【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら読んでいくシリーズ記事です。今日は、昨日に引き続き2夜連続特別記事『アサヒグラフ 二二六事件臨時増刊号』その後編をお届けします。
トップ画像は、二二六事件当時の首相であり襲撃された岡田啓介首相です。岡田首相は奇跡的に生き残りました。その詳細も後ほどお話しますね。
昨日2月26日分の記事(前半部分)はこちら。
二二六事件とは、1936年2月26日から2月29日(この年はうるう年)にかけて起こった陸軍のクーデター未遂事件のことをいいます。一部の若い軍人が首相や大臣を襲撃し、東京の中枢を4日に渡って占領した事件です。
前編では、占領された東京の様子や、反乱軍が宿舎として占領した山王ホテルの様子をご紹介いたしました。後編では、同じく占領された料亭幸楽の様子や、反乱が終結に向かっていく様子を『アサヒグラフ』の掲載写真とともにご紹介していきます。
<目次>
占領された料亭幸楽
反乱軍は自分たちが泊まる用に山王ホテルを占領しましたが、ご飯を食べる用に"料亭幸楽"を占領しました。雑誌欄外に「料亭幸楽の大騒動」というコラムがあり当時の料亭内の様子が伺えますので引用します。
「26日の朝10時ごろだった。永田町の料亭幸楽の玄関へ一台の自動車が横付けされた。中からただならぬ顔色をした将校が現れ、大量の弁当と酒を大至急用意してもらいたいといって引き上げた」
「朝っぱらからこんな大量の注文が飛び込んだので、幸楽では100人の女中と80人の男衆を総動員して弁当を準備し、午後2時と4時の2回に渡って、大型トラックに満載し、指定された場所へ届けた」
つまり、最初は反乱軍とは気づかずに普通に弁当を準備して届けたっぽいです。続きを読んでいきます。
「この時までは幸楽では、何が何やら少しも分からず、ただ市内で軍事演習があると思っていたのであるが、27日になってラジオで初めて真相が分かり、大事件の渦中にあることを知って愕然とした。」
「その夜7時過ぎ、数百人からなる部隊が続々と乗り込み(中略)裏門を閉ざして厳重な警戒を始めた。また、一部では入浴する者、手紙を書く者などがあったが28日の午前1時ころになって、警備につく者以外は、大広間に一団となって眠りについた。」
大広間がこちらです
「不用意のところにこうも大人数の兵隊が押し掛けたので、幸楽では食料品の買い出しにはずいぶん人知れぬ苦労をしたものであった。ちょうどこの忙しい最中に、支那人(中国人)コック10名がどさくさに紛れて荷物をまとめて行方不明になってしまったのは、人手が少しでも欲しい時だったのでこのドロンには全く困り果てたという」
今となっては死語ですが、飲み会などで途中で帰るときに人差し指を立てる忍者のポーズをして『では私はドロンしますんでww』と言っている時代がありました(いなくなるの意味。たぶん今のアラフィフ世代はいまだに使っていると思われます)。この"ドロンする"ってこの時代から使われていたんですね(´・ω・`)
「午後3時ごろ、玄関前の広場に大量の日本酒の用意が出来るや、一同はそれに群がり、放歌乱舞を始め、一時は大変な騒ぎとなったが、夕方6時ころになると、どこへ行ったのか、大部分の部隊は引き上げていった。」
「その夜、12時近く、今度は背広姿の者数人が現れ"新議事堂にいる者は食事をしていないから〇〇〇人分の弁当を大至急届けてくれ"と言ってポケットから80円を取り出したが"とても今からは応じかねる"と断ると、その中の1人が20円を持って外に出ていったが、まもなく米俵3俵を担ぎ込んで来たので、やむをえずこれを引き受け、またまた大車輪で弁当を準備し、新議事堂へ届けさせた。」
新議事堂とは、現在の国会議事堂です。現在の国会議事堂は1936年11月に完成しました。完成直前の国会議事堂を反乱部隊は占領していたのです。
「夜が明けると(29日早朝)、門前に設置されたスピーカーからあの"兵に告ぐ"の放送が聞こえだしたが、その頃には、大部分の将兵は引き上げた後で、料亭の者は初めてホッとして片づけを済ませた」
この料亭幸楽は、1945年(昭和20年)の東京大空襲において、アメリカ軍爆撃機B29が墜落しちゃって炎上しちゃいました。跡地に建てられたのが"ホテルニュージャパン"という大きなホテルです。高級ホテルとして名が知れていました。なお‥
反乱の終結
事件の対応について、政府内ではなかなか意見が一致しませんでした。反乱軍を鎮圧するにも、東京のド真ん中で銃撃戦は危険ですし、反乱軍の心情を理解する政府関係者もいました。
それを打開したのが、昭和天皇の"鶴の一声"です。昭和天皇は反乱に対して激怒し『自分が直接軍隊を率いて鎮圧してやるで!!』とさえ言いました。これを機に、反乱鎮圧へ政府内の意見が一致。29日の朝、反乱軍へ投降を呼びかけるラジオ放送を実施します。もし、投降勧告に応じない場合は武力鎮圧も辞さない構えでした。
反乱軍が投降に応じない場合、銃撃戦の可能性も生じるので、29日早朝近隣住民を避難させます。上の写真は避難中の住民。
列を作って一斉に避難しています。左上が完成間近の国会議事堂。
東京有楽町にあった日本劇場(1981年閉場)に避難している住民。
「避難所→」の看板。
そして誰もいなくなった‥。(日比谷交差点付近)
