日本人だけではないとは思いますが、人間は標語(スローガン)がお好きなようです。コロナ禍の現在においても「ステイホーム」「3密」など、簡潔で分かりやすい標語がもてはやされたりします。
今回は、日本国内における戦前&戦時下の標語(スローガン)をいくつかまとめてみました。国民を戦争に導くために、官民一体となって様々な標語が作られたのです。
誰でも知っているであろう代表的な戦時下における標語の1つが『欲しがりません 勝つまでは』でしょうね。そのような標語をいくつかご紹介していきます。
戦前&戦時下の標語まとめ
『欲しがりません、勝つまでは』
出典:1942年「国民決意の標語」入選作品
戦時下の標語としてはおそらく最も有名なもの。この作品は1942年に一般公募された国民決意の標語 - Wikipediaという企画の入選作品の1つです。作者は小学5年生の三宅阿幾子さんでした。
後に本人の回想によると、実はこの標語は阿幾子さんのお父さんが考えたものだったそうです。それを娘の作品として応募したと言うのが真相のようです。ただ、語感の良さから標語は世間に浸透し、父親の作品だということを言い出せなくなってしまったようです(真相を公表したのは1977年になってからです)
『子だくさんもご奉公』
出典:1939年 文芸春秋社
子どもをたくさん産んで、男は兵隊に、女は国内産業を支える働き手としてお国に奉公せよとの標語です。
『笑顔で受け取る召集令』
出典:1939年 北海タイムス
召集令とはいわゆる「赤紙」のことを指します。赤紙が届けば、否応なく兵隊へ召集されました。自分の息子や夫に赤紙が来た時の悲壮感たるや想像がつきません。でも、喜ばしいこととして"笑顔"で受け取れ、とは何とも心苦しいです。
『己のことは後回し』
出典:1939年 文芸春秋社
『飾る体に汚れる心』
出典:1940年 中央標語研究会
戦時色が強まるにつれ、おしゃれな装飾品が規制されるようになりました。洋服なんて着て宝石など身に着けていたら『この非国民め!』と罵られる時代がやって来ていたのです。
『ぜいたくは敵だ』
出典:1940年 国民精神総動員中央連盟本部
前述した『飾る体に汚れる心』という標語と方向性は同じです。
『待て一歩 国に捧げた 身を守れ』
出典:1940年 神戸市電気局
これ、何の標語かと言うと交通安全の標語なんですよ。『交通事故で死ぬくらいなら国のために戦って死ね』って言ってるんですね。
『立派な戦死と笑顔の老母』
出典:1940年 名古屋市銃後報公会
自分の息子が戦死して、それを『お国のためによくやった!』と笑顔で迎える親がどこにいるんだよ。
『何のこれしき戦地を思え』
出典:1940年 名古屋市銃後報公会
当時、「銃後」という言葉がありました。戦地へは行かない人々を指し、日本国内でご奉公に努め兵隊を支えることを課せられました。
主に女性たちを兵器づくりなどの強制労働に動員させましたが、その女性たちに向けた標語であると言えます。もっとも、戦時下に女性を勤労動員させるのは、戦争に勝利したアメリカやヨーロッパ諸国でも行われたことではありますけどね。
『強く育てよ召される子ども』
出典:1941年 日本カレンダー株式会社
召される、とは当然軍隊に召されることを指します。将来優秀な兵隊としてお国に子供を差し出せ、ってことですね。
『働いて堪えて笑ってご奉公』
出典:1941年 標語報国社
『節米は毎日出来るご奉公』
出典:1941年 神奈川県の標語
まだそこまで食の洋風化が進んでいなかった昭和初期は、有り余るほどの米の生産能力があり、食糧不足に陥ることは無かったのです。ところが、戦争で男手が取られた結果、農家でも人手不足が起こり、農作業に支障が出るようになってしまったのです。
そのため、節米が呼びかけられ、代用食として「すいとん」がもてはやされました。もっとも、戦時下のすいとんは、上の写真のような美味しそうな料理では無かったようです。
『古釘も生まれ変われば陸奥長門」
出典:1941年 日本カレンダー株式会社
"陸奥長門"とは、旧日本軍が所有していた戦艦のことです。兵器を作る金属が不足していた日本は、一般家庭に存在している鍋などの金属を回収したのです。お寺の鐘や学校の二宮金次郎の銅像が供出されたのも戦時下の話です。
