【保存版】シリーズは、筆者であるツベルクリンが色々なジャンルの有益かつ無益な情報を書いていくシリーズ記事です。今回のテーマは「生きているうちに予習!死んだ後のスケジュールと生まれかわり」です。
人間、生まれた瞬間から決まっていることがあります。それは死ぬことです。これは絶対に決まっていることです。
絶対に決まっていることのくせに、意外と死んだ後のことってよく知らない人も多いのではないでしょうか?死んでからでは遅いです(*'ω'*)。
今回は、仏教界における人間が死んだ後のスケジュールや死んだ後の生まれ変わりについて予習していきましょう。キリスト教の方は各自調べてください。
※5000字超えました。ただ一番分かりやすい記事だと勝手に思っています。
※死後の考え方は時代や地域、仏教の宗派によって様々です。『その考えは間違ってるよ!』というご意見には『死んだことないから分かりません』って答えます(๑・̑◡・̑๑)
<目次>
冥土の旅へ
死んだあと、いよいよ長い「冥土の旅」が始まります。事前っていうか、生きてるときに"冥土の土産"を準備しておいてください(*'ω'*)。
旅のスタート地点は、「死出の山路」です。非常に暗い山道をひたすら歩いていきます。その距離は、800里、つまり3200キロあるとされています。しかも、1週間後に最初の"裁判"がありますから、それまでに歩ききってください。
三途の川
3200キロ歩いてクソだるいのに、今度は川を渡らされるハメになります。俗にいう「三途の川」です。
三途の川を渡ってしまうと、もうこの世には戻ってこれません。死にそうになった人がお決まりのように『三途の川が見えた‥』とかほざくのは、ギリギリセーフだったということです。
三途の川の手前には、鬼がいます。この鬼が死者の生前の罪深さによって、渡る場所を指図してきます。生前めっちゃハートフルな人は、橋を渡らせてもらえたり、船に乗せてくれたりします。一方で生前がかなりアウトローだった人は、深くて流れの早い場所を渡らされたりします。
流れの早い場所を歩かされてたら、当然身体ごと流されて岩にぶつかって身体ボコボコになります。でも、安心してください。どんなにボコボコになったって溺れたって死にやしません。だって、三途の川を渡っている時点でもう死んでいるんですもの(*'ω'*)
※ほかにも、三途の川の渡し賃として「六文銭」を準備しておくといいという話もあります。その辺は、死んだことが無いから詳しくは分かりません(∩´∀`)
奪衣婆&懸衣翁の登場
三途の川を渡りきると出くわすのが、奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)です。クソババア&クソジジイです。
奪衣婆は、三途の川を渡ってきた死者の服をはぎ取ります。だから「衣を奪う婆」なのです。その服をジジイの懸衣翁に渡します。懸衣翁は、その服を枝にかけて、枝のしなり具合で服の重さを測ります。
どうやら、その服の重さで生前の罪の重さが分かる(罪深いほど服が重くなる)らしいのです。まあ、その前段階で、罪深い人は川の流れが速くて深い場所を渡らさせられているので、川を渡った時点でびしょびしょです。びしょびしょの服はそりゃ重たいでしょうから、理にかなった見極め方法です。
服の重さは、後で裁判を実施する十王たちに報告されます。つまり、服の重さが死後に行く場所を決める裁判の判断基準になってくるのです。
賽の河原
どんなに罪深くて服びちょびちょになろうが、三途の川を渡れる死者はまだマシです。三途の川の河原は「賽(さい)の河原」と呼ばれ、親よりも先に死んでしまった子供が鬼の監視下でひたすら「石積み」をさせられています。
石を積んで塔が出来上がれば、三途の川を渡らせてくれるのですが、出来上がりそうになったら鬼が来て『残念でした~』と石を壊してきます。あなたが死んで三途の川までたどり着くと、きっと河原では石積みさせられている子供がたくさんいると思いますが、それはそういうことなのです。
