日常にツベルクリン注射を‥

現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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【時には昔の雑誌を‥】1945年2月7日発行『アサヒグラフ』

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【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回は1945年2月7日発行『アサヒグラフ』をご紹介していきます。

 

 

前回の当シリーズ(1992年1月号『中一コース』)はこちら

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『アサヒグラフ』という雑誌は、当ブログご愛読の方にとっては定番の雑誌かと思います。朝日新聞社が大正時代から2000年まで発行した写真報道雑誌です。今回はその『アサヒグラフ』の1945年2月7日号のご紹介です。

 

1945年2月は、終戦の半年前であり日本が瀕死の状態のころだと容易に想像できます。3月には東京大空襲、4月に沖縄戦、終戦まで日本各地が空襲にさらされ、8月に終戦。そんな時代の雑誌です。当時の日本の状況が分かる資料ですから、まあ読んで行きましょう。

 

 

<目次>

 

 

表紙ページ

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今まで紹介してきた『アサヒグラフ』はページ数も豊富であったので"前編""後編"と分けてきましたが、この45年2月号は16ページしかありません。しかも、今までは表紙ページはカラー刷りだったのに、もうその余力が無いのか、全編白黒です。

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同じ朝日新聞社が発行した1939年の『週刊朝日』はカラー刷りです。6年後にはカラー刷りする余力が無いのか、白黒です。これだけでもう日本に戦争継続の余力が無いことが分かります。

 

表紙ページの上の写真は、45年1月に起こった東京の空襲においてバケツリレーをする都民、下は疎開している幼児の写真です。

 

写真中の文章を引用します。

「新任の米第21爆撃隊司令ルメイ将軍は、かつて対独(ドイツ)爆撃に用いた非道な都市無差別大爆撃を、わが本土に向かって行った。去る1月27日の帝都(東京のこと)爆撃はまさにルメーの挑戦だ。彼の爆撃は今後一層熾烈化するだろう。(後略)」

 

ルメイ将軍はこちらです。

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出典:カーチス・ルメイ - Wikipedia

 

彼がどんな人物か、簡単に表現すると"日本を空襲しまくった軍人"です。それまでのアメリカ軍の日本への空襲は軍事施設を狙った、言い方が悪いですが"戦争に勝つための攻撃"の範囲内でした。ところが、このルメイはとにかく日本人を殺しまくる無差別空襲をしかけた人物です。1945年の空襲は、彼が仕掛けたと言っても過言ではありません。

 

しかしながら、"帝都爆撃はまさにルメーの挑戦だ"と「挑戦」としているところに、あくまで弱いアメリカが強い日本に立ち向かうみたいなスタンスをこの時点でも崩していないことが伺えます。

 

 

満を持す防空隊

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アメリカ軍の空襲に対して、日本軍はどう対応したんでしょうか?それにまつわる記事です。記事中の文章を引用します。

 

「アメリカが中国奥地からB29をもって九州を初空襲したのは昨年(1944年)6月16日であった。10月末、マリアナ基地の完成とともに、敵はわが本土に本格的な空襲を試み、帝都(東京のこと)はじめ各地に侵入、侵入した敵機は約1400機を超えている」

 

B29とは、当時のアメリカ軍の最新鋭の爆撃機です。

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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/B-29_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

 

続きの文章を引用します。

「わが制空部隊は水も漏らさぬ鉄壁の防衛を布いている。(中略)本土に近接する敵機を、わが監視部隊は見事に捕捉するのだ。」

 

つまり、"アメリカ軍がB29使って空襲に来るけど、こっちも万全の態勢しいているから大丈夫やで!"と言いたいのです。実際のところ、当時の日本がアメリカ軍の空襲に対して何の対策もしてなかったというわけでなく、それなりに抵抗はしていたようです。抵抗のやり方としては「地上からの高射砲撃(航空機を撃墜する大砲)で敵機を撃墜する」「戦闘機で攻撃する」の2つでした。

 

見出し下の写真において、光を照らして敵機を見つけ出しているところが掲載されています。そして、威勢よく高射砲をB29に対して撃ちまくるのですが、B29は高性能で高度1万m以上上空を飛行できるので、まあ弾は届きません。

 

一方、戦闘機で攻撃する方法については、当時の日本軍は高高度を飛行するB29を迎撃するため、最新鋭の迎撃機「紫電改(しでんかい)」を開発していました。

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出典:第三四三海軍航空隊 - Wikipedia

この飛行機自体は優秀で、B29を数多く撃墜する戦果を挙げることが出来ました。問題は、45年の日本にはもう飛行機を飛ばす燃料がほとんどなく、この紫電改を飛ばすことが出来ないという"宝の持ち腐れ状態"だったということです。


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左側の上の写真は、防空隊の情報室。ここで、敵機の監視や情報伝達を行っていたんですね。下の写真は、紫電改かどうか分かりませんが迎撃機の写真です。給油していますが、ガソリン自体が不足しているのです。

