2025年は戦後80周年を迎えます。戦後80周年を迎えるにあたって各地では様々な式典が催されることでしょう。そんな中、当ブログは特攻隊にスポットを当てていきたいと思います。
特攻隊(特別攻撃隊)について簡単に説明すると以下のようになります。
アメリカの猛攻を前に、敗退を重ねた日本軍が反撃の手段として始めたのが、航空機や魚雷などに人員を乗せたまま敵艦に体当たりさせる特別攻撃=「特攻」でした。搭乗員のほとんどは若者で、陸海軍でおよそ6000人が亡くなりました(出典:特攻隊戦没者慰霊顕彰会『特別攻撃隊全史』)
特攻隊にはそのやり方によって様々な種類があるのですが、この記事で取り上げる特攻隊は、皆様がおおよそイメージされるであろう、飛行機に爆弾を積んで敵艦隊に突入していく「神風特別攻撃隊」についての記事になります。
ではその神風特別攻撃隊についてどのようなアプローチで記事を書いていくのかと言えば、「戦時中のメディアは特攻隊をどのように報じたのか?」という視点からです。あまり他サイトさんが検証していないような視点から特攻隊について深入りしていこうと考えています。具体的に言うと、当時の新聞記事を紹介し、特攻隊についてどのように報じていたのか見ていきたいと思います。
今回の記事で取り上げるのは、1944年(昭和19年)11月27日付けの報知新聞です。この新聞記事は、10年以上前に入手をしていたのですが、戦後80周年の2025年にアップしようと考え、今まであえて出さずに寝かせていた資料です。
この新聞記事では、1944円秋に日本とアメリカの間で行われたフィリピンのレイテ島をめぐる攻防戦について報じられています。そして、この11月27日付けの新聞記事では、特攻隊の戦果について華々しく報じられています。その記事を解説を加えながらご紹介していきたいと思います。
※新聞記事の文章を私の方で中略したり現代仮名遣いに直していたり注釈を付けたり難しい語句を現代で常用する語句に置き換えたりしています。とにかく、文章全体の意味が変わらない程度に、読みやすい文章に修正しています。原文が読みたい方は各自拡大して読んでみてください。
※記事中に軍隊の階級がたくさん出てきます。
大ざっぱな図ではありますが、基本的に上に行けば行くほど階級が高いということになります。一般の職業に就いている男子が赤紙などで臨時に召集された場合、二等兵~上等兵の位になります。伍長から上が軍隊に就職している職業軍人と呼ばれる人たち。職業軍人の中でも、大卒だと少尉の位からスタート出来ます。
<目次>
- レイテ攻防戦についての説明
- 十機正に十艦船屠(ほふ)る…特攻八紘隊レイテ湾突撃
- 7名が学徒出身‥紅顔廿三(23)歳の田中隊長
- 大爆発の連鎖 忽ち消ゆ敵艦隊の巨姿
- 必勝を確信‥航空最高指揮官冨永中将表明
- 社説…八紘特攻隊の偉勲
- 陣影
- ありがとう!よくぞ学鷲諸君
- この将にこの部下…長官自ら神と讃ふ
- 軍人精神に育つ…八紘隊勇士の面影
- 終わりに…
レイテ攻防戦についての説明
まずは新聞記事で取り上げられているレイテ島をめぐる争いについて説明していきます。レイテ攻防戦とは、1944年10月にレイテ島をめぐって日米両軍が激突した戦いのことを指します。レイテ島はフィリピンの中部エリアにあります。
太平洋戦争開始前までフィリピンはアメリカが支配していました。戦争が始まると日本軍が侵攻し、フィリピンを占領します。日本軍の快進撃は続き、一時は東南アジア全域をほぼ手中に収めるほどでした。その後アメリカの反撃が始まり、1944年秋時点でフィリピン手前まで前線を押し返されていたのです。
アメリカにとってフィリピンは元々支配していた地ということもあり、どうしても奪還したい地でありました。そのフィリピン奪還のための足掛かりとしてアメリカが進撃したのがレイテ島だったのです。
もちろん日本にとってもフィリピンは死守したい土地でした。もしフィリピンが奪われれば、その後に沖縄、そして日本本土にアメリカ軍が侵攻してくるのが目に見えていたからです。レイテ島はそのフィリピンの重要な防衛の要だったのです。
