過去の歴史は未だにタイムマシンが開発されていないので、基本的に変わることはありません。けれども、変わるはずのない歴史が解釈の移り変わりや新史料の発見によって、変わることがあるのです。
例えば、語呂合わせで『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』とか覚えていたのに、数年前から『いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府!』に変わったりしています。
1192年から1185年へ!鎌倉幕府はいつできた?成立年が変わった理由 | かまくらいふ
そして、現在では『幕府は数年かけて徐々に出来上がったものであり、はっきりとした成立年を断定できるものではない』と、また変わってきています。
歴史は変わらないですけど、子供たちに歴史を教える教科書は定期的に書いていることが変わっていっています。教科書は5年ごとに書き換えられ、新しいものが出版社より発行されます。年の離れた兄弟であれば、兄姉の教科書と弟妹の教科書では書いてある文章だったりニュアンスが微妙に違っていたりするのです。
今回は、近年の社会科(歴史)の教科書がどのように変わったのか、元中学校社会科の教師だった私が、いくつかのテーマを選んで皆様にお伝えしていきたいと思います。
<目次>
- 聖徳太子?それとも厩戸皇子?
- 実際はめっちゃ大きかった藤原京
- 神風は吹いたのか?
- 関ヶ原の西軍の大将は石田三成じゃない
- 「鎖国」しているつもりはなかった江戸幕府
- 大塩平八郎は民衆のヒーローなのか?
- 「あの戦争」を何と呼ぶのか?
- おわりに‥
聖徳太子?それとも厩戸皇子?
そもそも、聖徳太子についてはこのよく見かける肖像画の時点で『この人、聖徳太子じゃなくね?』って言われています。現在の教科書では"伝聖徳太子像"とぼやかした感じで説明されています。
そして、名前そのものも近年扱いが変わってきています。聖徳太子という呼び名は死後の呼び名であり、生前呼ばれていた「厩戸皇子(うまやどのみこ)」とか「厩戸王(うまやどおう)」と呼ぶべきだという風潮になってきたのです。
現在の社会科歴史分野教科書における各出版社の記述は以下の通りです。
『聖徳太子じゃなくて厩戸皇子に?』って感じでマスコミが煽ってましたけど、それはあくまで中学校以上の話です。小学校の教科書では過去も現在も「厩戸皇子」なんて表記は一度も登場していません。一方、中学校以上の教科書では「厩戸皇子」という表記がカッコ書きではありますが、登場しています。
噂では『次の改訂で聖徳太子の文字は消えるんじゃ‥』との声もありましたが、2021年度から実施される新しい学習指導要領に沿った教科書では、どうやら聖徳太子の呼称はそのままで、むしろ厩戸王という呼称の方が消えちゃう方向みたいです。聖徳太子の呼称を無くすことの批判が、現場の先生や研究者から多く出たからだそうです。
聖徳太子のやったこととして、「十七条の憲法を制定した」「遣隋使として小野妹子を派遣した」「冠位十二階を制定した」など、聖徳太子が強いリーダーシップを発揮して政治を行ったみたいにこれまでは書かれてきました。そして、聖徳太子のライバルとして、蘇我氏(蘇我馬子)が立ちはだかっていた、という構図で書かれていました。
ところが、近年の研究によって2人の関係はライバルではなくむしろ協力関係にあり、当時の天皇であった女帝の推古天皇との3人体制で政権運営を行っていたことが分かってきました。「十七条の憲法」だって聖徳太子のオリジナルじゃないみたいです。ってことは、今まで聖徳太子は過大評価、蘇我馬子&推古天皇は過小評価されてたってことです。
実際はめっちゃ大きかった藤原京
出典:https://www.nabunken.go.jp/fujiwara/
7世紀後半まで(飛鳥時代)の日本は、天皇1代ごとに都が変わっていました。都の名前を覚えるのめっちゃダルいです(*'ω'*)。8世紀になると、中央集権的な国家建設のために、恒久的な都市の造営が目指されるようになりました。その結果できたのが、710年に平城京(今の奈良)、794年には平安京(今の京都)です。
すなわち、今までは「平城京が日本史上初めて造営された永久機関的な都」であり、だから『なんと(710年)素敵な平城京』と語呂合わせまでして覚えさせられてきたのです。
ところが、最近の教科書の世界では、平城京の1つ前の都、藤原京こそが至高にして最強、と見なされだしたのです。藤原京は、現在の奈良県橿原市と明日香村に位置していました。
もちろん、藤原京の存在自体はずっと前から知られていましたが、たいして大きくないしょぼい都と考えられてきました。ところが、90年代以降の発掘調査によって、南北と東西の長さがそれぞれ5km以上もある超巨大都市だったことが分かってきました。その広さは、のちに造られる平城京や平安京よりも広かったことが分かったのです。
つまり、広さだけ見ても、藤原京は臨時的な都ではなく、むしろ永久機関を目指して造られた都と言えるのです。
この藤原京では、現在の憲法にあたる「大宝律令」が制定されました(701年)。この大宝律令は、のちに明治時代になって大日本帝国憲法が公布されるまで、日本の根幹を担っていた法律でした。そういう意味からも、この藤原京が後の歴史に与えた影響は大きいと言えるのです。
もっとも、藤原京の存在期間は694年から710年間の16年間だけでした。なぜ、こんなにも巨大な都がわずか16年間で放棄されたのかについては、今後の研究に期待です。
神風は吹いたのか?
