立つから遅い時間にと言われた』『農機具も貸すなと部落内で申しあわせがあった』というコメントもあり、報道の内容や上野村公式の結論と、当事者の実態は異なっていた可能性は強くあります。"
出典:1952年(昭和27年) 上野村・村八分事件 | 上野の歴史 | 上野ガイド
上野村公式見解は"組織的な村八分は存在しなかった"とのことです。公的機関にありがちな逃げのコメントではあります。もっとも、1952年の朝日新聞の報道では、上野村の社会教育委員長が調査を行っていた法務局上野出張所を訪れ『個人の人権と村の名誉、どちらが大事なのか』と怒鳴ったと報道されています。
<三重県の事例>
1961年3月28日夜、三重県名張市葛尾の公民館で、地元の生活改善クラブ「三奈の会」の懇親会が行われました。この時、女性会員用に用意されていたぶどう酒の中に農薬が混入されており、乾杯と同時にそれを飲んだ女性会員のうち5人が死亡、12人が傷害を負うという事件が発生しました。
この事件で住民の一人である奥西勝(当時35歳)が殺人・同未遂罪に問われました。一審は無罪判決でありましたが、控訴審で逆転有罪となり死刑が言い渡されました。
出典:特集 | 冤罪か?に全員挙手…名張毒ぶどう酒事件を大学生が研究調査「奥西元死刑囚が自白調書の大切さ知っていれば…」 | 東海テレビ
いわゆる「名張ぶどう酒殺人事件」という名で知られている事件です。名張毒ぶどう酒殺人事件は、世間一般的には"死刑判決が確定した事件の中で冤罪の可能性がある事件"として知られています。事件の詳細や経過をたどると1記事書ける分量になるので避けますが、当ブログでは奥西が逮捕された後の奥西家への村八分についてみてみたいと思います。
"事件当時の葛尾は娯楽に乏しく、総会に際して行われる宴会は数少ない楽しみの一つだった。奥西が逮捕された当初は、犯人が特定されたという安堵により、むしろ奥西の家族をサポートしようという呼びかけが行われた。
しかし、奥西が否認に転じたことを知ると、集落ぐるみで家族への迫害や差別が始まった。こうした村八分の結果、家族が葛尾を去り市内に転居すると、これを口実に共同墓地にあった奥西の家の墓は墓地隣接の畑に一基だけ追い出された。奥西へ死刑判決が下ったあとに犠牲者慰霊碑が建立された。
葛尾は事件当時、人口100人程度の集落であった。奥西が無実であった場合、葛尾の中に真犯人がいる可能性が高いと思われたため、地域の「和」に再び波風を立てる結果になることを恐れたとの声もある。一方、小さな集落が全国区で話題になったことへの反発もあった"
葛尾集落=名張ぶどう酒事件、という悪いイメージが付いてしまった、すなわち村の恥を外部に漏らした(漏らしたと言うより悪名を広めた、という方が正しいが)ことが村八分の要因、という側面が1つあげられます。
一方で、犯罪を自白した直後はむしろ奥西家に残った家族をサポートする動きもあったことから、犯罪を起こした(殺人を起こした)ことに対しての村八分があった、とは思えません。どちらかというと、昭和期以降に見られるようになったコミュニティの和を乱す行為に対し、激しい非難が加えられ、それが村八分に繋がってしまう事例である、と見た方がいいのかもしれません。
wikipediaの記事にでも言及されているように、奥西が逮捕され一件落着していたところなのに、奥西が自白を翻して犯行を否認しだした結果、残った村民たちにも動揺が広がり、"真犯人が別にいるのでは?"との疑念の視線を自らも、そして外部からも抱えることになってしまったのです。
村民からしてみれば『いらんことを言うな!』って気持ちでしょう。奥西の犯行否認が、村内の和を乱す行為だとして認識されたであろうことは想像に難くありません。
平成&令和時代の事例
村八分は決して過去の物ではなく、21世紀に入ってからもその実例が確認されています。いくつかピックアップしていきましょう。
<大分県の事例>
"Uターンした大分県宇佐市の集落で自治会加入が認められないなど「村八分」のような差別的扱いを受けたとして、男性(72)が市と歴代区長(自治委員)ら3人に計330万円の損害賠償を求めた訴訟で、大分地裁中津支部(志賀勝裁判長)は25日、区長らの行為を「社会通念上許される範囲を超えた村八分」に当たると認め、3人に計110万円などを支払うよう命じる判決を言い渡した。
訴状などによると、男性は母親の介護のために2009年5月、兵庫県から出身地の集落へ移住。母の死後、営農を始めたが、国の補助金分配を巡り、集落内でトラブルになった。
13年4月には、住民票がないことを理由に自治会から加入を拒まれ、市報を配布されないなどの嫌がらせを受けた。14年12月に住民票を移し、17年には大分県弁護士会が「人権侵害に当たる」として自治会へ是正勧告を行ったが状況は好転せず、18年に提訴した。