すなわち、レイテ島攻防戦の結果がそのままその後の戦争の勝敗の行方を大きく左右することになるのです。もちろん、そのことは日米両軍共に分かっていたので、特に日本軍、もっと言えば日本海軍はこのレイテ島に残っている海軍戦力のほぼ全てを集結させました。
1944年10月20日、米軍は日本軍が守るレイテ島に上陸(上写真は上陸する米軍。レイテ島の戦い レイテ島の戦い - Wikipedia)、同時進行でレイテ島沖で日米両海軍が衝突します(レイテ沖海戦 レイテ沖海戦 - Wikipedia)。
結果は、島内の日本陸軍はほぼ全滅、ならびに日本海軍は壊滅的被害を受けます。特に海軍は、この戦いをもって組織的な戦争継続能力を完全に失う大打撃を受けました。太平洋戦争全体で見た時に、このレイテ攻防戦は日本の敗戦をほぼ決定づけた戦いとして位置づけられています。
余談ですが、関西のローカルテレビ、探偵ナイトスクープで神回と言われている回の1つに『レイテ島からの手紙』があります。レイテ島に出征して戦死した父親からの手紙を解読して欲しい、みたいな依頼です。
そしてこのレイテ攻防戦において、米軍の軍艦を攻撃するために初めて実戦投入されたのが神風特別攻撃隊、いわゆる特攻隊だったのです。
では次の章から実際に新聞記事を読んでいきましょう。
十機正に十艦船屠(ほふ)る…特攻八紘隊レイテ湾突撃
戦艦、大巡、大輸船八隻を撃沈す
戦艦(または大巡)輸船各一も大破
【大本営発表】(昭和19年11月29日14時)
我特別攻撃隊八紘飛行隊は十機をもって11月27日レイテ湾内の敵艦船に対し、果敢なる攻撃を敢行し次のごとく敵艦船十隻を撃沈破せり
轟撃沈 戦艦 1隻
大型巡洋艦 3隻
大型輸送船 4隻
大破炎上 戦艦又は大型巡洋艦 1隻
大型輸送船 1隻
攻撃に参加せる八紘飛行隊員は次の如し
隊長 陸軍中尉 田中秀志
陸軍少尉 細谷幸吉
同 藤井 信
同 森本秀郎
同 善家善四郎
同 竹内健一
同 寺田行二
同 白石國光
同 道場七郎
同 馬場駿吉
<解説>
まず、「大本営」の言葉の意味の説明ですけど、
"明治以降、戦時または事変の際に、天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関。明治26年(1893)に定められ、のち常設の機関となって太平洋戦争の終末まで存続した"
出典:大本営(ダイホンエイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
恐らくこの説明でだいたいは理解出来るとは思います。
続いて「大本営発表」を辞書で引くと
1 太平洋戦争中、大本営が国民に向けて発表した、戦況に関する情報。
2 転じて、政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報。
と出てきます。特に2の説明を読むと何となく察することが出来る様に、大本営発表ってワードには嘘とかデタラメ、ってニュアンスが含まれがちなんですよね。
では、この新聞に掲載されている大本営発表(11月27日付けの特攻隊の戦果)はどの程度信憑性があったのか?って話なんですが、
"八紘隊の第1隊となった八紘隊の一式戦闘機「隼」10機は11月27日にネグロス島を出撃、レイテ湾の連合軍輸送船団を攻撃して、戦果確認した護衛機より、戦艦1隻、巡洋艦4隻、輸送艦4隻を撃沈、戦艦もしくは巡洋艦1隻、大型輸送艦1隻大破の大戦果が報告された。陸軍特攻機が挙げた初めての大戦果に第4航空軍司令部は歓喜に包まれたが、これは今までと同様の過大戦果報告であった。
戦艦「コロラド」には1機の「隼」が突入し、3mの穴をあけて機体は甲板を貫通、艦内で爆弾が炸裂し約100名の死傷者が生じた。軽巡洋艦「セントルイス」も2機の「隼」が突入し砲塔と搭載されていた水上機を破壊して60名の死傷者が生じている。
特に軽巡洋艦「モントピリア」に対する攻撃は巧妙かつ執拗であり、一群で現れた特攻機は接近した1機に対空砲火が向けられると、他の機は散会して同時にあらゆる方向から突入してきた。「モントピリア」はこの巧みな攻撃を避けることができずに2機の隼が命中したが、いずれも爆弾が不発で深刻な損傷には至らなかった。"