この賽の河原の話は、仏教の教えには出てこず、平安時代~鎌倉時代に民間で広まった噂とされています。当時の世相では、子供が親より先に死ぬことは不道徳とされたのでしょう(もちろん、今の世の中でもそうですけど)。
十王たちによる裁判
三途の川を渡った後は、死後の行き先を決める裁判が始まります。裁判するのは、「十王」と呼ばれる10人の王様たちです。
出典:『鬼灯の冷徹』第22話より
三途の川を渡ると、秦広王(しんこうおう)による最初の裁判が行われます。死後7日後のことです(初七日)。秦広王は、死者が生前に殺生を働いていないか調べます。
続いて、死後14日後には初江王による裁判があります。初江王は、生前盗みを働かなかったどうか聞き取りをします。
その後、死後21日後に宋帝王が生前の浮気や不倫の有無、死後28日後に五官王が生前についた嘘について審議します。
十王のなかで最も有名なのが、死後35日目に裁判を受ける「閻魔(えんま)大王」でしょう。この閻魔大王の裁判の段階で、おおよその死後の行き先が決まるとされています。
閻魔大王の手元には、死者の生前の行いをメモした閻魔帳があり、前述した奪衣婆から上がってきた報告(服の重さ等)などをもとに審議します。
結構大事な裁判なので、不服があるときには反論してもいいことになっています。ただし、その反論が事実とは異なる嘘の場合、閻魔大王から舌を引っこ抜かれます。
閻魔大王の裁判の後、死後42日後には変成王によってより詳細な生前の情報などの確認が行われます。そして、いよいよ死後の行き先が言い渡されるのが死後49日後、太山王の裁判によってです。
遺族が死後49日後に法要を行う(四十九日法要)のは、『死者は生前とてもいい人だったのでこのように盛大に供養しているのですよ。なにとぞよろしくお願い致します…』というニュアンスの、裁判官である太山王に対しての"ゴマすり"なのです。少しでも判決がよくなるように、という遺族の方の願いが込められているのです。
もし、四十九日までに裁判が終わらなければ、残りの3人の王によって追加の裁判が行われます。
死後の行き先(六道)について
死んだ後の行き先は大まかに分けて6種類あるとされています。それを「六道(ろくどう・りくどう」と言います。どこに行くかは、十王の裁判によって決められます。6つの世界を紹介しましょう。
地獄道
最悪なパターン。地獄の中でも様々なランクがありますけど、「阿鼻(あび)地獄」が最もヤバい場所だと言われています。基本的に生前人殺しをした犯罪者は地獄行き決定ですけど、阿鼻地獄に落ちるのは、生前父母を殺害したような親不孝者だとされています。
餓鬼道
人殺しはしてないけど、思いやりが無い人や嫉妬や欲望まみれで死んだ人はここに落ちます。この世界は基本的に常時飢えまくりです。地獄ほどではありませんが、精神的にも肉体的にも非常に苦しい世界です。
畜生道
畜生(ちくしょう)とは、人間以外のすべての動物のことを指します。ここに行かされると、来世は動物として生きていくことになります。動物の世界は弱肉強食の世界なので、常に殺し合います。生前、自分勝手な生き方をしてきた人が行かされる世界だと言われています。
修羅道
修羅(しゅら)道は、阿修羅(あしゅら・上の写真)たちが住まう世界です。阿修羅とは、お釈迦様のガードマンみたいな立場の鬼神です。ガードマンですから、武闘派であり、そんな奴がうろうろしている世界ですから、日々争いが絶えません。
最も、その争いは自分を向上させるためのものでもあるので、地獄みたいにフルボッコにされ続けるわけではないようです。この世界には、生前争いが絶えなかった人が行かされるようです。
人間道
その名の通り、人間たちが住んでいる世界です。今この記事を読んでいるすべての人は、前世の裁判によって『来世は人間道ね!』って判決されたので、現世は人間として生きているのです。
天道
