
【新聞で読む昭和史】シリーズは、昭和時代に起こった事件や事故を当時の新聞記事を見ながらご紹介してくシリーズ記事です。今回は、1955年(昭和30年)7月28日に発生した「橋北中学校水難事件」に関する記事を見ていきます。
橋北(きょうほく)中学校は、三重県津市にある公立中学校です。その学校で今からちょうど70年前の1955年(昭和30年)7月28日、教育現場で起きた水難事故としては戦後最悪と言ってもいい事故、『橋北中学校水難事件』が発生しました。学校の水泳授業中に多数の女子生徒が溺れ、犠牲になった水難事件です。
当ブログでは、事故当日の7月28日、中部日本新聞(現在の中日新聞)が発行した号外を紹介していきます。正直なところ、事故当日の号外ですから情報の精度というか内容に関しては検証が必要ではありますが、地域の新聞社が発した第一報であり、資料的価値は十二分にあると思います。
※私所有の新聞を私がスマホで撮った写真をそのままアップしているので少々見にくいところがあるかもしれません。ご容赦ください。
※新聞記事の原文を掲載した後、私が加筆した<解説>を載せてご紹介していく流れをとります。
<目次>
記事の表面

報道ヘリで撮影した事故現場の写真を掲載しています。なお、この号外についてはWikipediaでも触れられています。
"事件の報道と調査
本事件について、朝日と毎日、中日新聞(中部日本)は当日28日夕刊第一面に写真入りで報道し、航空機からの現場空中写真も撮影している(読売新聞は未見)。中日は号外も発行している。以後数日間報道が続く。朝日31日夕刊では、ラジオで救助の実況録音放送があったことがうかがえる"
記事の裏面

では、記事の中身について触れていきましょう。

死亡2名、34名絶望
津海岸女学生溺死事件
28日午前の津市中河原文化村海岸で水泳練習中の同市橋北中学校(校長沢野敏郎氏)女生徒の遭難者は全部で44名、救助された者8名、死亡者は2名、午後3時半現在人工呼吸中のもの34名となったが人工呼吸中の34名もほとんど絶望視されている。
<解説>
7月18日~7月28日の10日間、橋北中学校では水泳訓練が実施されており、事故当日の28日は水泳テストの日でもありました。全校生徒約660名、うち女子生徒は200名いました。
午前10時ごろに一斉入水。その数分後、海岸の北側にいた女子生徒約100名が次々と溺れました。先生や海水浴客が必死の救出を行いますが、号外が発せられた時点で死亡2名、心肺停止状態のものが34名出る大惨事となりました。
結果だけを言うと、心肺停止状態と号外で発表された34名全員が死亡、この事故の死者数は36名に上り、全員が女子生徒でした。

