【時には昔の雑誌を‥】シリーズは、ツベルクリン所有の昔の雑誌を解説を入れながら皆さんにご紹介していく記事です。今回は1925年8月26日号『アサヒグラフ』のご紹介です♪
前回の記事はこちら
前回は、1942年(昭和17年)の少年少女向け雑誌『週刊少国民』をご紹介していきました。
77年前の雑誌でさえ古いんですけど、今回は94年前の雑誌のご紹介です('Д')
1925年、すなわち大正14年です。
『アサヒグラフ』は、1923年に発行が始まった週刊の写真雑誌です。
「日本における写真誌の草分け的存在で、数々の歴史的な報道や、その時代に代表される世相や風俗の特集記事を多数掲載、資料的価値も高い。(Wikipediaアサヒグラフのぺーじより引用)」らしいです。
アサヒグラフは、戦時中、高度成長期、バブル景気など日本の報道写真を紹介し続け、2000年のシドニーオリンピック号で休刊。歴史ある週刊雑誌です。
出典:https://search.yahoo.co.jp/image/search
では、雑誌の中身を見ていきましょう(*^▽^*)
<目次>
表紙ページ(摂政殿下御召艦長門)
表紙ページは戦艦長門(せんかんながと)が写っています。
戦艦長門は、1920年に完成した日本軍の戦艦でもちろん当時の最新鋭の技術を集結してつくられたものです。アメリカやイギリスの戦艦と並び評され「世界7大戦艦(通称ビック7)」と呼ばれていました。AKB48でいえば神セブンです(´・ω・`)
太平洋戦争中、日本の戦艦が次々とアメリカ軍の攻撃によって沈められていく中、終戦まで生き残った戦艦でもあります。
その長門が「摂政殿」を乗せて航海している、という写真です。
この「摂政殿」、のちの昭和天皇です。
出典: http://realtime.wsj.com/japan/2014/09/17/宮内庁「昭和天皇実録」
「摂政(せっしょう)」っていう歴史用語は聞いたことありますよね?
飛鳥時代の聖徳太子や平安時代の藤原氏が就いていた役職で、天皇のサポート役を指します。昭和天皇(当時は皇太子)は、大正天皇の摂政だったのです。
というのも、大正天皇は生まれつき身体が弱く、公務が十分に行えないと判断されていました。摂政という職は、明治維新の際に廃止されていたのですが、この時代久しぶりに復活していたのです(なお、歴史上最後の摂政が昭和天皇です)
なので、大正天皇が存命中は後の昭和天皇は「摂政殿」と呼ばれていたわけです。
以下、「摂政殿」って書いてあったら、昭和天皇のことだなと脳内変換してください
写真は、戦艦長門に乗って樺太(からふと)を訪問した時のものです。
樺太は、当時南半分は日本の領土だったのですね(´・ω・`)
出典:http://difference.zatunen.com/contents/0036.html
摂政殿下樺太行啓画報
「摂政殿下樺太行啓画報」って難しいタイトルが付けられていますが、要するに「摂政殿(のちの昭和天皇)が樺太にお出かけしてきた時の写真だよ(*´▽`*)」って意味です。
「行啓(ぎょうけい)」とは、皇太子がお出かけするって意味です。ちなみに、天皇がお出かけするときには「行幸(ぎょうこう)」って言います。
本斗小学校の花輪ダンス
本斗小学校って、当時の樺太にあった小学校なんです。この当時は、樺太の南半分は日本の領土で日本人が数多く(40万人くらい)住んでいたのです。
摂政殿をお迎えした本斗小学校の児童は、花輪ダンスなるお遊戯を披露したのです(*´▽`*)
ページ右上の写真は、帰ってきた際に撮影された摂政殿
記事には「ご機嫌うるわしく横須賀にご帰還の殿下」とあります。
何か良いことでもあったんでしょうか(´・ω・`)
当時、殿下は24歳でした。ツベルクリンより若いです。
ツベルクリンが気になったのは、同ページ左下の雑誌の広告欄です
『1周年を迎えて一大飛躍の″映画と演芸” 9月号いよいよ発売』とあります。
これはアサヒグラフ別冊とも言える写真雑誌で、当時の映画スターや役者の写真を載せている写真集なのです。
こういうの(´・ω・`)
出典:https://auctions.yahoo.co.jp/search/search/映画と演芸
広告の中にこういう文章が‥
「お好きな俳優の引き延ばし写真を五百名に贈呈します」
こういううたい文句を挙げるってことは、今でいう嵐や関ジャ二のポスターをジャニオタが欲しがるように、昔の人もイケメン俳優の写真を欲しがったってことですね。今の人と考えることは変わらないですね(;´∀`)
当時はインターネットはおろか、テレビも無い時代ですからね(´・ω・`)
写真欲しがりますよね、しかも「お好きな俳優」とまでサービスしてくれているんですから。