とあり、事実として確認された戦果をまとめると
一部炎上 戦艦1隻
一部破損 軽巡洋艦2隻
といった感じでしょう。大本営発表では8隻沈没2隻破壊、と報じていましたが、実際はアメリカ軍の軍艦は11月27日の日本軍による攻撃では1隻も沈められていません。
となると、大本営は嘘と分かってて国民を騙すためにわざと虚偽の発表をしたのか、それとも本当に分かっていなかった(大戦果を信じていた)のか、どっちだったのか?って話になります。
どうやら少なくとも11月27日の戦果に関して言えば、大本営は本気で発表通りの大戦果を挙げたと思っていたらしいのです。というのも、その後の経過を見ると、アメリカ軍に大ダメージを与えたと思った日本軍は、一気にレイテ島のアメリカ軍を叩くために、フィリピンの首都マニラ防衛のために割いていた兵力をレイテ島へ急遽投入しだしたのです。
そして、実はほとんどダメージを受けていないアメリカ海軍によって次々に輸送船が沈められてしまうのです。
※レイテ攻防戦の前に起こった台湾沖航空戦において、大本営は戦果を大幅に誤認してしまっており、その間違った戦勝ムードも影響していると思われます。
「空母撃沈11隻、撃破8隻」と大ウソの大本営発表がなされたが…のちの「特攻」にもつながる「台湾沖航空戦」の大損害の実態(神立 尚紀) | マネー現代 | 講談社
「空母11隻撃沈」実は0 台湾沖航空戦から80年、誇大報告の教訓:朝日新聞
また、特攻隊にはそれぞれグループ名が付けられています。この記事では「八紘(はっこう)隊」という名前が付いており、他には大和隊、勇武隊、山桜隊などなどです。「八紘」とは全世界と言う意味があります。
戦時下において、「八紘一宇(はっこういちう=天皇を中心とした世界」というスローガンが流行しており、それを受けての名付であると考えられます。
7名が学徒出身‥紅顔廿三(23)歳の田中隊長
太平洋決戦の前哨戦として激化の一途を辿るレイテ島戦は、近代決戦の性格を遺憾なく露呈し、無限の消耗戦を敢行しているが、敵はあくまでも比島(現在のフィリピン島)奪取の足掛かりをレイテ島に獲得せんとして補給戦に全力を打ち込んでいる。
これに対しわが陸海軍特別攻撃隊(=特攻隊)の果敢なる猛襲はますます爆裂となり、大東亜戦(=太平洋戦争)の運命がかかるところ偉大な勲をその都度レイテ湾内に打ち立てているのである。
11月27日午前11時40分から十機をもってレイテ湾内の敵艦船に殺到したわが特別攻撃隊八紘隊は、全機命中10隻撃沈破の輝かしい偉勲を立てた。戦艦1隻を血祭りにあげて撃沈するや3隻の大型巡洋艦が高速で退避行動を起こした。
これを発見したわが特攻隊がそれぞれ1機をもってこれに突入していくのを(日本軍の)護衛戦闘機がみとめたが折り悪く雲中に入り、護衛機がその雲から外れてすでに3隻の大型巡洋艦も3機の特攻隊機も共に見当たらず、この大型巡洋艦3隻は当然撃沈の戦果のうちに数えられるべき性質のものであった。その他の戦果は大本営から発表された如く全機がことごとく敵艦隊に命中、火柱をあげたのである。
今回の特攻隊八紘飛行隊について特に感銘をもたらすものは出撃した十神鷲の7名までが学徒出身の若鷲であるということだ。若人の決意雄々しく送り出された学徒はその期待に背かなかった。また、隊長の田中中尉が弱冠23歳であるのを筆頭に、全隊員いずれ劣らぬ紅顔の青年であることも感慨が深い。
<解説>
学徒出身とは、1943年以降に実施された「学徒出陣」によって徴兵されたことを示しています。それまで徴兵を猶予されていた大学生や専門学生が徴兵され戦地へ送られるようになったのです。
当時に大学や専門学校への進学率は全体の5%以下であり、エリート中のエリートでした。高学歴であったので当初は基礎訓練を受けた後、幹部や指揮官候補として育成されていましたが、戦局が悪化するにつれて今記事のような特攻隊に動員されるケースも増えていったようです。
大爆発の連鎖 忽ち消ゆ敵艦隊の巨姿
【比島基地にて鈴木、南特派員29日発】