『ちょっと一杯 いや待て債権』
出典:1941年 国策債権情報社
ここでいう債権とは国債を指します。軍事費が欲しかった日本は、一般庶民の貯金に目を付けます。国債を買わせて軍事費の足しにしたかったようです。お酒飲むならその金で国債を買ってね、ってことです。同じことをアメリカもやっているので、戦時下に国債購入を奨励するのは万国共通のようです。
『汗の化粧で健康美』
出典:1941年 日本カレンダー株式会社
おしゃれをすれば非国民と罵られた戦時下ではお化粧もまともに出来なかったんだろうな。
『まだまだ足りない辛抱努力』
出典:1941年 日本カレンダー株式会社
『任務は重く 命は軽く』
出典:1941年 中央標語研究会
いくら時代だとは言え「命は軽く」って標語にしちゃうところがこの時代の異様さよ。
『一億が みな砲台と なる覚悟』
出典:1942年 中央標語研究会
五七五調の標語。なお、当時(1940年くらい)の日本の人口は7000万人だったんですけど、日本の統治下にあった朝鮮半島や台湾の人口も足しているので、戦時下の標語には「一億」って単語が頻出します。
『働かぬ手に箸持つな』
出典:1942年 中央標語研究会
働かぬもの食うべからず、ってことですね。まあこれは現代の価値観でも相違は無さそうな気もします。
『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』
出典:1942年 国民決意の標語入選作品
「欲しがりません勝つまでは」と同じく、国民決意の標語 - Wikipediaにおいて応募され入選した作品の1つです
『デマはつきもの みな聞き流せ』
出典:1942年 中央標語研究会
戦時下や災害時などの非常時になると流言(デマ)が飛び交うのはいつの時代も一緒ですね。
『生産・増産・勝利の決算』
出典:1942年 東京奨工新聞社
韻を踏むと標語っぽくなります。
『2人して 5人育てて 1人前』
出典:1942年 日本カレンダー株式会社
人口の多さ=国の強さ、という考えがありましたから、とにかく子供をたくさん産むことが奨励されました。なかなか子供が出来ない女性は周囲から白い目で見られただろうなと考えると胸が痛いです。もっとも、夫が兵隊へ取られてしまうと子作りが出来ないので、出生率が大幅に増えたのは戦後のことでした(第一次ベビーブームが45~47年)。
『米英を消して明るい世界地図』
出典:1942年 大政翼賛会神戸市支部
まあ世界地図から消えたのはアメリカイギリスではなくて、大日本帝国なんですけどね。
『嬉しいな 僕の貯金が 弾になる』
出典:1943年 大日本婦人会
当時は、「だんがんきって」なる子供を対象とした国債のようなものも発行されていました。子供のお小遣いさえも目当てにしてたんですね。
『アメリカ人をぶち殺せ!』
出典:1943年 『主婦ノ友』
これはもう標語っていうより狂気に満ちた願望ですわ。
終わりに…
現在の価値観で当時の標語を読むと、あまりにも狂気に満ちていて不謹慎ながら笑ってしまうものもあります。標語をお経のように唱えて、標語の通りに行動すれば戦争に勝てると信じていたのでしょう(戦争末期は懐疑的な人も増えてきたんでしょうけど)。では、現代人は当時の政府や日本人を笑う資格はあるのでしょうか?
戦争の反省から、戦後は一転して平和が尊ばれるようになりました。もちろん、世界から戦争が無くなり平和になることは望まれるべきことです。では「戦争反対!」「憲法9条を守ろう!」とスローガンをひたすら唱えるだけでいいんでしょうかね。方向性は真逆ですけど、スローガンを唱えてさえいれば平和になるって考えている人たちと、戦時下の「欲しがりません勝つまでは!」って唱えていた人たちとでは何が違うんでしょう?
戦争を無くすためには『なぜ戦争が起こるのか?』といった戦争が起こるメカニズムを論理的に考えていく必要があると思います。『交通事故を無くそう!』ってスローガンだけ掲げても事故は減らないのと同じです。事故の原因を探ることが事故を減らす手助けになるんじゃないでしょうか?戦争だって同じだと思うのです。
標語やスローガンを唱えるだけ唱えて論理的に原因究明をしない現代日本人に、当時の狂気に満ちた標語を笑う資格など無いのです。