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現役の添乗員、そしてなおかつ社会科の教員免許を所持している自分が、旅行ネタおよび旅行中に使える(もしくは使えない)社会科ネタをお届けするブログです♪

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日本にかつて存在したジプシー、"サンカ(山窩)"は一体どんな人々だったのか?

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皆さんは「サンカ(山窩)」という言葉をご存じですか?知らない方も結構いらっしゃるかもしれません。

 

 

サンカとは次のように定義されます。

 

「サンカは、日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。」

出典:サンカ - Wikipedia

「 山地の河原などを移動して、竹細工や狩猟などを業としていた人々。」

出典:山窩(さんか)の意味 - goo国語辞書

 

サンカとは、言ってみれば日本にかつて存在した"流浪の民"もしくは"ジプシー"と言える人々のことを指します。

 

近世以降の日本は定住し田を耕して生計を立てる農耕民族の国として認識されています。そんな日本に、縄文時代ならいざ知らず、昭和30年代までサンカと呼ばれる流浪の民が存在したことは、ある意味驚きです。

 

とはいえ、彼らは流浪の民であり記録に残りにくい存在ではあります。彼らの多くは戸籍に載らない無籍の集団であり、なおかつその生活様式が外部に伝わることはほとんど無かったとされています。

 

このように、忘れ去られていく人々であることは確かではありますが、その一方でサンカについて書かれた書物が何度も改訂されたり文庫本化、はたまた電子書籍化されるなど、令和の現在でも根強い人気があるのです。

 

 
山窩は生きている (河出文庫) [ 三角寛 ]

 

今日は、昭和期まで実際に存在したとされる流浪の民・サンカについてじっくりとご紹介していきたいと思います。

いつもの当ブログのようなおふざけは一切ありません。調査を重ねた上で書き上げた長編記事です。文字数6400字。

 

 

<目次>

 

 

 

 

サンカの漢字について

 

「サンカ」という言葉に漢字を当てはめると、「山窩」と書く場合が多いようです。

山窩(さんか)の意味 - goo国語辞書

 

まず、この当て字の意味について調査していきます。この当て字について、民俗学者の柳田国男は次のように指摘しています。

 

「一家族を挙げて終始漂白的生活を為すものは今日別に一種族あり。多くの地方にては之を"サンカ"と称す。サンカに話にも亦色々の当て字ありて本義不明なり。(中略)山窩の文字を用いるのは岩の窪み土窟の中などに居るが為の当て字らしいけど、共に未だサンカと云ふ語の意味を説明する者とは信ぜられず」

出典:柳田国男『「イタカ」及び「サンカ」』(1911年発表)

 

」という漢字を訓読みすると「あな」であり、それ一文字で洞窟やほら穴を意味する漢字となります。山中の洞窟やほら穴に住んでいるから山窩、ということなのでしょう。

 

柳田国男が民俗学に傾倒し始めたのは明治末期のころなので、そのころには「山窩」という当て字が存在したことになります。

 

では、山窩という当て字の初見はいつなのでしょう?それは、明治8年(1875年)2月に島根県の警察官が提出した『報告書』が現在知られている初見の文章だとされています。そこにはこう記されています。

 

「山窩は雲伯石三国(現在の島根県や鳥取県を指す言葉)の深山幽谷を占居する、居所不明の無籍の徒である。常に賭博窃盗其他の悪行を為し~」

 

それ以降、主に警察文書の中に賭博窃盗其他の悪行を為す存在として、「山窩」という文字が見られるようになっていったのです。

 

 

 

サンカの語源について

当て字の初見は分かったとして、「サンカ」という言葉の由来はどこにあるのでしょう。ノンフィクションライターの礫川全次氏の著書『サンカ学入門(2003年)』にはこうあります。

 

「明治期に、ある種の犯罪集団(あるいは準犯罪集団)を意味する"山窩"という言葉(表記)が定着していき、それと平行する形で、各地の漂白民を"サンカ"という共通語で括るようになっていったのではあるまいか」

出典:礫川全次『サンカ学入門(2003年)』

 
サンカ学入門 (サンカ学叢書) [ 礫川全次 ]

 

つまり、もともとは警察用語だった「サンカ」がいつしか、世間に広まり一般語として定着していった、との見解です。おそらくこの見解はかなり真実に近いものと思われますが、では警察用語としての「サンカ」はどこから来たものなのでしょう?

 

飯尾恭之氏の論文『尾張サンカの研究』において、警察用語として使用されるより前の江戸時代、1855年の文書に"サンカ"という文字が見られると指摘されています。それによると、「サンカト唱無宿非人共、近年所々数多在り~(サンカと呼ばれる無宿人が近頃所々にやってきている)」とあります。(『安芸国賀茂郡吉川村庄屋文書(1855年)』より引用)。

 

 

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出典:喜田貞吉 - Wikipedia

サンカの語源について民俗学者の喜田貞吉氏(1871年~1939年)が興味深い説を唱えています。

 

坂の者の語が上方(現在の大阪・京都を指す)訛りでサカンモノとなり、さらに反転してサンカモノとなったと言うのです。(中略)坂の者とはもと浮浪民の名称です。(中略)その中でも浮浪民の多く集まった京では、加茂川の河原者、清水坂の坂の者が最も有力で‥」