陸軍の特別攻撃隊第4陣としてレイテ湾に出撃した八紘飛行隊の輝く戦果こそは、まさに必中の特攻隊魂を持って挙げた不滅の殊勲である。この日〇〇基地(=軍事機密のため伏字)の護衛機に護られた生きて還らぬ猛鷲十機は、隊長田中秀志中尉機を先頭に、比島(フィリピン島)〇〇の最前線基地を雄踏発進、堂々の編隊を組んで一路レイテ上空へ。
『さらば』必中の若鷲は一機、一機と高度を下げ始めれば湾上の敵艦隊からは逆スコールのような対空砲火が大空一面に弾幕を張り始めた。特攻隊が任務を遂行するまではあくまで敵を蹴散らそうとする我が護衛機が必殺の意気物凄く敵機に迫る。天に達する黒煙が護衛機のはるか下方に上がった。
『やった!』敵艦隊に見事な体当たりを敢行。黒い巨体が一瞬の間に大爆発を起こして沈んでいく。ついでにあっちにもこっちにもガンガンと物凄い爆発音が起こり大型輸送船4隻がみるみるうちに黒煙を噴き上げて沈んでいく姿が見える。さらに大型輸送船1隻が動きもとれず炎上している。
特攻隊は思い通りの戦果を挙げたらしい。機上から黒煙に包まれる海上に瞑目合唱して護衛機は基地に還ったのである。
<解説>
かなり仰々しく勇ましい戦果報告が挙げられていますが、前述したように、11月27日の特攻作戦において沈められたアメリカ軍の軍艦は無かったとされています。記事の内容がかなり盛られている感があります。
必勝を確信‥航空最高指揮官冨永中将表明
比島前線〇〇基地にあって日夜陣頭指揮をとる空の最高指揮官冨永中将は29日午後、記者団と会見。皇国の興廃を賭する比島決戦に対し、次の如き烈烈たる決意を表明した。
わが忠勇なる神鷲は特攻攻撃をもって肉弾、愛機とともによく一機一艦を屠っている。この壮烈無比な戦場こそ比島作戦の深刻さを必然的に表したものである。この体当たりの前にはいかに物量を誇る敵といえども必ず撃破できる。一兵に至るまでこの精神が徹底しているのは頼もしい。兵は小銃は必要ないと極言していいほどレイテ戦線においては軽装に爆弾を抱いて血まみれになって戦車、砲兵陣地に突撃していくのだ。我が軍は食糧と爆薬さえあればよい。かつての"肉弾三勇士"の活躍は今では普通のこととなった。
※肉弾三勇士‥各自爆弾三勇士 - Wikipediaを参照。教科書にも掲載されており、当時の日本人で知らない人はいないレベル。
私は今次の戦闘が必ずや勝利に終わることを確信して疑わない。私は『まことに国を愛すれば智及ばざるはなし、まことに国を憂えば労至らざるなし』の一句を座右の銘としている。岩盤もよく爪をもって掘っているではないか。これでこそ敵がいかに攻撃してこようとも寄せ付けないのだ。この精神が凝り固まった秋には今の十倍、二十倍の戦果が挙げられるのだ。
<解説>
この航空最高指揮官であった冨永中将についてですが、あえて悪態をつくかたちで彼の評価を下すと
"特攻隊員の見送りにやって来ては「自分も最後の一機に乗って特攻する」と激励していたものの、結局特攻機に乗ることは無く、それどころか部下を置いてフィリピンを脱出し戦後まで生き延びた愚将"
って評価になります。彼はレイテ島の戦いを始めとするフィリピン攻防戦において積極的に特攻作戦を実施した人物であり、そのことから「若者の命を捨て駒にした」との評価が下されてしまっている現状があります。
↑ 出撃前の特攻隊員の見送りにやって来た冨永中将(一番左)
もっとも、冨永中将はアメリカ軍がレイテ島に上陸してくることをいち早く見抜いており(他の指揮官は上陸のギリギリまで見抜けていなかった)、彼が指揮する航空隊はアメリカ軍に対し兵力以上の打撃を与えていることは事実で、アメリカ軍司令官のマッカーサーも冨永が指揮する航空隊を評価しています。
これらのことを考えると、確かに歴史好き界隈の間では冨永中将に対する評価は著しく低いですが、ただちに愚将と断定するのは慎重になった方が良いかと思います。もっとも、繰り返しますが、彼が特攻作戦を推し進め若者を結果的に死に追いやったのは事実ではあります。
社説…八紘特攻隊の偉勲
わが八紘特攻隊はレイテ湾上に殺到し、必死の体当たりにより敵戦艦以下十機を一挙に葬る一大戦果を挙げた。敵レイテ島に上陸以来1か月、決戦の様相いよいよ激化し、わが陸海航空隊が一塊の肉弾となって連日必殺の猛攻を加え、これに呼応する地上部隊の果敢な健闘にもかかわらず、敵の兵力10万余りに達し、それへの補給と、空軍力の増強と、制空権の争奪とに息詰まる競り合いを演じているのである。