判決で志賀裁判長は、男性は移住後、自治会の会合や行事に参加しており『自治区の構成員として平穏に生活する人格権や人格的利益を有していた』と指摘。元区長らの行為は(それを)7年以上にわたって継続的に侵害するものであり、「村八分」に当たると認定した"
出典:自治会加入拒否「村八分」と認定 大分地裁中津支部が損害賠償命令|【西日本新聞me】
国の交付金を巡って剛力(仮名)氏らと対立した佐竹(仮名)氏は、ある日、村人の1人から『あんたとは付き合いをせんことに決めたから』と告げられた。知らぬ間に村民らは寄り合いを開いており、共同で絶交することを決めていた。佐竹氏と口を利かないのはもちろんのこと、自治区のメンバーからも外し、会合や行事に参加させず、市報なども配布・回覧しないという容赦のない村八分が始まった。
出典:記者も被害、大分県の村八分騒動と東芝没落が暗示する未来:日経ビジネス電子版
宇佐市の集落にUターンしていた男性。本来であれば農業振興のための交付金を受け取れるはずであるにもかかわらず、手続き上の関係で受け取れていなかったのです。それを疑問に思い、役場に問い合わせた結果始まった村八分。21世紀どころか令和になってもこのような村八分が残っているとは驚きです。
この宇佐市の事例に関して注目すべき点は2点あります。1点目は裁判所から明確に村八分であると断定されている点です。2点目は、前述した上野村の事例とは違って、自治会の申合せにより組織的に村八分が行われていた点です。特に2点目に関して言えば、村内の自治組織の申合せにより組織的な村八分が行われる点で、江戸期~明治期の村八分と酷似してるというか本質は変わっていないと言わざるをえません。
<愛知県の事例>
"中学校で火をつけた棒を使った演舞「トーチトワリング」の練習中、右腕に大やけどを負った鈴木文也君(15)。(中略)治療を終えて学校に戻ると、文也君は、教諭たちから心配の声を掛けられることもなかった。それどころか、「自業自得だ」「バチが当たった」などとののしられた。火が怖くなった文也君が本番への参加を断ると、教諭から「甘えるのか。当日できなかったら、みんながやっている中、突っ立ってろ」と一喝されたという。
(中略)
もっとも、一家を苦しめたのは、検証の労力よりも、周囲の無理解や誹謗中傷、嫌がらせだった。加奈子さんによると、報道直後から連日、深夜に自宅へ無言電話が掛かってきた。自宅ポストでは、郵便物が荒らされたり、なくなったりすることがあった。文也君の自転車に、タイヤが外れるような細工をされたこともあるという。
検証に向けての情報収集も容易ではなかった。トーチに参加した生徒の保護者らに対し、加奈子さんがLINEを使って情報提供を求めても、しばしば保護者から無視される。
「直接会った人からは『(文也君が)下手くそだったからやけどしただけなのに、何してくれてんの?』ということも言われました。ネットでも『私はトーチの被害者を知っています。すごい問題児です』と書かれたりもしました」"
出典:学校行事の大ケガを「自業自得と罵る教員」のなぜ 生徒は周囲からも誹謗中傷を受けてPTSDに | 学校・受験 | 東洋経済オンライン
学校の管理下で大やけどを負った"被害者"なのにも関わらず、騒ぎを大きくして学校の悪名を世に広めた、として近所の人から嫌がらせを受けることになってしまった事例です。この事例は、村八分が起こりうる条件の1つ、「村(あるいは地区)の恥を外部に漏らした」という条件とベクトルの向きは同じ気がするのです。
<コロナ禍における自粛警察について>
「村」のカテゴリーからは外れますが、足並みを揃えない人間を徹底的に排除する姿勢は令和になった今でも存在しています。いわゆるコロナ禍における"自粛警察"の登場がその例として挙げられます。
自粛警察について、少し長いですがwikipediaの記事を引用します。
"2020年(令和2年)、新型コロナウイルスの感染の拡大を受けて、日本では地方自治体の一部や政府が国民に外出の自粛の要請を行った。このような形になったのは、ヨーロッパの国々のように街や地域を封鎖するロックダウンは、法律上不可能であるためである。しかし、自分の行動だけではなく、他人の行動にまで過剰な興味を持ち、干渉する一部の人間の行為が問題化した。
(中略)
共同通信によると、民間施設を対象に休業要請が出された大阪府では、府のコールセンターに対し「どこそこの店が営業している」といった内容の通報が、4月20日までに500件以上もあった。愛知県では、新型コロナウイルスに関する苦情やトラブルなどの110番通報が、4月だけで愛知県警察本部に220件以上(3月の40件と比べ5倍以上)に及んだが、休業要請や外出の自粛に応じていないと指摘する通報が多く、緊急性のないものが主で警察の業務に支障をきたす可能性があった。