出典:喜田貞吉『サンカ者の定義について』(1939年)

 

社会的な枠組みから何らかの要因で外れてしまった人々が、あまり居住環境の良くない川辺や坂に集まって集団生活をするようになったようです。喜田氏によるとそれは室町時代からのようです。そして、そういった人々を周囲の人々が住んでいる場所を取って「河原者(かわらもの)」「坂の者(さかのもの)」と差別的なニュアンスを込めて呼んだのです。サンカと言う語源は、この坂の者から来ていると考えるとしっくりきます(他にも語源については諸説あります)。

 

ただ、この喜田説に私見を加えるとすれば、室町時代の"坂の者"いう言葉がサンカのルーツだとすると、室町時代から江戸時代後期まで「サンカ」という言葉が文献に出てこないことをどう説明すればよいのでしょうか?江戸時代の文献において、サンカという言葉が出てくるのは、前述したように1855年の『安芸国賀茂郡吉川村庄屋文書』まで待たなければなりません。

 

このように、サンカの語源を調べることはそのまま「サンカがいつ発生したのか?」という根本的な問題を考えることにつながります。この問いに関する明確な答えは未だにはっきりとはしていません。

 

 

 

 

サンカは犯罪者集団なのか

 
サンカと犯罪 [ 筒井功 ]

前述した明治期の警察官の報告書にも『常に賭博窃盗其他の悪行を為し~』と、その山窩(サンカ)は一種の犯罪者集団だったと記述がなされています。

 

警察が警察用語で名指しした「山窩」の人々の中には、事実犯罪者だった人もいるようです。元刑事の伊東清蔵氏が書いた『猟奇犯罪捕物集(1952年)』には、こうあります。

 

「彼等(山窩の人々)は多く"うめがい"と称する諸刃の鋭利な刀を携帯しているが、問答なくいきなりそいつで惨殺してしまうこともある」

出典:伊藤清蔵氏『猟奇犯罪補物集』

 

ウメガイとは、サンカの人々が使用していたとされる山刀の一種です。

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出典:https://iwagp.tumblr.com/

 

また、同時期(1956年)に書かれた元検事の著書『検事物語』によれば、山窩の犯罪について

 

「当時(:大正時代)全国的に山窩の犯罪が多かった。特に悪性ある山窩の犯罪についての捜査につき慎重な態度で臨み、彼等の風俗習慣等を事前に調査するように訓示していたところ、大仕掛けの山窩窃盗団が検挙された‥」

 

とあります。サンカの人々は定住を前提にしていないことが多いとされています。流浪を繰り返すので、その居住地を移動する際に、移動しながら窃盗などの犯罪を起こしていたのではないかと考えられます。

 

もっとも、サンカの人々が全員犯罪集団であると断定するのはあまりに短絡的でしょう。ただ、窃盗をしないと生きていけないような経済的困窮があった可能性も否定できないでしょう。

 

 

 

サンカの人々の様子や暮らし

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出典:柳田國男 - Wikipedia

 

民俗学の権威である柳田国男が最も情熱を注いだ研究テーマの1つが「サンカ学」です。明治末期の1911年7月、彼は現在の岐阜県から福井県を往復する現地調査に出かけました。目的は、サンカの生活を調査することでした。

 

後に柳田は、この時の調査旅行の見聞を『「イタカ」及び「サンカ」』という論文にまとめました。その論文を少し引用します。

 

「衣類など著しく不潔にして、眼光の農夫に比べてはるかに鋭き者、妻を伴い小児を負い、大なる風呂敷に小荷物を包み、足ごしらえなどはずいぶん甲斐甲斐しきが、さも用事ありげに急ぎ足で我々とすれ違うことあり。これたいていサンカなり。彼らはジプシーなどと異なり決して大群をなさず目立たぬように移転す。1-2か月間の仮住地においても小屋の集合すること二戸か三戸に限り、かつその地を選ぶこと巧妙にして、人里に近くにしてしかも人の視察を避ける手段最も周到なり」

出典:柳田国男著『「イタカ」及び「サンカ」』

 

 

 

柳田はサンカの人々の見た目をこのように報告しています。では、暮らしぶりについてはどうでしょうか?柳田の調査より13年後、報知新聞社の新聞記者であった鷹野弥三郎氏が、サンカに関して執筆した自分の記事をまとめた本『山窩の生活(1924年)』を出版しています。そこには、サンカの暮らしについてこう論じています。

 

「彼等山窩の日常は漂白生活である。彼等は一面に遊猟時代の人間のごとき生活を送っている。彼らのしばしの生活する処を、彼らは"セブリ"と称するのである。セブリと言うのは、彼らが天幕を張って天幕生活をする事である。(中略)彼らは多くは春夏秋冬によって、なるべく気候の温暖清涼な地を、それからそれへと辿り渡る。」

 

サンカという言葉を「山窩」と書くと、洞窟で生活しているように思われてしまいますが、実際は川辺に「セブリ」というテントのようなものを張って生活していたようです。そもそも、セブリという言葉がサンカの人々が用いていたサンカ方言の1種ではないかと言われています。