鎌倉時代の中頃、モンゴルを中心とする異国の兵隊が日本へ来襲した事件がありました。1274年と1281年の2回来襲したこの戦争を「モンゴル襲来」とか「蒙古襲来」と呼んでいます。最近では「元寇(げんこう)」という表現はあまり見られないようになりました。
従来の記述では、2回とも暴風雨がモンゴル軍を襲って日本が勝利した、というニュアンスで書かれてきました。日本が勝利した(モンゴル軍が撤退した)のは、天候のおかげであり、だから後に"日本は神風に守られている"という神風思想が生まれる要因にもなりました。
果たして、日本勝利の要因は暴風雨(台風とも)だったのでしょうか?結論を書くと、近年の教科書では、「暴風雨の影響もあって撤退しました」のように、暴風雨が勝利の第一要因ではないとのニュアンスが含まれるようになりました。順番としては、「暴風雨を受けてモンゴル軍は撤退」ではなく「撤退途中に暴風雨にあった」になりつつあります。
日本勝利の要因としては
- 馬を使う戦闘が得意なモンゴル軍だったが、海があるので日本に馬を運んでこれなかった。
- モンゴル軍は強制動員された寄せ集めであり、やる気もあまり無かった
- 対する日本はまさに「国難」級の事件だったので、必死に防衛した
- 2回目の襲来前に海岸に石垣(防塁)を築き上げ、防衛体制を整えた
などなどが考えられます。要するに、神風が吹かなくても日本勝利の可能性は非常に高かったと言えるのです。
関ヶ原の西軍の大将は石田三成じゃない
俗に"天下分け目の合戦"と呼ばれている「関ヶ原の戦い」。東軍の徳川家康と西軍の石田三成が争い、家康側が勝利。その後、家康は江戸幕府を開いた‥。これが読者の方が習ってきたお決まりの流れです。
でもね、光成ファンの方には申し訳ないですけど、そもそも、西軍の大将は石田三成じゃないです。だって250万石の領地を持つ家康と20万石程度の三成では、"格"が合いません。西軍の大将は三成ではなく、中国地方を治めていた毛利輝元(120万石)です。
もっとも、石田三成の名前が教科書から完全に消えたわけではありませんが、書き方としては「三成が毛利輝元を総大将としてまつりあげ‥」と、はっきりと書かれています。
ただ、輝元は合戦当日は大阪城で豊臣秀頼(秀吉の息子)と一緒にいて合戦には参加していません。西軍の全体的な盟主は輝元、関ヶ原の現場責任者は三成、といった感じがより実情に近いかと思われます。
「鎖国」しているつもりはなかった江戸幕府
出典:https://www.at-nagasaki.jp/dejima/dejima/top/
江戸幕府は、幕府運営の障壁となると考えたキリスト教が日本に入ってこないように、国を閉ざした、いわゆる「鎖国」状態に仕立て上げた、と従来の教科書では説明されてきました。唯一の例外として、長崎の出島(でじま)でオランダ人相手に貿易を行った、と教えてきました。
しかし、近年の教科書では『いわゆる"鎖国"』とか『"鎖国"と呼ばれるような状態にあった』と言った感じで、はっきりと鎖国と明言することが無くなってきています。
詳説日本史B 改訂版 [日B309] [平成29年度以降使用] 文部科学省検定済教科書 山川出版
さらに言えば、2014年度の山川出版社「高校日本史B」において、『江戸時代は国を閉ざしたのではなく、唯一の開港地長崎に渡来を特許したオランダ・中国商人と貿易し~』と、はっきりと"国を閉ざしたのではなく"と明言しています。
そして、外国との窓口も出島だけではなく「四つの口」と呼ばれる、四か所で異国や異民族の人々との交流があったと書かれるようになりました。
「四つの口」とは、
- 長崎・出島→オランダ&中国
- 長崎・対馬→朝鮮
- 鹿児島・薩摩→琉球(当時は日本の管轄外)
- 北海道・松前→アイヌ民族
少なくともこの4か所で、江戸時代の日本は異国や異民族の人々と交流をしていたのです。それに、オランダを介してヨーロッパの情報を入手していました。決して海外の情報に疎いわけではなかったのです。
このように、江戸時代を通じて異文化との交流が継続してあったので、おそらく江戸幕府は自分たちが鎖国をしているなんてこれっぽっちも思わなかったのではないでしょうか?鎖国という言葉自体、言われ始めたのは19世紀になってからです。
ただ、幕府は民間人や諸藩が勝手に外国と交流することは禁止しました。貿易のうま味を独占したかったからです。なので、幕府が行った政策は「鎖国」というより「海禁(かいきん)」という方が実情に合っていると思います。海禁政策自体は、中国や朝鮮も同じようなことをやっていましたしね。
大塩平八郎は民衆のヒーローなのか?