 

つまり、当時の日本は「B29が襲来してくるのは分かるし、撃墜したいけど、もうその余力が無いし、ってか高射砲届かないし(´・ω・`)」状態だったといえます。

 

もっとも、先ほど紹介したルメイ将軍は、日本の都市を焼き尽くすために、あえてB29を低空飛行させ攻撃するように指示したので、日本の貧弱な高射砲でも届くようになった、という皮肉な事実もあります。

 

 

見敵必墜の特攻隊


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「特攻隊」とは、"特別神風攻撃隊"の略であり、爆弾を抱えた戦闘機に搭乗し、敵の戦艦に戦闘機ごと突っ込んで攻撃をする部隊のことをいいます。もちろん、必ず搭乗員は死ぬ作戦です。記事中の文章を引用しましょう。

 

「わが制空部隊の目覚ましい殊勲は、まさに世界戦史にその比を見ない。すでにB29の撃墜数は500機を超えている。これらはいずれも確認の上、発表されたもののみであるが、現実に敵の受けた損害は、さらに(この数字を)上回っていることは言うまでもない。」

 

「日頃の訓練に磨き上げた技術と、火のような闘志を持って、全機特攻機となって、巨大な敵機にぶつかっていったのである。不落不墜を誇ったB29は、こうして来襲の都度、痛烈、無残な打撃を被っているのである。」

 

 

 

この記事では、B29に戦闘機で体当たりすると書かれていますが、特攻隊の"敵"は、B29というより戦艦でした。

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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/神風特別攻撃隊

この特攻隊攻撃によって、日本の若き搭乗員およそ4000名が命を落としたとされています。


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出撃前の隊員たちです。攻撃にあたっての最終確認でしょうか。推測するに、死ぬ2~3時間前の光景です。

 

出撃当日、最終の攻撃方法の確認をした後、上官との"別れの杯"をかわします。

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出典:https://jaa2100.org/entry/detail/033207.html

 

 

 

ちなみに、ツベルクリンは特攻隊員が使用した杯を持っています

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"海軍"の文字が見えます。当時の特攻隊の基地として「鹿児島県、知覧の陸軍航空隊基地」「鹿児島県、鹿屋(かのや)の海軍航空隊基地」がありました。知覧のほうが有名ですが、海軍も特攻隊の基地を持っていたのです。おそらく、その鹿屋で使用されていた杯です。

 

現在、鹿児島県の知覧に「知覧特攻平和会館」という資料館があります。

知覧特攻平和会館

ぜひ一度お越しください。日本で一番、胸が痛くなる資料館だと思います。

 

 

幼児の集団疎開

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「疎開(そかい)」とは、都市部に住む児童たちを半強制的に田舎に避難させることです。当時は都市部の空襲が激しくなってきた時期だったので、言い方悪いですが、足手まといになりそうな子どもたちを田舎に疎開させていたのです。

 

田舎に親戚がいる家庭は、親戚の家に、居ない家庭は学校や保育所ごとに固まってお寺なんかに預けられました。記事では、満3歳〜6歳児対象の幼児疎開を特集しています。記事中の文章を引用していきます。

 

「ここは大日本母子愛育会の"疎開保育所" です。妙楽寺というお寺に可愛い幼児達40人が、保母、保健師、栄養士8人と一緒に元気に疎開生活を送っています。」

「保育所では、両親が働きに出ている家庭の幼児約100名を預かっていましたが、両親に安心して働いてもらうには、保育所全体で疎開するのが一番と決め、(中略)幼児の両親や村の人々の理解や協力もあり、村長を会長とする疎開援護会も出来ました。」

 

とのことです。


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 疎開してきたのは東京にあった「愛育隣保館」と「戸越保育園」の2つの園児たちでした。小学生の"学童疎開"は教科書にも載っていますが、幼児の疎開は非常に珍しい実践だったようです。

 

というのも、親の意見としては「幼いわが子を自分の手から離したくない」という思いがありなかなか疎開が進まなかったのです。それでも、保母さんを信頼して幼子を預けた、という背景があるのです。

 

この話題は、実はたまたまタイムリーな話題で、この幼児疎開を題材にした映画が今年公開されました。

www.anohi-organ.com

 

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出典: https://movie.jorudan.co.jp/cinema/35220/

『あの日のオルガン』という映画です。主演は戸田恵梨香さんと大原櫻子さん。まさに、当ブログで今回紹介した幼児疎開を題材にした映画です。まあ映画を見てもらうほうが理解しやすいと思いますので、ぜひご覧ください(*'▽')

 

 

終わりに‥

こういう当時の貴重な資料を平成生まれの私が所有していることは、次世代に戦争体験を語り継いでいくうえでとても大きなことだと思いますので、当ブログを通して少しでもその役目を果たせていければと思っています。

 

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