休業要請に店舗などが応じていないとSNSなどで指摘する行為や、外で遊ぶ子供をターゲットにした嫌がらせや通報をする行為、夜間などの閉店時にシャッターに誹謗中傷の紙を貼りつける(張り紙)行為は、インターネット上で「自粛警察」や「自粛ポリス」などと呼ばれるようになった。 SNSでの指摘に留まらず、事実無根の情報を拡散させるケースもある
「自粛警察」の対象は、他県ナンバーの車や電車内で旅行鞄を持っていたために旅行者と勘違いされた看護師にまで及び、さらには医療関係者の住居に投石する行為にまで発展するなど、歪んだ正義感や嫉妬心による「取り締まり」行為への対処は煩雑さを極めている。
村八分とは少し離れますが、コロナ禍と戦時下って性質が似ている気がします。戦時下においては、町内会の下部組織として「隣組」が組織され、相互互助ならびに監視を担っていました。
戦時下において、戦争に協力的では無い国民を「非国民」と罵ったことと、コロナ禍においてマスクをしない人やコロナに感染した人を攻撃する空気感ってよく似ていると感じます。
終わりに…
604年に聖徳太子が制定した十七条の憲法という法令があります。その第一条は「和を以て貴しとなす」、すなわち仲良くすることが貴いことだと聖徳太子は宣言しているのです。
聖徳太子の時代から、集団や共同体における「和」は尊重されてきたのです。言い換えると、そんな和を乱すような者は集団からはじかれてしまう危険性を常にはらんでいると言えます。
集団の和を保つためのパワー、現代の言葉で言い換えるなら同調圧力と言えますが、誤解しないで頂きたいのは、この同調圧力が強いのは日本だけではないということです。むしろ。欧米諸国の方が同調圧力が日本より強かったりします。
『外国には村八分はあるのか?』と聞かれたら、答えは『YES』でしょう。例えば英語の慣用句に"BLACK SHEEP(黒い羊)"というワードがあります。意味は組織やグループ内における厄介者、となります。
"black sheep"の意味・使い方|英辞郎 on the WEB
白い羊の群れに混ざって黒い羊が1匹いる、といった状態を指して生まれた言葉だとは思います。この英単語が存在していることからも分かるように、村八分は決して日本人だけの問題ではないのです。人間そのものが抱える悪しき性質だと言えます。
村八分を調べれば調べるほど、これは現代の言葉で言い換えるのであれば「いじめ」というワードがきっと皆様の脳裏にも浮かんだと思います。オランダ出身のジャーナリストであるウォルフレン氏は、日本のいじめについて自身の著書で以下のように論じています。
"他の子供とどこか違う子を、先頭に立って集団で制裁する教師が多い事や、不文律に違反した生徒をのけ者にするのにも教師がしばしば同意を与えていたということである。周囲に自分を合わせることは日本の社会では高く評価されるが、いじめが同調を強いる目的で行われるのは許されない"
出典:『日本/権力構造の謎』(ハヤカワ文庫上巻:211ページ)
日本/権力構造の謎 下 文庫新版 (ハヤカワ文庫 NF 178)
としたうえで、いじめはいじめをする側が社会における権力のヒエラルキーを維持するのに役立つと考えている(から起こりうる)、と論じています。いじめや脅しに関してウォルフレン氏は「嫌悪されるどころか、社会・政治生活の必然的な側面として受け入れられている(『日本/権力構造の謎』下巻211ページ)」とさえ述べています。
ここまでのことを自分なりにまとめると、
- 日本人は集団の和(同調)を大事にする傾向がある
- 和を乱すものに対しては制裁(村八分やいじめ)を課す傾向にある
- 和を乱した者に制裁を与えることでによって残りの共同体やグループのメンバーの和を維持するシステムが働いてしまっている
といったところでしょうか。少し前に流行った「KY(空気が読めない)」という言葉も、まさに集団の和を乱す者に対する蔑称と言えます。もっとも、ウォルフレン氏はこれら同調圧力を日本の構造的問題だと論じていますが、黒い羊という言葉があるように、同調を乱す者に対し制裁が下されるシステムは海外でも存在しているものであると私は考えます。
「村八分」という言葉だけ聞くと、なんだか江戸時代の伝承みたいに聞こえますが、それに近い制裁は令和の今でも現実に起こっているのです。人間は誰しもが地域や学校や職場やサークルなど、あらゆるグループに属しており、属しているからこそ現代版村八分のようなことは誰にでもどこにでも起こりうる問題だと言えるのです。村八分は決して過去の問題ではないのです。