江戸時代後期の学者である大塩平八郎は、「大塩平八郎の乱」だけの"一発屋"なんですけど、その一発の教科書における扱いが大きすぎて、小学生でも知っている歴史人物になってます。
大塩平八郎の乱とは、1837年に大塩が起こした反乱を指します。大塩は元々幕府の役人だったのですが、飢饉で人々が苦しんでいるのに有効な手立てを打てない幕府に対し反乱を起こし、米を蓄えていた豪商の家を次々に襲いました。
反乱自体は半日程度で鎮圧されますが、 元幕府の役人(つまり身内)が起こしたこともあり、幕府は相当動揺したと教科書には書かれいます。
教科書的な書かれ方をそのまま受け入れるのならば、大塩は民衆のために立ち上がったヒーローとみなすことができます。しかし、近年の教科書では本文で触れずに、欄外で触れるのみで済ませている教科書も出てきています。
大塩平八郎の乱の結果、大阪市内で火災が発生し、少なくとも270名の一般市民が焼死、7万人以上が被災したとされています。立派な理想を掲げて行動を起こしたのは良いとして、被害が大きすぎやしませんかね?という見解が研究者から出てきているのです。
その結果、大塩平八郎を教科書で大々的に扱うことを避ける教科書が今後ますます増えていく可能性は出てくるでしょうね。
「あの戦争」を何と呼ぶのか?
1941年12月8日、日本がアメリカ海軍基地のあった真珠湾を攻撃して始まり、1945年8月15日に日本が降伏して終結した"あの戦争"、なんて呼ぶべきなのでしょうか?
おそらく戦後75年、多くの人々が「太平洋戦争」と呼んできました。事実、小学校の社会科の教科書では、現在出版されている全ての教科書で「太平洋戦争」と書かれています。
ところが、これが中学校になるとやや複雑になってきます。と言うのも、この戦争は全歴史の分野でも、最も出版社の思想や考え方が現れる分野と言えるからです。"あの戦争"を何と呼ぶかで、その出版社の考え方が見えてくるのです。
出典:【中学歴史教科書8社を比べる】547 29 日米関係 -112- ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 -20- <まとめと考察⑵ 呼称・開戦の理由> - 日本会議唐津支部 事務局ブログ
現在、中学校の歴史教科書を出版しているのは7社あります。現行版(2016年~2020年)のあの戦争の呼び方をまとめた表をお借りしてきました。
本文中における表現をまとめると
- 「太平洋戦争」‥3社(東京出版・教育出版・日本文教)
- 「大東亜戦争」‥2社(育鵬社・自由社)
- 「太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)」‥1社(帝国書院)
- 「アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)」‥1社(清水出版)
となります。
「大東亜戦争」という呼称は、戦時中に日本が使用していた呼称です。戦後、アメリカ側が『大東亜戦争なる呼称は、軍国主義と切り離せない』という理由から、戦争名を「太平洋戦争」と呼ぶべき、と日本側に要求したのです。それが、一般的に広まり、「大東亜戦争」という呼称は、一旦は消えていたのです。
その後、主に保守層から「大東亜戦争」との呼称を使うべきだという意見が出てくるようになりました。大東亜戦争と呼ぶべきだとする論者の思想は『欧米諸国の圧力からアジア諸国を解放するための自衛戦争だった』と考える向きが多いです。
また、『戦争は太平洋エリアでのみ行われたわけではなく、中国や東南アジアでも戦闘が行われたことを踏まえるべき』と考える論者が支持する呼称が「アジア・太平洋戦争」なのです。この呼称はここ20年で新しく使用され出した呼称です。
もちろん、呼称問題も重要な議論なのですか、考えたい(生徒たちに考えさせたい)のは、むしろ『あの戦争とは何だったのか?』といったような、戦争そのものの本質に迫った問いだと私は思うのです。
なお、政府や皇室の方々が終戦記念日等でスピーチをする場合は、「先の大戦」というやや濁した表現で言及しています。
【全文】天皇陛下 平和を願うおことば 感染拡大に触れた一文も | NHKニュース
"天皇陛下は、はじめに「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と述べられました。"
おわりに‥
もし、小学生~高校生のお子さんがいらっしゃる保護者の方は、お子さんの社会科の教科書を手に取ってみて、教科書ではどんなことが書かれているのか読んでみると新しい発見があるかもしれませんよ。
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