反乱軍に対しては、ラジオ放送とアドバルーンで投降を呼びかけました。アドバルーンには「勅命(天皇の命令)下る 軍旗に手向かうな」と投降をうながしました。
ラジオ放送では「兵に告ぐ」という題で、反乱軍に向かって投降を呼びかける放送がなされました。
「兵に告ぐ」の原稿用紙。
ラジオ放送にて「兵に告ぐ」を読み上げたNHKの中村茂アナウンサー。
29日午前8時55分、ラジオにて反乱軍に投降を呼びかける「兵に告ぐ」の放送が行われました。
「勅命(ちょくめい・天皇の命令)が発せられたのである。すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである。お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動してきたのであろうが、すでに天皇陛下のご命令によって、お前たちは原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上、お前たちがあくまで抵抗したならば、それは勅命に反抗することになり、逆賊(天皇の敵)とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っていたと知ったならば、いつまでも反抗的な態度を取って、天皇陛下にそむき、逆賊としての汚名を永久に受けるような事があってはいけない。今からでも遅くはないから、ただちに抵抗をやめて軍旗のもとに復帰するようにせよ。」
これが実際のラジオ放送です
反乱軍の目的は「天皇陛下の周りにいる邪魔な政治家を排除し、天皇中心の政権を作る」ことでした。それは、あくまで天皇陛下自身が自分たちの行動を支持してくれるという前提があって初めて成り立つものです。ここにおいて、天皇陛下自身が自分たちを"逆賊"として征伐しようとしていることを知り、反乱の動機を失ってしまうのです。
事件の経過についてマスコミに説明する陸軍の将校
この投降の呼びかけによって、反乱軍は投降し事件は収束に向かいました。
岡田首相の生還
出典:http://mokuou.blogspot.com/2010/08/blog-post_19.html
反乱軍は、首相官邸を襲撃しました。当初、上の朝日新聞の報道にもあるように岡田啓介首相は死亡したものと思われました。しかし、実際に死亡していたのは岡田首相ではなく秘書の松尾伝蔵氏でした。反乱軍の若い軍人は、岡田首相の顔をよく知らず、岡田首相と勘違いして松尾氏を殺害してしまったのです。
左が岡田首相、右が松尾伝蔵秘書です。2人は福井県の出身で同じ小学校出身でした(岡田首相の方が5歳年上)。岡田氏の妹が松尾氏の奥さんであり、2人は親戚であり盟友だったのです。襲撃当時、首相官邸には岡田首相とともに松尾氏も住み込みで働いていました。
2人の出身小学校の福井県旭小学校のHPでは、2人の紹介文が掲載されています。
昭和11年2月26日の雪の日の朝のことです。
どたどた。ばたんばたん。
「岡田、どこにいるんだ。」
「さがせ、さがせ、絶対隠れているぞ。」
軍人たちが首相官邸になだれこんできました。
「総理大変です。」
「とうとう、軍隊がおそってきました。」
「何だ。どうしたんだ。」
「軍隊がおそってきました。」
「どうかお逃げください。」
「いや、私は逃げない。死ぬことは怖くない。」
「何をおっしゃるのです。あなたはまだ大切な仕事が残っています。」
そう言って、松尾伝蔵は死を覚悟した岡田啓介を無理矢理、風呂場にかくしました。味方が全滅した後、松尾伝蔵は反乱軍の前に姿を表し、岡田啓介の身代わりとなって、鉄砲の弾(たま)を全身に受けました。それでも姿勢を崩さず、りんとした姿で息絶えた伝蔵を総理大臣と信じた反乱軍は、「ばんざい、岡田をたおしたぞ!」とさけんで、引き上げました。これが世に有名な2.26事件です。
(朝日小学校HPより引用)
岡田首相は、風呂場から出た後、しばらく押し入れに隠れました。
岡田首相が隠れた押し入れです。
岡田首相は奇跡的に難を逃れ、一命をとりとめます。しかし、やはり二二六事件の影響によって首相を辞めざるを得なくなり、内閣総辞職に追い込まれます。
岡田首相の後を受けて成立した広田弘毅(ひろたこうき)内閣です。広田氏はあまり強い人物ではなく、軍部の要求に対し屈服すること多かったようです。そのため、軍部の暴走を招く結果となり、日本は太平洋戦争へ突き進んでいきます。(なお、広田氏自身は戦後にその戦争責任を追及され、裁判によって死刑判決を受けています)
終わりに
ご覧いただきありがとうございます。2夜連続で『アサヒグラフ 二二六事件臨時増刊号』をお届けしてきました。まああまり面白くない記事だったかもしれませんが、ツベルクリン自身が満足しているから問題ありません(´・ω・`)
歴史はよく暗記教科と言われています。この二二六事件も年号と単語だけ覚えちゃえば試験で点数が取れます。しかし、歴史とは人間の営みの結果の積み重ねであり、そこには人間ドラマが存在しているのです。当時の写真や雑誌を通して、読者の方々が当時の人々の様子を肌で感じることができたならこれ以上の幸せはありません。
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