言うまでも無くレイテの戦場は、制空権と補給と決戦だ。彼我いずれがいち早く制空権を獲得し、この制空権下その補給路を遮断するかに勝負の行方がかけられている。
レイテ島の我が地上部隊は、新鋭部隊の増強とあいまって意気いよいよ軒昂(=けんこう。奮い立つ様子の意)、同島西岸においては随所に敵を圧迫し、包囲し、突破する等、我彼攻防の均衡しばらく破れて、戦況逐次我が方に有利に展開しつつあるとき、八紘特別攻撃隊の今回の戦果は、レイテ全般の戦局に至大の影響あるはもちろん、まさに動かんとする一大戦機の先駆を成すべきものとして、われら一億襟を正してその不滅の偉勲に感謝するものである。
<解説>
「制空権(せいくうけん)」とは、特定の空域において味方航空機の安全な活動を保障し、かつ敵の航空機を完全に排除出来ている状態を指します。制空権が維持できている状態だと、日本軍の物資や増員兵力をレイテ島へ運ぶ輸送船を航空部隊が護衛でき、上陸がしやすくなります。レイテ島を占領している日本軍に対しアメリカ軍が攻撃を仕掛けた戦いですから、レイテ島周辺の制空権をいつまで日本軍が保持できるかが勝負の行方を大きく左右することになります。
前述した冨永中将が率いる航空部隊が善戦し、少なくとも11月上旬までは日本軍が制空権を維持できていたのですが、日に日に航空機を消耗していき、11月中旬以降は輸送船の護衛を優先した結果、アメリカ軍への航空機攻撃が出来なくなりました。
その結果、態勢を立て直したアメリカ軍航空部隊が反撃。この新聞記事が発行された時期にはほとんどの制空権を失う結果となっていたのです(もちろん、そんなことは報道されませんけど)。
陣影
現在の朝日新聞「天声人語」のようなコラム記事
我が本土空襲の敵司令官ハンセルは去る24日の東京爆撃の後で『B29による攻撃はまだ実験的段階を出ない』と語った。さらに27日には海軍航空作戦部次長キャサティは『日本に対するただ1回の攻撃に艦載機(=軍艦に載せている航空機)に1500~2000機を作戦に参加させる日はそう遠いことでは無い』と演説している。
敵が何と言っていようとそれをいちいち気にする必要は無いが、とにかく彼らの言を待つまでもなく今後空襲が激化することは覚悟しなければならぬ。すなわち事態はますます『一大事とは今日ただ今のこと』になったのである。
しかるにすでに本欄でも指摘した如く世間にはまだまだこの事態に相応しくないことが相当に行われている。我々は今や戦争に直接必要のないものは一切捨てるべきであり、睡眠も言語も行歩も一切戦争に一途に集中すべきである。
今日まで日夜続けられてきた数々の行事も娯楽も講演もこの日に備えるために行われたものであり、事態ここに至れば全く用済みである。今こそ銃後の我々の居るべきところは職場か家庭であり、その他の所に居るべきはずはない。毎日のように行われている一切の行事を全廃せよ。警報下の気分に相応しくない放送演劇映画などは至急改変せよ。
<解説>
説明しなくても文章全体の意味は取れるかとは思いますが、まあ狂っています。すさまじく狂信的だと言えます。しかしながら国民に対し『娯楽をやめて戦争に集中せよ!』って訴えかけているのは政府や軍部ではなく、新聞社なんですよね。
後世の我々から見ると戦争は軍部が推し進めたように感じますが、むしろメディアや国民自身が戦争を煽った感もあったんですよね。現在の学校現場における平和教育や昭和史の授業の場において、この視点が大きく欠落しているように思えてなりません。
文章の解説ですが、11月24日に実施された東京への空襲は天候不順のため思った戦果を挙げられなかったようです。なお、ハンセル司令官の後に日本本土空襲の陣頭指揮を執ったのが、悪名高いカーチス・ルメイであり、彼の指揮下で1945年以降日本各地に無差別爆撃を行いました。
ありがとう!よくぞ学鷲諸君