お気軽な三笠宮
次のページは、秩父宮がドラモンド将軍夫妻と談笑している写真が掲載されています。
秩父宮は昭和天皇の弟なのです(*'▽')
秩父宮と勢津子夫人
出典: http://kyukouzoku.web.fc2.com
秩父宮はこの当時、イギリスに留学しており、イギリス軍の軍人であったドラモント将軍の家にホームステイしていたのです。当時秩父宮は23歳、英語がペラペラだったのです。
兄の昭和天皇は、学者肌タイプでインドア派でしたが、弟の秩父宮は反対にスポーツマンタイプで破天荒な人物だったとされています。ラグビーがお好きで、その振興に大きく貢献なさっていました(東京都港区に″秩父宮ラグビー場”というラグビー競技場があるほど)
残念ながら、秩父宮は1953年(昭和28年)に50歳の若さで亡くなっています。肺結核を患っていたのです。勢津子夫人との間にお子さんは出来ませんでした。
まあお兄さんの昭和天皇は88歳まで生きていたし、弟の三笠宮に関しては2016年までご存命だったし(100歳で逝去)、他の兄弟は割と長寿だったんですけどね(´・ω・`)
第11回全国中等学校野球大会
「全国中等学校野球大会」とは、いわゆる現在の「夏の甲子園」なのです。
戦前と現在では、学校の仕組みが違っていて、「当時の中等学校=現在の高校」と思ってもらっていいです(厳密には違うけど)
この前年に甲子園球場がオープンし、球児たちの聖地になりました。当時は「甲子園大運動場」って言ってましたが…
決勝戦は、香川県代表高松商業VS東京都代表早稲田実業の試合で5対3で、高松商業が初優勝しました。
ちなみに、現在と違って小学校を卒業すると、それ以降の教育は男女別学でした(男子は旧制中学校、女子は高等女学校)。
つまり、現在ではありがちな「女子マネージャーとアレしたりコレしたり(´・ω・`)」などは皆無であり、非常に男臭いものだったと思われます。
乳児の教育(子供の育て方)
前ページまで、皇族がどうのだとか野球大会についてとか掲載してたのに、いきなり『ひよこクラブ』みたいな記事を載せてきました。
おそらぐ同じ赤ちゃんの、生後すぐから生後1年の写真を順番に載せてます。
乳児の体重について解説がしてあります。
「生下時(産まれた時)の男児の体重は3000瓦(およそ800匁)、女児の体重は2800瓦(およそ750匁)」
単位がちょっと何言ってるのか分かんない(´・ω・`)
「瓦」はグラムって読みます。グラムってこの漢字を使うんですね。
「匁」はもんめって読みます。1匁=3.75グラムです。すなわち男児なら、3.75グラム×800=3000 で記事中の数字は合ってますね。
まぁ、グラムの重さ書いた後にカッコとじで匁の重さを書いてるってことは、当時のお母さんからしたら『はぁ?グラムって何なん?もんめで重さ表現しろや(´・ω・)』って時代だったのでしょう。現在では、もんめって言われてもピンと来ませんもの。
産まれてから1歳までの体重早見表が載ってます。
記事には、1歳になるまでの各時期に適切な体重を知る公式みたいな物が載ってます。
○生後すぐ〜生後6ヶ月までの適切な体重
→産まれた時の体重(グラム)+600グラム×月数
○生後6ヶ月〜生後1年
→産まれた時の体重+500グラム×月数
また、産まれた時の体重が少なすぎると死んじゃう可能性が高まるという点についても触れられています。
「生下時の体重が1500グラム以下のものは、多くは助からぬ。生まれた時の体重によって死亡する割合が違うが、その関係性を書けば」
と、その割合を次のように表示しています。
1000〜1500グラム→死亡率80%
1500〜2000グラム→死亡率36%
2000〜2500グラム→死亡率21%
子供の育て方以前の問題な気がしますがそれは…(´・ω・`)
産まれた時の体重が2500グラム以下の新生児を「低出生未熟児」といいます。
あくまで100年近く昔の話なんで、現在の状況を調べると、1000グラム以下で産まれてきても91.6%は無事生存しています(2003年~2007年のデータ)
少なくとも1500グラムあれば、ほとんど大丈夫です(=´∀`)
そして、肝心なことですが体重なんかについては、「個人差があります」。100年前の記事を鵜呑みにされませんよう(・∀・)
まとめ
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また近いうちに、後半部分をお届けします(後半部分は、なぜか知らないけど色っぽくなります)
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