【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら読んでいくシリーズ記事です。今回は83年前の今日、2月26日に起こった「二二六(ににろく)事件」を特集した『アサヒグラフ 二二六事件臨時増刊号』を読んでいきます。
前回の【時には昔の雑誌を】シリーズ記事はこちら(前回は、91年前の昭和天皇即位式の様子をご紹介しました)
【新天皇即位】91年前の昭和天皇即位時の様子を見て予習しておく記事(前編)【時には昔の雑誌を‥】 - 日常にツベルクリン注射を‥
【新天皇即位】91年前の昭和天皇即位時の様子を見て予習しておく記事(後編)【時には昔の雑誌を‥】 - 日常にツベルクリン注射を‥
ツベルクリンの家には、戦前の雑誌がその辺に放置されています。本当は資料館のガラスの向こうにある展示品レベルの雑誌が放置状態なのもアレなんで、このブログを通して読者の方にご紹介しようというのが当シリーズの目的です。
本日2月26日は、83年前に「二二六事件」が起こった日です。中学校の教科書にも載っているので皆さんご存知かと思います(ご存知じゃなくてもちゃんと分かるように解説します)。簡単に言えば、一部の軍人が反乱を起こし首相や大臣を襲撃しまくった事件です。
その事件が起きた当時の報道写真雑誌が手元にあるので、ご紹介していきます(´・ω・`)
<目次>
そもそも二二六事件ってなんなん?
ツベルクリンは、もともと中学校の社会科の先生をやってましたから手元に中学校の教科書があります。その中の二二六事件に関する記述を見てみます。
中坊のガキが分かるように書いてますからこういう書き方ですが、まあ説明が雑ですわ(´・ω・`)
二二六事件は、結論をかいてあるように失敗に終わります。失敗したくせに"これ以後軍部は政治的な発言を強め~"って意味不明です。
詳しく説明すると、当時の陸軍は「皇道派(こうどうは)」と「統制派(とうせいは)」の2つのグループが存在しました。
皇道派‥20代の若い軍人が中心。天皇中心の政治体制構築を目指すグループ。ノンキャリア組。
統制派‥30~40代のおっさん中心。軍人中心の政治体制構築を目指すグループ。キャリア組。
軍人にも"学歴"というものが存在し、統制派はいわゆるエリート組が中心。皇道派は将来の出世が約束されていない非エリート組が中心。非エリート組にとって『今の腐った政治体制をぶっ壊し、自分たちが先頭に立って天皇陛下中心の世の中を作ろうぜ!!』という皇道派の思想は、非常に共鳴できるものでした。
二二六事件を起こしたのは、この皇道派の若い軍人たちでした。彼らは「天皇中心の政治体制を作ろう!!そのために、天皇陛下の周りにいる腐った政治家たちを排除しよう!」と考え、総理大臣はじめ各大臣を襲撃しまくって一時的に東京の中枢を占拠したのです。
問題は、昭和天皇自身がクーデターを起こした軍人たちに激おこぷんぷん丸だったことです。天皇自身から見放された反乱軍はショックを受け、クーデターを止めざるを得ませんでした。つまりは失敗です(´・ω・`)
この結果、陸軍の皇道派は壊滅。ライバルがいなくなった統制派が実権を握り、力を強めていきます。ここまで説明して、やっと教科書の記述の意味が少し分かりますね(;´・ω・)
雑誌の中身を見てみよう
表紙です。自分の所有物だということを示すために"ツベルクリンのもの"というメモ(しかも割りばし袋の裏)を添付しています。非常にアナログで分かりやすいやり方です。
目次です(*´▽`*)
襲撃されたメンバー
襲撃された首相&大臣たち。左から
〇内閣総理大臣岡田啓介(おかだけいすけ)&松尾伝蔵(まつおでんぞう)秘書
→松尾氏は死亡。岡田首相は生存(後編で詳細を書きます)
〇鈴木貫太郎(すずきかんたろう)侍従長
→重傷。のちの終戦時の総理大臣。侍従長(じじゅうちょう)とは天皇陛下のお世話役。
〇渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)教育総監
→死亡。教育総監とは文字通り、軍人を教育する人の事。陸軍内でもトップクラスの地位の立場。彼は統制派グループでした。
〇斉藤実(さいとうまこと)内大臣
→死亡。元総理大臣。
〇高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣
→死亡。元総理大臣。大蔵大臣としてはクソ有能人物。軍部の予算を縮小させたので暗殺された。
鈴木貫太郎さんのおうち。2月26日の午前5時に反乱軍によって襲撃されました。ピストル3発撃たれ、さらに刀でとどめを刺されそうになった際に、奥さんのたか夫人が『こいつ(貫太郎さん)老人やぞ!とどめを刺すなら私が刺すで!!』と制止。軍人は撤退し、一命をとりとめます。
写真見たら分かりますが、東京都内はこの日大雪でした。余談ですが、過去に早稲田大学の日本史の入試問題で「二二六事件発生時の東京都内の積雪量を答えよ」という問題が出たみたいです、答えは35cmです。簡単な問題ですね(´・ω・`)
斉藤実さんのおうち。良い車持ってるな(´・ω・`)
この雑誌の欄外には、事件当時の様子の解説文が挿入されています。斉藤さんが襲撃されたときの様子を引用します
