【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら読んで行くシリーズ記事です。今回は1945年発行10月15日発行の『アサヒグラフ』を読んで行きます。
前回の記事はこちら
『アサヒグラフ』は、当ブログの愛読者の皆さんにとってはおなじみ、朝日新聞社が大正時代から2000年(平成12年)まで発行していた報道写真雑誌です。
前回の記事では、1945年2月という終戦直前の日本の様子を垣間見ましたが、今回は終戦直後の日本を庶民の目線から見ていきたいと思います。終戦がこの年の8月15日ですから、終戦からちょうど2か月後です。では読んで行きましょう。
<目次>
表紙ページ
ツベルクリンの持ち物であることを示すために"ツベルクリンのもの"と書いたメモ用紙を添付しています。令和になったのに、アナログなやり方です。
10月ですから稲の収穫の様子です。奥さんが戦地から無事に帰ってきた夫と一緒に収穫をする光景です。写真の副題は「復員の夫と分かち合う収穫の喜び」です。
戦地から日本に帰ってくることを「引き揚げ」と呼んでいました。引き揚げ者が元軍人の場合は、軍人から一般人に戻ることになるので「復員」と呼びました。この引き揚げの歴史や当時の様子は、それこそ本1冊書けるレベルなのでここでは省きます。言えるのは、相当な苦労があったようです(ツベルクリンがお相手するお客様の中にも、引き揚げをご経験の方がたまにいらっしゃって、聞ける範囲でお話を聞いたりしています)
復興する店舗
終戦から2カ月後の東京の様子です。東京は終戦直前まで空襲を受けまくっていたので焼け野原でしたが、そこから復興していく様子が垣間見えます。雑誌中の文章を引用します。
「こんなにも東京は焼けたのか‥‥戦争中はそう思わなくても、さて敗戦という冷厳な事実のうちに戦争が終わってみると、今更のように東京の廃墟が目に付く。だが、それもしばし、今東京の商店街は新しい日本建設の声と共に続々と復興している」
雑誌中、上の写真は"新宿マーケット"です。いわゆる「ヤミ市」です(学校で習ったよね?)。
当時の食料品は、「食糧管理法」という法律が存在しており、基本的には生産者から国が買い上げ、国民に対し決められた価格で販売する制度を取っていました。これを「配給制度」といいます。配給品はもちろん無料ではなく、定められた価格を支払って消費者は食料品を購入していました。
ところが、終戦直後は国家自体の管理している食料品が底をついていたのです。理由は、
①戦地で戦っていた兵士たちが帰って来て国内の人口が増えた
②空襲で交通網が破壊されており、農村からの食料品の輸送に支障をきたしていた。
③食糧庫だった中国の満州地方など、日本の支配域だった場所が切り離され、食糧が入ってこなくなった
ということで、国家が持っている食料はほとんどなく、配給を待っているだけでは餓死必至の状態だったのです。では、どうするかというと、国家の管理外の闇ルートで取引された食料品を購入するしかありませんでした。闇ルートで取引された商品を「闇物資」といい、その闇物資を売買する市場を「闇市(ヤミ市)」といいました。闇物資は正式ルートで取引されたものではないので、ぼったくり価格でした。
ヤミ市はアウトロー、すなわち法律違反な存在です。でも、ヤミ市が無いと食べていけないので、警察官も黙認していました。ってかヤミ市の代表格である新宿マーケットを堂々と『アサヒグラフ』さんは掲載しちゃってます。
こちらも普通に「ヤミ市」の様子を掲載しちゃってますが、「ヤミ市」と書かなければバレないので問題ありません。
上の写真は浅草の浅草寺前の仲見世通りの様子です。
現在の仲見世通りはこんな感じ
英字の大氾濫
戦時中は、英語は敵の言語だとして町中から排除されていました。そして、それまで横文字で表記されていたものを無理矢理日本語化しました。"ニュース"が"報道"に、"ラグビー"が"闘球"に‥といった感じです。敵の言語である英語を使うとはけしからん!ってことですね(一方、アメリカは敵の言語である日本語を徹底的に研究し、暗号解読に一役買った模様)
終戦後、アメリカ軍が日本に進駐してきて、町中を闊歩する異様になります。それまで『英語ダメ!絶対!』の姿勢だった日本人は、手のひらを返し『ギブミーチョコレート!』と言うようになります。町中には、上の雑誌中写真のように英語やローマ字が溢れています。
つい2か月前までは、アメリカと戦争していたのに、この手の平の返しっぷりは現代人も見習うべきです。というのも、当シリーズで過去記事でも書いたことがありますが、戦前の日本人は「アメリカ大好き」民族だったと思われます。『アメリカをやっつけろ!』って言っていたのは、長い歴史の中でも戦時中の4年間だけだったようです。
米記者の見た東京
アメリカ人記者フレッド・スパーク氏が『米人記者の見た東京』というタイトルで記事を寄せています。文章を引用します。
「1941年の12月7日(アメリカ時間。日本時間だと12月8日)に真珠湾に爆弾が落ちてからというものは、太平洋の米兵たちは(出撃する前に)"アバよ"という代わりに"トウキョウで会おうぜ!"と言うようになった。今やその東京に来たわけであが彼らは半信半疑の態である。」
「驚いたのは、東京がおおいにまるっきり長い間、夢に描いていたような人力車と桜のおとぎ話の国ではないということだ。シカゴやデトロイトを思わせる近代的な建物や都電、地下鉄にお目にかかるに及んでは、彼らも驚いている」
「(アメリカの)兵隊は"日本の家はそうなっているんだろう?"、"日本飯を食ってみたいな"、"たまに会う芸者より、日本の娘とも話してみたいな"と思っている。(省略)占領下の東京で兵隊が今日、どんなものを見てどんなことをしているか少々写真で紹介して見よう」
ということで、記者が撮影した写真が掲載されています。上の写真は、米兵とたわむれる少年たちです。つい2か月前までは「欲しがりません、勝つまでは」教育を受けていたというのに‥(;・∀・)
日本人と米兵の絡みが写真に収められています。
幣原内閣成立
さて、戦後の日本を誰が引っ張っていくか、という話ですが、その役目にピッタリの人物だと目されたのが幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。
彼は1920年代~30年代において外務大臣として活躍しました。幣原さんの外交の特徴として"アメリカやイギリスとも仲良くやろうぜ!"外交であったので、戦時色が強くなるにつれて彼は政治の表舞台から遠ざけられました。
終戦直後の当時は、民主主義的な考え方を持つ人物が総理大臣にふさわしいと考えられたので、幣原さんに白羽の矢が立ったのです。当時73歳でした。久しぶりの表舞台への登場であり、当時は"あの人は今?"的存在だったので国民は『幣原さんまだ生きとったんか!!』という反応だった模様。あのマッカーサーも『なんやこのヨボヨボじいさん、英語とか話せるんか?』と反応した様子(もちろん、外務大臣経験者なので英語ペラペラです)。
内閣のラインナップを見ると、外務大臣にのちの首相となる吉田茂氏がいます。そして、まだこの時は「陸軍大臣」「海軍大臣」が残っていた時期です。というのも、この当時はまだ海外に旧日本兵が多く残っており、その兵士たちを日本に帰国させる(いわゆる復員)事業が残っていたのです。その事業を担当したのが陸軍&海軍大臣なのです。
終わりに‥
こういうマニアックな記事もPV数的には弱いんですけど更新していきます。今後もぜひご覧ください。
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