レイテ湾内の敵を強襲して見事十艦船に命中、撃沈破した十神鷲のうち七隊員までが学徒出身の若桜であった。思えば昨年陸軍操縦見習い士官制度が新設されるや、青春の熱情を祖国の急に捧げて敢然大空に羽ばたいた学徒の郡は、踵を接して(=次から次へとの意味)続いた、あの熱情はいまや立派に結実、特攻八紘隊として偉勲を打ち立てたのである。
陸軍省の友森清晴大佐は早くから学徒の熱情を信じ『学生を大空に来たれ!』とラジオに新聞に演説を叫び続けてきた。この叫びに応えた学徒が八紘隊員としての殊勲に友森大佐の感激はひとしおである。『私は嬉し涙があふれてならぬ!』と瞼をうるませながら語る戦果発表の日の大佐。
立派だ、若き血の発進 あとに続くものに祈る
『私はいまこの部屋で富士山の写真を眺めながら静かに考えていたところだ。学鷲たちが基地を飛び立つとき、またレイテの敵艦隊に突っ込む壮絶な一瞬、二重橋(=皇居正門に架かる橋)と富士山の崇高な姿が脳裏に浮かびあがったのではないだろうか。私の信じた学徒の純情は今、霊峰富士の清さ美しさとして発揚されたのである。全日本学徒のため万丈の気を吐いたものと言える。
昔、学生に対して色んな非難の声がやかましかったころ、私は学生が悪いのではなく指導者こそが非難されるべきだ信じていた。私は自分の感情で学生が好きなのだ、あの純情が正しい祖国への熱情として目覚めるとき、必ずや救国の勇猛心となって実現されることを疑わなかった。
特攻の発表を聞いて思い出すのは、昨年(1943年)11月に後楽園で行われた学徒の進軍大会である。次々と起こった学徒代表の熱血ほとばしる"大空への誓い"に続いて、当時まだ軍人ならぬ学徒が操縦する練習機が頭上に爆音をとどろかせた。あの大歓声のなかにあって私はとめどなく感涙を流したものだ。
<解説>
1943年11月に実施された学徒出陣の進軍大会(出陣式のようなもの)を調べたんですが、恐らく11月17日に東京の後楽園球場で実施された日本大学の学徒出陣式ではないかと推測されます。
出典:ファイル:日本大学学徒出陣式.jpg - Wikipedia
<記事の続き>
あのときの学徒が、八紘隊員の中にいるかもしれない、何という大きな成長だろう。たくましい発進であろう。はっきり言えば私は今日の日を待ち続けていた。紅顔のあの若人たちを喪った(=うしなう。死別するの意)ことを惜しいとは考えない。ありがたい、学徒は立派だったと考えるのだ。
私はあとに続く学徒諸君に伝えたい。今学窓に学び、工場に働く諸君はレイテに不滅の手柄を立てた神鷲と同じ若き血の所有者である。小癪にも我が神国を侵さんとする米空軍の中心は、やはり米学徒出身者なのだ。彼らを撃とう、神国学徒の誇りを大空に生かし、敵学徒機を殲滅して先輩に続こう。
あの戦果の発表を聞いて私は自分の子供がやってくれたような思いで先ほどから涙にくれていたのである。及ばずながらあとの面倒も見させてもらいたい。ただ三千年の歴史のために、親愛なる学徒諸君の熱血に私は涙をもって祈るのである。
<解説>
まあ、この文章を読んで皆さんがどう思っているのかよく分かります。恐らく私と同じでしょう。あまりに無責任と言うか、若者の死で自己陶酔してるっていうか‥タイピングしてても憤りを感じてきます。
「あのときの学徒が、八紘隊員の中にいるかもしれない」と述べていますが、仮に友森大佐が見学した出陣式が日大のものだとしたら、八紘隊員の中に日大出身者がいます(細谷幸吉少尉)。寄稿する前にそのへんの事はよく調べてから寄稿して欲しいところです。
ちなみにこの文書を寄稿した友森清晴大佐のその後ですが、終戦直前には主に九州地区の防衛を担当した第16方面軍(第16方面軍 (日本軍) - Wikipedia)の参謀副長官の任についていました。
1945年8月10日、墜落した米軍機B29の搭乗員8名が福岡県の油山にて処刑されましたが、その処刑の責任者が友森大佐でした。無抵抗の捕虜を処刑したことが戦後問題視され、友森大佐はBC級戦犯として裁かれました(出典:POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 | 横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件)
この将にこの部下…長官自ら神と讃ふ
