【学校で教えてくれない社会科】は、社会科の教員免許を所有しているツベルクリンが、学校で教えてくれないような役立たない社会科の授業をしていくシリーズ記事です。19時間目の今回は「歴史人物の小話(エピソード)を紹介する記事」です。
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『豊臣秀吉は信長の草履を懐で温めていた』的なエピソードって興味を惹かれますよね。エピソードからその歴史人物に興味が沸くこともあるかと思います。今日は、色んな歴史人物の小話(エピソード)をご紹介していきます。
※事実とは断定できない話もあるかと思います。あくまでエピソードを楽しむ感覚でご覧いただければ幸いです。
<目次>
長曾我部元親の小話
戦国時代の終わり、天下統一を果たした豊臣秀吉は自らの傘下に入った大名たちを呼び寄せて宴会を開きました。秀吉は、まんじゅうを用意して自ら大名たちに配りました。大名たちは秀吉に配慮して、美味しそうに残らず食べました。
そんな中、四国を統治していた長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)は、一口だけ齧り、あとは包みに包んでしまいました。
その姿を見た秀吉は不服そうに『長曾我部よ、そちはワシのまんじゅうが気に入らぬのか?』と問いただしました。元親は答えます。
『いえ、秀吉さまから頂いたおまんじゅうを私1人だけでたべるのは勿体無いことです。帰って家臣たちと分け合います』
それを聞いた秀吉は大喜びし、残りのまんじゅうを全て元親に与えたといいます。ゴマをすれることも一種の才能ですね。
石田三成の小話
1600年に起った関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に立ち向かって敗北した武将として知られている石田三成。彼のエピソードとして次のような話が伝わっています。
ある日、秀吉が茶会を開きました。数多くの武将が参加しました。その茶会では、秀吉が立てた茶を武将たちが1口ずつ飲み次の武将へ回す回し飲みがされました。その中にハンセン病を患っていた大谷吉継という武将がいました。彼は病気ゆえ、他の武将に気を使って口を付けずに飲むふりだけしてその場をやり過ごそうとしました。
ところが、顔のでき物から出た膿が茶の中へ入ってしまいました。それを見た他の武将たちは、飲むのを嫌がり、誰も吉継から茶碗を受け取ろうとはしませんでした。
そんな状況を見た三成は、吉継にこう言いました。『吉継どの、ワシは喉が渇いてしまっての。はやくその茶碗をこちらに回して下さらぬか』。そして、膿の入ってしまった茶を何の躊躇もなく飲み干してしまったのです。
その行動に感動した吉継は、三成との友情を深め、関ヶ原の戦いでも三成側に付き華々しく戦死したのです。
加藤嘉明の小話
豊臣秀吉の家臣で後の松山藩(現在の愛媛県)の大名になった加藤嘉明(よしあきら)は、家臣に対して非常に寛大な心を持つ主君でした。
当時の武将の間では、高価な茶碗や皿がもてはやされました。嘉明も皿の収集に情熱を注いでおり、特に「虫喰南蛮」という10枚セットの小皿を大変大事にしていました。
ある日、家臣の1人がお客様への接待の準備中に、この虫喰南蛮10枚のうち1枚を誤って割ってしまいました。家来は青ざめましたが、切腹を覚悟で嘉明に報告しました。
嘉明はそれを聞くと、家臣に残りの9枚の皿を持ってくるように申し付けました。家臣が皿を持ってくると、1枚残らず皿を叩き割りました。そしてこう言いました。
『残りの9枚が存在している間は、誰が割ったのだといつまでもなじられるであろう。皿を愛するあまり、家来に汚名を着させると、いずれ家来を失ってしまうものだ。どんなに高価な皿であろうと、家来には代えられない。』と。嘉明は決して家来を咎めることはしなかったのです。
上杉鷹山の小話
現在の山形県に江戸時代、米沢藩という藩が存在しました。そこでのお話です。
ある日、ある農家が干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降り、手が足りず困っていました。そこに、通りかかった武士2人が手伝ってくれました。当時、稲の取り入れを手伝ってくれた人には、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を渡すのが習慣でした。
そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、『お城の北門の門番に話を通しておくから』と答えました。後日、お礼の餅を持って伺ってみると、通された先にいたのは米沢藩藩主の上杉鷹山(ようざん)でした。実は、お殿様自身がお忍びで農村を視察中に、稲の取り入れを手伝ったのでした。
農民は、自分たちのことを手伝ってくれたのがお殿様と知るや否や、非常にびっくりしましたが、鷹山は餅のお礼にその農民に褒美まで与えたのでした。
上杉鷹山は江戸時代中頃の米沢藩藩主であり、当時財政破綻寸前の米沢藩の財政を見事好転させた名君でもあります。彼の政治手腕は、後世の政治家にとっても見習うべき点が多いものであり、アメリカ35代大統領、ジョン・F・ケネディ大統領も「尊敬する日本人」として挙げたほどです。
徳川家茂の小話
幕末のころ、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)は、書道を家臣の戸川安清(やすずみ)から習っていました。安清は当時70歳を超えた老人でしたが、家茂からお願いされて書道を教えていました、
ある時、教えていた最中に、家茂がいきなり書道の墨をするための桶に入った水を思い切り安清にぶっかけました。そして、『残りは明日にしよう』と言い残し部屋を出て行ってしまいました。
同席していた家臣たちがその破天荒な行動にあきれていると、安清自身は泣き出しました。さぞ、家茂の破天荒な行動を嘆いているかと思いきや、実は高齢のため失禁をしてしまっていたことを告げました。当時、将軍の前で粗相をするなど断じて許されない事です。安清の粗相に気付いた家茂は、それを隠すためワザと水をかけたのです。家茂の心遣いに感動した安清は、感激のあまり涙を流したのでした。
白洲次郎の小話
敗戦後に総理大臣となった吉田茂の側近で、アメリカ側との対応に当たったのが白洲次郎(しらすじろう)でした。彼は、敗戦直後の日本が最も弱い時期に、毅然とアメリカに立ち向かった日本人でした。
ある日、昭和天皇からダグラス・マッカーサー(アメリカ側の最高司令官)にクリスマスプレゼントが届けられました。白洲次郎がそのプレゼントをマッカーサーの執務室へ届けると、すでに他の貴人から贈られたプレゼントで机の上はいっぱいでした。
マッカーサーは、『その辺の床にでも置いておけ』と指示しました。それに対し次郎は『これは天皇陛下からの贈り物です。床に置くなど出来ません!そんな扱いをされるのならば、この贈り物は持って帰ります!』と言い放ちました。慌てたマッカーサーは、部屋に新しいテーブルを運ばせました。
終わりに‥
それなりにエピソードを知っているつもりですが、教師時代は新卒だった事もあって、授業を脱線させられるような余裕は無かったのよね~(*'ω'*)。
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