海水浴惨事はなぜ起きた
全く想像できぬ
水泳指導は精密な計画を
楽しい海水浴が一瞬十余名の児童の命を奪ってしまうという津海岸での集団水死事件は、名古屋市でもほとんどの小・中学校が泊りがけや日帰りでそれぞれ海水浴に出かけている時だけに、学校や父兄に与えた衝撃はあまりにも大きく、ことに津海岸には市内からも今2校行っているのをはじめ、今後計25校が各海水浴場に行くことになっており、他人事ではないと父兄たちの心配は消えそうにない。以下どうしてこのような事態を招いたか、未然に防ぐすべはなかったか、関係各方面の意見をまとめた。
<解説>
そもそも、水泳自体が体育の必須種目として採用されたのが1955年でした。
"橋北中学校では、学校行事の一つとして毎年夏季に水泳訓練を実施してきたが、1955年(昭和30年)に津市教育委員会が夏季水泳訓練を同市内小中学校に正課の授業(正確には特別教育活動)として実施させることとした"
なぜ、1955年のタイミングでこのような措置が取られたのでしょうか。勝手な想像ではあるんですが、同年5月に瀬戸内海で発生した紫雲丸事故が影響を与えていると思っています。
"1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中、同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。最大の被害を出した事故であり、国鉄戦後五大事故の1つでもある。「紫雲丸事故」といった場合はこの事故を指すことが多い。修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した"
この事故をきかっけに、子供たちの水泳能力向上を望む声が上がったため、教育委員会側もその声に応えるかたちで正課の授業に水泳を取り入れたのではないでしょうか。
もっとも、この当時はまだプールを設置している学校は少なかったので、近くの海や川で水泳の授業が行われていました。ブログの読者様の中にも、学校の水泳の授業は海や川でやってた方もおられるのではないでしょうか。
泳げない者は分けて指導を
栗山愛知県教育委員会学校教育課長の談
私も実際に水泳指導に当たったことがあるが地元の海岸でもあり、先生もこの付近のことは一番よく知っているはずで、遠泳中に溺れたのならともかく、こうした事態は想像できない。泳げる者と泳げない者を分けるのは指導の第一条件で、これは海ではなく小さなプールでやる場合も同じだ。慣れている場所では、こうした条件が守られないのが事故の原因となり注意すべきだ。
三重県四日市市で県水泳連盟が水練教室を開いているが、深みには旗を立ててハッキリと区別を付け、泳げない者には10人に1人以上の指導者を付けている。これが当然の措置だ。愛知県では高校の場合は計画が出されたら熟練した水練教師、舟の設備、陸上の見張りなどをよく検討、許可し、また小中学校に対しては県のこの方針により各市町村教育委員会が指導しており、これが確実に守られれば事故の起こるわけがない。
また陸上での安全教育も忘れてはならず、海へ入る前に冷たい飲み物を避けるとか、寝冷えをさせないとか親なり教師が十分注意すべきだ。
<解説>
事故当日の引率教師の人数についてですが、
"参加生徒約660名は、男女別にしさらに水泳能力の有無によって区別したうえ、ホームルームを中心とした組別に編成することとして男子7組(うち水泳能力のない組3組)女子10組(うち水泳能力のない組9組)の全17組とした。
さらに教諭16名と教諭の手不足補充のため事務職員1名とに各1組を担当させ、別に陸上勤務者として教諭2名を置き、水泳能力も指導の経験も充分な教頭(昭和30年4月着任)と体育主任の教諭(1952年(昭和27年)4月新任)の2名を生徒全般に対する指導者とした"
すなわち、全校生徒660名に対し、教師の数は校長を含めると22名となります。ざっくりと計算すると教諭1人あたりの生徒数は30名となります。3年生の水泳部の部員がサポートについたようですが、教室の授業ならともかく、やはり教諭1人で30名の監視をするのは困難であることが想像できます。
なんとなくイメージとして"昔の子供はみんな泳げた"みたいな想像ってありませんか?でも、実際は昔の子(70年前)は泳げない子の方が圧倒的に多かったと考えられます。上記引用文章中の「女子10組(うち水泳能力のない組9組)」って文言を単純に信じれば、女子に至っては9割が中学生の時点で泳げなかった、ってことになります。
ちなみ令和の調査だと
中学1年生の3割以上が25mをクロールで泳げない 一番はコロナ禍のせいだけど…それだけでは済まない課題が:東京新聞デジタル
といった感じで、"中1の3割以上が泳げない!"って大騒ぎしてますけど、昭和30年代の方が状況はもっと深刻です。
これも単純な理由で
- 先生に水泳を教える技術が当時はなかった
- 地域のスイミングスクールが充実していない
- そもそも学校にプールが無い
といった理由が考えられます。9割が泳げない集団を自然の海で管理するのはなかなか難しかったであろうと思います。
生徒約10名に1名の先生を
坂井名古屋市教育委員会指導課長の談
現在、豊正中学校の50名、南押切小学校88名が津海岸へ行っているので早速事情を問い合わせたら、両校に事故は無いようでホッとした。しかし、今後25校が各海水浴場へ行くので十分注意したい。名古屋市では万全を期して生徒約10名に対し1名の先生を付け、生徒を班別に分けて先生が責任を持って見守り、校長、教頭が海の中に立ったまま全体を監視している。潮流の変化など不慮の出来ごとに対しては、海水浴場の監視員に状況を聞き、生徒に念入りに注意している。生徒も勝手な行動を取って標識の外へ出るようなことをなくし、先生の注意事項を厳重に守って欲しい。
<解説>
水泳訓練において同じ海岸を共有していた豊正中学校と南押切小学校が28日当日は両校とも不在だったので、いつもの指定区域を超えて河口に近い部分まで水泳範囲を広げました。河口に近づいてしまったことで、河口付近の窪み(推定水深2ⅿ)にはまる原因になってしまったのではないか、とも言われています。
当日の状況なんですが