豊田連合艦隊司令官長が神風特攻隊にあてた一通の書簡が出撃の送別式場で福留中将(当時のフィリピン方面海軍航空部隊指揮官)より披露された。
「神風特別攻撃隊のその壮烈極まりなき奮戦については感激感謝表すに言葉なく…」書簡は冒頭にこう書かれている。書簡には神風特別攻撃隊に対して「諸神は」という呼びかけがあった。
「諸神は…」福留中将は書簡を朗読しつつ、ここに至ってはしばし言葉も無く、やがつ朗読の目を離して静かに『神という文字が使われている』と説明して、再び朗読を続けた。
ああ、連合艦隊司令長官は部下に対して「神」と呼んでいる。深い感動の色が居並ぶ特攻隊勇士の面に流れた。
「いまどきの若いものなどと言うまじきことと深く教えられ申候」と、真珠湾強襲の特別攻撃隊勇士について当時の連合艦隊司令長官の山口五十六元帥は知己(ちき。親しい人の意)宛の書簡に感懐を寄せていた。
今また豊田司令長官が部下に対して「神」と呼びかけた心中を察すれば、この将にしてこの部下あり、我が海軍将士の神ながらの姿をここに仰ぎ見る心地がする。
<解説>
「今どきの若いものは~」ってフレーズ、この時代も使われていたことが分かります。今生きていれば100歳前後になるような方々だって若いころはこのフレーズを大人から言われていたんですよね。
連合艦隊総司令長官とは、事実上の日本海軍トップの役職でした。過去の有名な司令長官には、東郷平八郎や山本五十六が歴任しています。レイテ島決戦時点での司令長官は豊田副武(とよたそえむ)大将でした。
彼が連合艦隊司令長官として指揮をしたレイテ攻防戦において、連合艦隊は事実上の壊滅状態に陥ったわけですから、プラスの評価を与えることが難しい人物ではあります。もちろん、1944年秋時点ではもはや誰が司令長官になったとしても戦局は厳しかったでしょうけどね。
軍人精神に育つ…八紘隊勇士の面影
ここでは特攻隊員の家族からのコメントが掲載されています。
隊長田中秀志中尉の両親のコメント
「明治44年、民国革命の当時(=中国で起こった辛亥革命のこと。清が倒れ中華民国が起こった)、わしは海軍三等機兵曹として揚子江を航行中、いくたびとなく米英の軍艦が我が艦に対し傲慢な行為を繰り返した。そのころからわしは将来の敵は必ず米英だと肝に銘じて居りました。その後、米屋を始めてからも秀志たちの教育は軍人精神でやってきました」
と、父奥太郎さん(57歳)は自宅で八紘隊隊員のい幼い日の面影を語る。昭和15年、予科士官学校に入校、卒業後前線に配属された。秀志中尉が陸士卒業記念アルバムに大書した「信念」の文字を見やりながら母とりさん(48歳)は語る
「あの子は最後の便りの中に"お母さん、私の名前が新聞に出るようなことがあるかもしれませんが、その時は私が戦死した時です"とありましたが…。あの子の幼い時からの信念を五男の資郎(14歳)に継がせるために少年飛行兵を志願させます」
森本秀郎少尉の父親のコメント
父大佐は満悦
森本秀郎少尉の父、秀一陸軍大佐は語る。「よくやってくれた。親としてこのワシが倅に頭が下がる。あれは小さいころから(いう事を)聞かない子で喧嘩が好きでこのワシを困らせたものだ。ついこの間、持ち物を全部送って来た。覚悟はすでに出来ていたものと思う」。
畑谷幸吉少尉の伯母のコメント
少尉が日大専門部商科(夜間部)に在籍中、世話になった少尉の伯母に当たる八重さん(38歳)は「幸ちゃんがそんなえらいことをしてくれたのですか。ありがたいことです」と次のように語った。
「今すぐに思い出すのは今度の戦争は若い者が大空に命を捧げねば勝てない、僕たちは空へ征くのだといつも言っていたあの子の言葉です。両親は山形県で建築業をしています。幸ちゃんは5人兄弟の4番目で、昼は商工省に勤め、夜は日大に通学、野球が得意で郷里の山形市立商業時代から選手でした。とても親思いで郷里の両親にはよく便りを出し、賞与には少しも手をつけず母に送っていました。2,3か月前、主人が応召(徴兵されること)したことを知らせますとすぐ返事があり"おじさんのような歳の人まで戦うのだから僕たち若い者は十倍も二十倍も頑張らねば…"と書いてよこしましたが、それが最後の便りとなりました」
<解説>