六道の中で最もハートフルな世界は天道です。苦しみも感じないまさに天国です。でも、天道の世界へ生まれ変わったとしてもやがて寿命がきます。ハートフルな世界だからこそ、死を迎える時には、非常に苦しい思いをするのです。
輪廻と解脱
「前世」「来世」という言葉があるように、生き物は何度も生まれ変わっています。そして、前世の終わりに受けた裁判によって、現世では人間として生まれ変わったのが皆さんなのです。このように、生まれ変わり続けることを「輪廻(りんね)」とか「輪廻転生(りんねてんせい)」と言ったりします。
生まれ変わり続ける以上、どうしても避けられないのは「死」です。これは、ハートフルな世界である天道でも同じです。死を避ける唯一の方法は、この輪廻転生の状態から脱して、いわゆる"極楽(ごくらく)"の世界へ行くことです。輪廻から脱することを「解脱(げだつ)」と言います。
極楽の世界は、六道の世界から完全に脱却しているので、まず「死」というものが存在しません。1度極楽の世界へ行ってしまえば(つまり解脱してしまえば)、もう二度と輪廻転生することもありません。永遠にハートフルな世界で過ごすことができます。解脱こそが、仏教の最大の目標なのです。
そして、これは重要な決まりなのですが、解脱できるのは人間道で生きている期間中のみです。ハートフルな世界である天道では、解脱できません。天道では、解脱の手助けをしてくれる仏教と出会うことが出来ないからです。つまり、現世で人間である皆様は、"解脱チャンスタイム中"なのです。
なので、これまでの仏教は『どうやったら解脱出来るのか?(極楽へ行けるのか?)』をずーっと考えてきました。どうやったら解脱出来るのかについては、仏教の宗派によってその教えが異なります。
出典:https://jodo.or.jp/about/history/
例えば、平安時代末期に法然(上の画像)という僧が開いた浄土宗では、『とにかく念仏(なむあみだぶつ)を唱えまくれ!』という専修(せんじゅ)念仏という考えを教えました。
もちろん、言うだけではダメで心の底から仏様を信じないと効果が無いという考えです。自らの信仰の厚さをアピールして極楽へ行こうとする思想を「自力本願(じりきほんがん)」と言います。
一方で、一遍という僧が広めた時宗では、『ただ1回"なむあみだぶつ"って言えばOK。それだけで極楽へ行けるよ!』『ただ言うだけじゃつまらないから踊りながら念仏を唱えようぜ!』といった、完全にファンキーな方法を取り入れました。
一遍さん曰く『だって仏様の力って偉大だぜ?信じる者も信じない者もまとめて救済してくれるに決まってる!』とのことです。このような"仏様の力は偉大だから人間は念仏さえ唱えればOK"みたいな思想を「他力本願(たりきほんがん)」と言います。
ただ、踊りながら念仏を唱える(これが後の盆踊りにつながる)スタイルは、現代でいえば六本木のクラブで踊りまくるみたいなものであり、保守派からは『なんやねんあの集団(*'ω'*)』と思われることもあったようです。
このように、同じ仏教においても宗派によって考え方が様々です。ただ、その思想の根底には『人殺しはもちろん、思いやりや親切心を持たずに自分勝手に生きていたら、解脱出来るどころか来世で地獄や餓鬼の世界へ落とされるよ』という教えがあります。
先ほども言ったように、人間に生まれてこれたのはかなりのチャンスタイムなのです。おそらく、前世でそれ相応の功徳を積んだのでしょう。なので、『チャンスタイム期間中に不道徳に生きるのは、めっちゃもったいなくないですか?』ってことです。仏様の教えを信じるかどうかは置いておいて、今一度自分の生きざまを見直してはどうでしょうか?
終わりに…
色々と死後のことをご紹介してきましたけど、死後のことを考えるのは死んでからでも遅くはありません。生きているうちは、必死に生きることをまずは考えましょう!
生きるって素晴らしいよ(๑・̑◡・̑๑)
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