左上黒枠が橋北中学校の所在地。海岸の北側で女子、南側で男子が水泳訓練を行っていました。女子の範囲のすぐ北側が安濃川の河口です。なぜ女子側が北側に配置されたかと言えば、着替えに時間がかかる女子を学校に近い北側に配置した方がスムーズだから、という理由からです。
女子生徒たちが溺れた理由として考えられる説の1つに、南から北側へ流れる沿岸流(岸と平行に流れる海流)に流され、河口の窪みにはまってしまったから、という説があります。この説を採用すれば、河口に近い部分にいた女子に被害が集中した理由の説明が付くのですが、岸に平行に流れる沿岸流が原因ならば、男子の中にも溺れる者がでたはずなので、積極的に採用されるべき説ではないとされています、
安濃川の流れに押された?
第四管区海上保安本部水路部飯塚管理課長の談
三重県津市安濃川河口付近の水深は海岸から240ⅿ沖合まで1ⅿ以下、今日の潮位では満潮時でも沖合240ⅿで1.5ⅿ以下だ。今日は午後1時20分が満潮だから朝はそれよりずっと浅い。潮流は津市沖合(2キロ)で0,2ノットという弱さで流れている。午前9時半ごろは潮位の関係で沖から海岸に向けて0,2ノットの潮流があるわけだ。これもおぼれるほどの強さとは考えられない。安濃川からの流水に押し流されたのではなかろうか。なお、観測によると同時刻頃の気象状況は気温29.7℃、南東の風1,6ⅿ、海上は穏やかで悪い条件ではなかった。
<解説>
その後の刑事および民事裁判で原因の調査が行われました。はっきりとした原因は分からないままであるものの、女子が泳ぐ海岸北側の範囲内において異常流が発生し、その流れに沿って泳いでしまったがために、一部の女子が河口付近の深みにはまって身動きが取れなくなった、という認識が最も真相に近い原因であるとしています。

あっと思うひまもなし
沢野敏郎校長の談
私も一緒に泳いでいましたから、あっと思うひまもありませんでした。数名の生徒を助けるのが精いっぱいでした。今は救助のことで頭がいっぱいです。何とおわびしてよいやら。
急に押し流された
救われた浜口さんの話
急に潮の流れが速くなって押し流されました。無我夢中でバタバタしているうちに分からなくなりましたが、気が付いたときには砂浜の上にいました。

↑救助を見守る関係者たち

↑ 救助のために集まった関係者と報道ヘリ
都市伝説としての橋北中学校水難事件

この橋北中学校水難事件は、インターネット上で結構有名な事件で、今でもYouTubeやまとめサイトで取り上げられています。というのも、この事件は都市伝説というかオカルト的な方向に話が飛んでいってしまっているようなのです。
"そして時が経つにつれ、事故の原因が幽霊によるものだったとの怪談が語られるようになる。資料によって語り口は異なるものの、要点を総合すれば以下の通り。
・海の中で、防空頭巾をかぶった(または、もんぺ姿の)大勢の女の人たちに足をひっぱられたと、助かった女子生徒が証言している。
・中河原海岸は、10年前の津市空襲の犠牲者たちの遺体が多数埋められた場所だった。遺体の数は36名で、水難事故の犠牲者数と一致している。つまり空襲の死者たちが亡霊となって海中にひそんでおり、その手にひっぱられて女子生徒たちが溺れ死んでいった……というストーリーである。"
出典:学校の怪談の大スター「テケテケ」は沖縄が発祥? 36人の少女が海に消えた「中河原海岸水難事故」でも囁かれた“戦争”幽霊の存在 | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け
事故の原因がはっきりとしていないところが、都市伝説の入り込むスキを生んでしまっていると言えます。
事故の数年後に週刊誌が事故に遭って生存した女子生徒にインタビューをしているのですが、女子生徒が話してもいないことを勝手に週刊誌が面白おかしく書き上げたことが、この事故をオカルト的要素のあるものにしてしまっている要因だと言えます。実際にはこのようなオカルト的な事象は一切確認されていません。
ただ皮肉なことに、この事件がネット上で風化せずに検証が繰り返されているのは、この事件がオカルト的要素を持って語られることが多いから、という側面もあると思います。誰にも知られずに埋もれていくよりは、定期的に検証が繰り返される方が教訓としてこの悲劇が後世に伝わっていくのかな、とも思います。
終わりに…

この水難事故をきっかけに、学校にプールを設置すべしという機運が高まります。現在では平成中期を境に減少傾向にあるものの、約8割の小中学校にプールが設置されています。世界的に見てこれは特異な傾向であり、例えばお隣韓国の学校プール設置率は1%程度でしかありません。
もっとも、設備があっても肝心の教える側の技術が無ければ意味を成しません。最近では民間のスイミングスクールに水泳授業を委託するケースも増えています。どちらにせよ、子供に泳力を付けさせようとする大人たちの熱意は大きな水難事故を経験して以後、時代が変わっても着実に根付いていると言えるでしょう。