叔母さんのコメントはともかく、田中&森本隊員の両親のコメントは「息子が特攻隊員として玉砕したことは誇らしいことだ」的なニュアンスで出されています。子を持つ親の立場になったことがある方は容易に想像できるとは思いますが、これらのコメントはあくまでメディア向けのコメントであり、本音は相当な悲しみに暮れていたのではないかと想像しています。
"特攻隊員、荒木幸雄伍長=当時(17)=の母、ツマさんのもとに、荒木伍長から最後の手紙と遺髪が届いたのは20年5月末のことだった。「母は、遺髪を抱いて弟の名前を呼び、泣き叫んだ。父は体を震わせて一言もしゃべらなかった」兄の精一さん(88)は、母が涙をあふれさせて「ユキは突っ込むとき、どんな気持ちだったんだろう」と独り言を口にする姿を何度も目にした"
出典:【戦後70年】特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」(3/3ページ) - 産経ニュース
わざわざ引用してこなくても、息子が戦死した悲しみは想像を絶するものがあるのは理解に難くありません。ただ、メディアが特攻隊員のことを「軍神」などと讃えたこともあって、特攻隊員の母親なども例えば「軍神の母」などともてはやされたりもしました。特攻隊員の生家を近所の子供が通る際などに一礼して通り過ぎた、といった話もあります。そのような状況下では、息子を失った悲しみを周囲に漏らすことは出来なかったのでしょう。
これが戦争が終わるとどうなったかと言えば
"次男が特攻隊員だった岩井家に対する周囲の目が敗戦で一変した。「戦時中は軍神とたたえられたが、戦後、私も復員した兵隊に『特攻隊に行くような者はクソダワケ』と言われた。一番ばかにした言葉だ。その時は私も、兄貴は犬死にだったかなって思った」"
出典:【戦後70年】特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」(3/3ページ) - 産経ニュース
"クソダワケ"は、たわけ者のさらに強い表現であり、大馬鹿者、といったニュアンスでしょうか。戦時中に神と讃えられたその反動は世の中が平和になった途端、大きな反動となって残された家族を襲ったのです。
終わりに…
戦後のメディアの終戦記念日特集や学校現場における平和学習や近代教育を見ていると、あの戦争は政府や軍部の暴走によって引き起こされた過ちであった、とする論調を感じずにはいられません。
もちろん、その側面も正しいと言えば正しいのですが、この記事を通して皆様も実感できたように、戦争を煽り続けたマスメディアの責任、そして戦争に一時は熱狂して後押しした国民の姿を無視していては、正しい歴史認識は見えてこないのではないでしょうか。
そして、この事は戦争に限った話ではなく、様々な場面においてマスメディアの煽りや世論誘導、偏向的な報道は現在でも散見されます。
例えばSNS上を軽く流し読みした程度でも、右派や左派関係無く必要以上に扇動的な投稿が見受けられます。戦前の新聞社が購買数を高めるために先鋭的になっていったことと、PV数を稼ぎたいがためにネットメディアや個人が過激な内容を投稿しているのは、時代は違いますが本質は一緒だと思うのです。
私が思っている事なんですが、戦後の日本は戦前とは逆でちょっとしたことですぐに"日本が戦争できる国に変えようとしている!"などと過剰に反応しているメディアが存在しているように思えるんですよね。自衛隊が防衛力を強化する動きを見せた途端に、"軍靴の音が…"などと扇動したりしますよね。例えば、自衛隊がいきなり核保有を強行したり、北方領土に武力侵攻したりすれば、それは待ったがかかるのは当然だと思うんですが、通常の防衛力さえ否定するのはそれはそれで狂気だと思うのです。
戦前は軍隊を必要以上に賛美し戦争を煽った反動で、戦後は必要以上に軍事力を叩き悪と中傷する……ベクトルの向きは真逆ですが、どちらの向きも意見が先鋭化すればするほどその思想が狂信的になっていくことは、想像に難くありません。その危険性を十分に認識したうえで、私たちは今後もメディアと付き合っていく必要があるのです。
過去の戦争に関する記事はこちら