「表裏の両門から邸宅へ反乱軍が侵入。物音に気付いた春子夫人は、二階の八畳の夫の寝室へ駆け上がり、すでに襲撃された夫を背後に立ち血の出るような声を張り上げ"斉藤の命は国家にささげたものです!!来る時が来れば差し上げますが、まだ死ぬ時ではありません!!斉藤を撃つなら私を殺しなさい!"と言い放つも、夫人も銃剣で刺され負傷。斉藤実はものすごい銃声のあと、無残な姿になってしまった」
ただ夫人は生き残っています。っていうか鈴木貫太郎の夫人もそうですが、奥さんカッコよすぎだろ(´・ω・`)「斉藤さんだぞ!」精神あふれる姿です。
事件発生後の東京のようす
反乱軍を鎮圧するために出動した兵士たちです。寒そう(´・ω・`)
反乱を鎮圧するために現場に向かう兵士たち
現在の東京麻布あたりを進軍する兵士たち
出動する警備部隊
バイクに乗っているのは警備隊の伝令です。東京赤坂付近の写真。
戦車も出動しています。
当時千葉県の佐倉市に陸軍の駐屯地がありました。歴史は古く様々な対外戦争に出動しましたが、二二六事件の際も佐倉から出動しています。上の写真左右両側は佐倉部隊の兵士たちです。右の写真では、ロケットランチャー持ってます。
東京有楽町周辺です。奥に見えるのは"有楽座"という映画館です。
1984年に取り壊されました。有楽町ってめっちゃ都会で普段は人通りが多い地域ですが、この時は人出が無くなっています。
反乱軍は首相や各大臣を襲撃後、首相官邸や警視庁など日本の中枢部分を占領しました。残された政府関係者や軍部は対応を協議しました。
反乱軍を鎮圧しようにも、東京のド真ん中で銃撃戦なんか出来ないし、反乱軍に同情する者もいたので、なかなか対応がまとまりませんでした。しばらくにらみ合い状態が続きます。
東京新橋の繁華街。街頭に"新橋演舞場"の文字が(´・ω・`)
なお下の方に『本日休場』と掲げられています。
もちろん、現在も新橋演舞場はありますよ♪
東京銀座。人っ子一人いません。っていうか二二六事件うんぬん以前に、こんな大雪の日にウィンドウショッピングするようなマダムはいないのです(´・ω・`)
バスや路面電車は臨時運休となりました。それを知らせる掲示です。
となると、こうなりますわね
現在の東京新橋周辺です。
当たり前ですが、反乱軍が占拠した地域への立ち入りは禁止されました。これから先は立ち入り禁止だよ~っていう白ロープが引かれています。
めっちゃ簡単に超えられそうだけど、モラルのある東京都民なので問題ありません(´・ω・`)
田村町付近(現在の西新橋)。通行止めのバリケードが、白ロープでしかれています。"越えちゃえ"みたいな婦人の姿が写っちゃてますが、モラル溢れる東京都民ですから大丈夫です。
反乱軍が占拠しちゃってますが、東京人はそういうの気にしないので普通に通勤通学してます。時計は朝の7時30分、「赤坂見附」の電停の様子です。
山王ホテルと反乱軍
反乱軍は、政府官邸や警視庁のほかに自分たちが泊まる用&飯食う用に"山王ホテル"と"料亭幸楽"もついでに占領しています。(料亭幸楽については後編で)
山王ホテル前でたむろしている反乱軍の兵士
山王ホテルは、当時永田町にあった高級ホテルでした。ここを、反乱軍は自分たちのホテルとして使うために占領しました。
枠外の「叛乱軍(はんらんぐん)とホテル」という文章を引用します。
「事件勃発の翌27日の夕方から、反乱軍に乗り込まれ、混乱に陥った山王ホテルの職場にあって、最後まで職責をつくした可憐な女性、同ホテル食堂の女給仕伊藤葉子さん(21)は、当時の状況を語った」
「27日の晩は何ともいえない不安のうちにも、食堂の仕事に追われていましたので、床についたのは真夜中すぎでした。28日は早くから一緒に働いている人たちと、手の平が真っ赤になるほど、おにぎりをたくさん作りました。テーブルの上には弾のこもった怖いもの(拳銃)が乗っかっていますし、窓という窓には弾除けのためのイスやソファーが山のように積まれ、玄関の方でも、屋上の方でも、いつどんな事が起きるかも知れない様子なので、その時の気持ちといったらありませんでした」
「しかし、その日私達は1日、同じ部屋でおにぎりを作り続けていましたので、ほかの様子は何にも分からず、その晩10時過ぎになってお友達と一緒に寄宿に帰りました。翌朝(29日)、職場が気になるので再びホテルへ帰ってみますと(中略)大広間の方ではみんなお酒を飲んで大きな声で色んな歌を歌っていましたが"思いが通らなくて、俺たちはいよいよ帰らなければならない"とい言ってボロボロ涙をこぼして、みんなが泣き出したのには驚きました」
詳しくは、後編でお話ししますが、反乱は結局失敗します。天皇陛下の名をもって29日早朝、反乱軍に対し投降勧告がなされたのです。それを受けて、反乱軍は解散し各部隊へ帰っていきました。解散する前に、最後のどんちゃん騒ぎをしていたらしいのです。
後半へ続く
ご覧いただきありがとうございました。本日2月26日、そして明日27日の二夜連続でこの"二二六事件臨時増刊号"編をお届けします(なんか2時間ドラマみたいですが‥)。
明日の後編では、同じく占領された料亭幸楽の様子、そして反乱の終焉時の様子をご紹介していきます。よろしくお願いいたします(*´▽`*)
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