 

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出典:三角寛『サンカの社会』(1965年)

 

では、サンカの人々の生業は何だったのでしょうか?昭和期のサンカ研究者であった荒井貢次郎氏は、『幻像の山窩(1969年)』においてこのように説明しています。

 

「川辺に住み、川魚、湖、沼、沢、池に獲物を求め、スッポン、亀、オオサンショウウオ、鰻、鯉、鮒、鯰などをとり、貝をとって売る。竹細工、よろず修繕、下駄の歯入れ、風車売り、猿回し、乞食も入ってくる。洋傘直し、薬草売り、‥」

 

以上の文章や他研究者の研究を総合すると、サンカの生業については、大きく分けると以下の4つであったと推測されます。

 

1.水産物などの狩猟

2.猿回しなどの芸能

3.竹細工製品作り(修繕も含む)

4.乞食

 

こうなってくると、1つの想像ができます。サンカの人々は一般社会から隔絶された存在ではなく、むしろ一般社会と濃厚に接触する機会があったのではないかと。

 

事実、沖浦和光氏の著書『幻の漂流民・サンカ(2001年)』において、サンカと関わりがあった広島県在住の老女に当時のこと(昭和10年代)をインタービューした内容が次のようにまとめられています。


幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)
 

 

「私の子供の頃には、この集落にも"サンカ"がよく来よった。子供づれで旅から旅をしながら、田の番小屋に1週間ほどいよった。箕や籠、タワシなどを自分たちで作って売りよったが、みんな手先が器用でいろんな細工物が得意じゃった。サンカはみんなしてよう働きよった。男親が上手に川魚を捕って、女親がきれいに料理して、一軒一軒回って売りよった。」

出典:沖浦和光著『幻の漂白民・サンカ』(2001年)

 

このように、サンカの人々は一般社会の人々と交流しながら生活していた様子がうかがえます。

 

 

 

サンカの人々はどこへ消えたのか?

 

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出典:三角寛著『サンカの社会』

 

令和の現在、サンカと呼ばれる人々はいないとされています。一説によると、明治時代には日本全国で20万人ほどいたとされるサンカの人々は、いったいどこへ消えてしまったのでしょうか?その問いに素直に答えるとすれば、『もともと接触があった近隣の一般社会に徐々に吸収されていった』と考えることができます。

 

最初の大きな転換ポイントは、明治維新によって誕生した明治新政府が、戸籍の整備を進めたことです。それまでの幕藩体制下では見過ごされてきた"無籍者"たちも、新政府の戸籍に組み込まれていった、と私は考えています。なぜ、明治新政府が戸籍の整備に力を入れたかというと、税金を徴収したり兵隊を取る(徴兵)ために、戸籍は欠かせないからです。

 

次の転換期は、太平洋戦争です。これについては、作家の筒井功氏が2005年に出版した『漂泊の民・サンカを追って』という書物の中で、次のように分析しています。


漂泊の民サンカを追って
 

「しかし、その背景には戦時下の食糧難という事情があった。前年(:1942年)の2月に食糧管理法が公布され、米麦その他の供出制度が発足していた。政府による主要食糧の強制買い上げ制度の下にあって、生産者の農民でさえ日々の食い扶持に窮するようになっていったのである。寸土の耕地も持たず、資産と言えるものは何もなく、国家権力に背を向け続けて生きてきた移動箕造りたち(:サンカの人々のこと)が、飢えに直面せずにいられるはずはなかった。違法行為によらず空腹をしのごうとすれば配給に頼るしかない。だが無籍では、それもかなわないのである。」

 

 

政府の目を逃れて戸籍にも入らず、漂白の民として生きてきたサンカの人々でしたが、耕す田んぼも持っていない彼らにとって、戦時中の食糧難は非常に痛手でした。配給を得るために戸籍に入り、以後一般社会へと組み込まれていったようです。

 

もっとも、戦時下も戸籍に入ることを良しとせず、サンカの暮らしを維持し続けた人々も若干存在したようです。そんな彼らも昭和30年代以降の高度経済成長期に突入すると、文明が押し寄せ、彼らの生業(竹細工づくりなど)を放棄せざるを得なくなっていったのではないでしょうか?

 

 

終わりに…

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現代に伝わるサンカの人々の写真は、そのほとんどがサンカ研究家の三角寛氏によって撮影されたものです。

 


山窩奇談 (河出文庫)

 

彼は戦後すぐの昭和20年代に、関東地方に暮らしていたサンカの人々へ取材を敢行し、その生活ぶりを多く写真に収めました。もっとも、それらの写真は三角氏の「演出」「やらせ」があったとされており、すべてを鵜呑みにすることはできません。

 

それでも、現在に至るまで、サンカに関する書物には三角氏の撮影した写真が引用され続けています。それだけ魅力ある写真と言えるのです。

 

私の力不足により、サンカに関する調査が十分とは言えませんが、現状の知識で皆様にお届けできる最大限の記事が書けたと思います。今後も調査が進み次第、この記事のリライト及び加筆を続けていきたいと思います。

 

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